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ギリシアの知恵、イタリアの誇り

 1067年5月下旬 イタリア フィレンツェ ジャン=ステラ・ディ・サヴォイア(13歳)


 マティルデと僕の長女であるベアトリクスが一心不乱におっぱいを飲んでいる。


「たくさん飲んで、大きくなぁれ」


 僕がほっぺをつつくと、ベアトリクスはちょっと嫌がりながらも、口はおっぱいから離さずにいる。


「あらあら、ベアトリクスたら、くいしんぼさんねえ。誰に似たのかしら」


 コロコロと鈴がなるような声でマティルデが笑っている。


 マティルデと僕は、そんな様子を笑いながら見守っていた。


 うーん、なんて幸せな日々なんだろう。


 そこに広がる親子水入らずの光景……。

 にならないのは、中世だからか、それとも貴族だからなのか。


 ベアトリクスがしゃぶっているのはマティルデのおっぱいではなく、乳母のおっぱいだったりする。


 片胸をぽろーんと出している乳母のおっぱいを吸っているベアトリクスを、マティルデと僕が眺めている。


 他人の奥さんのおっぱいを我が子が吸ってる光景って、ちょっと複雑な気分になる。

 見ちゃいけないものを、堂々と見せられてるような、そんな妙な感覚。


 マティルデに「なに他人のおっぱいみてるのよ。いやらしいわねぇ」なんて言われないかとヒヤヒヤもので、なんとも落ち着かない。


 ……だったのは最初だけで、今はもう慣れちゃった。


 別に乳母は乳房を見られることを恥ずかしがっているわけではない。


「わたくし、乳母の仕事をちゃんとしておりましてよ」

 なんて、むしろ授乳している姿を僕に誇示するかのようだったりする。


 マティルデに言わせると、次のようであるとのこと。


「教会にマリア様がイエス様に授乳されている絵が飾られているでしょう? 授乳は神聖な行為で、えっちな目で見るキリスト教徒なんていないわよ」


 そ、そう? まぁ、マティルデがいいなら、僕はいいけど。


「それともなに? 乳母じゃなくて、私がベアトリクスに授乳しているのをジャン=ステラは見たかったの?」


「確かに見たくないこともないけれど……」


 ちょっとだけ、マティルデの胸をツンツンしながら、次の言葉を続けた。

「でも、マティルデは次の子が早く欲しいんでしょ?」


「ええ、授乳していると妊娠できないものね」


 ちょっといい雰囲気になってきたけど、今はお昼間だからね。


 とはいえ乳母と護衛の視線に(さら)されながらいちゃつくのも慣れたもの。なにせ、初夜だって監視されてたもの。これくらいの視線を気にしてなんていられない。



 それはそうと、マティルデが上機嫌な間に、ちょっとお願いしたことがあるんだ。


 上目遣いでマティルデに声をかける。


「ねぇ、マティルデ。ちょっといいかな?」


「えっ、昼間から? ジャン=ステラったら、また大胆なんだから……」


 顔を赤らめたマティルデが、まんざらでもないという感じで、僕の服の端を掴んできた。


 うぐっ。勘違いさせちゃった。


 顔を真っ赤にして、うつむきながら僕の袖をそっと掴むマティルデ。ちらっと上目遣いに僕を見るその仕草が、なんともかわいい。


 いつもはあんなに堂々としてて、年上のお姉さん然としてるのに、こういう照れ方されると、もう、惚れ直しちゃう。


「ごめんごめん、そっちの“お願い”じゃなくてさ。ちょっと真面目な話なんだけど……」


 僕は一呼吸おいてから、目を合わせる。


「村を5つ、貰えないかな?」


 マティルデが一瞬まばたきをして、それから軽く目をそらした。ほんのり赤くなった頬を押さえるように指先で髪をかき上げ、苦笑まじりにぽつり。


