第262話 生まれながらの婚約者
1067年5月初旬 イタリア フィレンツェ ジャン=ステラ・ディ・サヴォイア(13歳)
「ジャン=ステラ様、お子様が産まれました!」
「マ、マティルデは無事?」
「ご安心ください、お二人とも無事です。 本当におめでとうございます!」
分娩のため産室へとマティルデを見送ったあと、落ち着かないまま僕はずっと執務室をうろうろしていた。
何度も部屋の隅を行ったり来たりする。
執務机に向かってみても、書類の文字が目に入らない。
何か口にしようと水を飲んでも、喉が張り付いたままのようだった。
「ジャンお兄ちゃん、少しは落ちついたら?」
十歳のアレクちゃんにそう指摘されるまでもなく、僕だってそんな事わかってる。
でもね、落ち着かないんだもの。
時間だけが、やけに遅く感じられる。
「そんなこと言われたって無理。だって、マティルデは初産なんだよ。初産は難産になりやすいし、落ち着けるわけないじゃない!」
マティルデとは1ヶ月前から、「ひっひっふぅ」のラマーズ呼吸法を一緒に練習してきた。
「子供を産む時には、ヒッヒッフーって呼吸するんだよ。そうしたら赤ちゃんの頭が出てきやすくなるからね」
「ジャン=ステラ、それって本当なの? 私、初めて聞いたわよ」
「ラマーズ法を使って出産するのはマティルデが最初にかもしれないけれど、出産が楽になるのは本当なんだよ。お願いだから僕を信じて、ね」
大きく膨らんだお腹を大切そうに撫でているマティルデの目を、僕は真剣に見つめた。
出産って命懸けなんだもの。少しでも安全な出産になるよう、手は打っておかないと。
「ふーん。まぁ、ジャン=ステラがそういうなら信じるわよ。でも、ラマーズって名前はどこからきたの?」
「さぁ?」
マティルデの質問に僕は首をかしげた。ラマーズの由来ってなんだろう? 人の名前かな?
「なによ、もう。頼りないわねぇ」
そう言ってくすくす笑うマティルデにつられて僕も笑った。
産気づいた直後は、マティルデも僕もまだ余裕があった。
「大丈夫よ、ジャン=ステラ。あなたがいるから私、安心して子を産めるもの」
なんて、笑ってさえいた。
だけど、時間が経つにつれて、そんな余裕は消えていった。
産室からは、痛みに耐えるマティルデの低いうめき声が時折聞こえてくる。
侍女たちが慌ただしく動く気配が、執務室にいても感じられる。
(……大丈夫だよな?)
そう自問するたびに、脳裏をよぎるのは、トロトゥーラの姿だった。
トロトゥーラ・ディ・サレルノ。
僕に弟子入りしている女医師で、4年前から僕の医学知識を吸収し続けてきた人物だ。
「あなたは神の預言を授かったお方。どうか、その知識を私にも分け与えてください!」
初めて会ったとき、彼女はそう言って頭を下げた。
僕が持っているのは前世の知識だが、彼女にとっては神の導きだった。
それでも、彼女が熱心に学び続けてきたのは事実だ。
石鹸による手洗い、アルコール消毒、器具の煮沸消毒。
これらの知識を、彼女は着実に身につけていった。
そして今、彼女は産室にいる。
マティルデのそばで、彼女のために全力を尽くしてくれているはずだった。
「ジャン=ステラ様、ご安心を。私がマティルデ様をお守りします」
そう言って微笑んだトロトゥーラの顔を思い出す。
彼女のことは信じている。
それでも……
(……どうか、無事でいてくれ)
僕はただ、祈ることしかできなかった。
大丈夫