「……まったく、真面目なお願いなら、最初にそう言ってよね。こっちが勘違いしたみたいで恥ずかしいじゃない」


 でも、その声にはほんの少し、拗ねたような響きが混じっていた。


「村? いいわよ。でも急にどうしたの? 何に使うつもり?」


「フィレンツェに学校を作ろうと思ってさ。教授の地位に箔付けするために、村の領主として貴族扱いしたいんだ」


「そうね……。村を使うのはいいわ。でも教えて。なぜ今さら、学校を作りたいの?」


「アレクちゃんを僕の手で鍛え直そうと思うんだ」


 僕の大切な娘ベアトリクスの婚約者なのだから、それなりに学問を納めてもらわないとね。


「とはいっても僕も忙しいから、代わりに教えてもらう人を正式に教授として雇いたいと思ってるの」


「それはいいけど、ジャン=ステラの代わりに誰がアレクに教えるの? あなたが忙しいのはわかるけど、代わりが務まる人なんている?」


 マティルデが心底不思議そうに聞いてきた。


 僕の教育能力を高く評価してくれていることがわかってちょっと嬉しい。前世で高校の先生を務めていた甲斐があったなって思っちゃう。


「僕の知識に関しては、イシドロスたち新東方三賢者に任せるつもり。

 僕が作った教科書を写本しているし、聖職者なんだもの。教育にも向いてるはずだよ」


 長年、僕の近くで学んできたイシドロス達は、その人格も折り紙つき。

 安心してアレクちゃんの教育を任せられる。


 さらに、ここフィレンツェには、コンスタンティノープルの帝都大学で教授を務めていた人材だっている。


「あとは、アレクちゃんの随行員をしているヨハネスとピサネロの二人を考えているところ」


 ヨハネス・イタルスは錬金術に優れた知見を持っているから、化学の知識を受け持ってほしい。


 そして、ピサネロ・ゲオルギオス。ちょっと偏狭なおじさんだけど、数学の知識は本物。僕が微分・積分を教えたら、すぐに理解してくれた。この調子で惑星運動とかの天文学を発展させてくれるといいな。


「うーん。悪くはないんだけど……」


 マティルデは眉間に皺を寄せながら、僕の挙げた名前をもごもごと反芻(はんすう)している。


「みごとにギリシア人ばかりよね」


 たしかにマティルデのいう通り。イシドロス達、そしてニコラス、ヨハネスにピサネロと全員ギリシア人だ。


 古代ローマの昔から「家庭教師といえばギリシア人の自由奴隷」と相場が決まっているしなぁ。


「仕方ないんじゃない? 彼らは優秀だし、僕の知識を一番理解してるんだもの」


 肩をすくめつつ僕がそういうと、マティルデは首を振ってきっぱりと言った。


「それではだめよ、ジャン=ステラ」


「えっ、どうして?」


「政治的な軋轢(あつれき)を生みかねないのよ」


 マティルデの声は、感情を抑えた理知的な響きに変わっていた。


「イタリアはローマカトリック教会の地なの。

 そして、彼らはみんな東ローマ帝国のギリシア正教会出身……。


 十数年前にローマとコンスタンティノープルの間で決定的な対立があったことは知っているかしら?」


 僕が生まれた頃、ローマ・カトリック教会とギリシア正教会が相互に破門しあった事件があった。

 まぁ、宗教って面倒だよね、いろいろと。


「うん、知ってるけど……それって、大学設立と何か関係ある?」


 思わずそう返してしまったけれど──

 正直、そこまで深刻な問題になるなんて、思ってもみなかった。


 大学っていうのは研究し、勉強するところであって、政治の舞台じゃない。

 ……少なくとも、前世では。


「もちろんあるわ。


 フィレンツェで設立される新しい学校が、ギリシア人の教授ばかりだったらどう見えると思う?


『東ローマ寄りの思想を広める場』だって、そう見做(みな)されかねないわ」


 そう言ってマティルデは静かに息をついた。


「教皇庁の目が光っている今、そのような疑いをかけられるのは、わたしたちにとって大きなリスクになるの。


 ましてや、あなたは預言者として注目されている立場じゃない。ほんの些細(ささい)な誤解が命取りになりかねないのよ」


 そういえば、ローマ教皇庁から異端審問を受けそうになった過去があったっけ。


 ここで『東ローマ寄り』なんてレッテルを貼られたら、面倒なことになるかもしれない。


(まぁ、今さらな気もするけど……)


「それに……」とマティルデは苦笑した。


「トスカーナの家臣たちが、ギリシア人ばかりが教授になったと聞いたら、どう思うかしら?」


「……やっぱり、面白くはないだろうね」


「ええ。彼らの忠誠心は尊いけれど、誇りも強いの。いくらあなたが預言者であっても、故郷の人間を差し置いて異国の者ばかりを重用しているように見えたら……不満の火種になるわ」


 マティルデは、僕の目をじっと見つめた。


「だから、お願い。せめて一人は、信頼できるイタリア人を入れて」


 それがいないんだよねぇ。計算だけならピエトロお兄ちゃんは結構できたけど、研究や研究者となると心許ない。


 そもそも、サルマトリオ家みたいに計算がお家芸になってしまうようでは知識や技能を積極的に広める動機がないもの。


「強いてあげるなら、医者のトロトゥーラはどう? 出産を手伝ってくれたからマティルデも覚えているでしょう?」


「うーん、トロトゥーラねぇ。トリノ出身でもトスカーナ出身でもないのよね」


 トロトゥーラはイタリア南部のサレルノ出身。マティルデにとっては、トリノやトスカーナが位置する北部・中部とはあまり縁のない土地なのかもしれない。


 そんなことを言われても、教えられる人がいないんだから仕方がないよねぇ。


「教えられるイタリア人が必要なら、育てるしかないんじゃない?」


 お手上げとばかりに、ちょっと投げやりに開き直った僕の言葉だったけど、どうやらマティルデのお気に召したらしい。


「あら、ジャン=ステラ。それはとってもいい考えだわ。


 将来イタリア人が教授として活躍できるよう、今から布石を打っておくのは大事なことよ。


 それに預言者のあなたがいるんですもの。トスカーナにも大学の一つや二つ、あって然るべきだわ。


 うふふ、楽しみにしてるから……あとはお願いね、ジャン=ステラ」


(えー、僕に丸投げ? まぁ、いいけどね)


 かくして僕はフィレンツェに大学を設立することになったのでありました。


 でも……。せっかく大学を作るなら、学問だけじゃもったいないよね。


「あ、そうだ。せっかくなら、貴族の教育だけじゃなくて、僕を支えてくれる文官や武官も育てちゃおうかな。そして、いっそ料理学なんてのも作っちゃう? 


 美味しいピザ、食べたいなぁ」


○フィレンツェ大学 設立メンバー

学長:ミカエル・プセルロス


筆頭教授:イシドロス・ハルキディキ

 准教授:イートキア・アデンドロ

 助手: ニコラス

地学・農学・預言編纂(へんさん)担当


教授:ヨハネス・イタルス

 准教授:バシリオス・ペトロス

理科担当


教授:ピサネロ・ゲオルギオス

 助手:カリオピ

数学・天文学担当


教授:トロトゥーラ・ディ・サレルノ

 准教授:マテウス・ディ・サレルノ

医学・薬学担当

欧州で授乳が恥ずかしい行為となったのはルネサンス以降のようです。

「授乳の聖母」という分野があるくらい、授乳は神聖な行為だったのだとか。



マティルデがその生涯において教会に寄進した村の数は300村くらいあります。そもそも寄進の単位が村なの?!「大貴族様ってすごいねぇ」との感想しか出てこないのです。


イタリア最古の大学は1088年のボローニャ大学です。現存する最古の大学という価値はありますが、コンスタンチノープルには帝都大学があるので、別に特筆するほどの存在ではないと感じています。

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― 新着の感想 ―
気づくの遅れましたが更新再開ありがとうございます! お姉ちゃんと結婚したことで政治的な死角も埋めれそうだし、鬼に金棒って感じだなぁ。 続きも楽しみにしています。
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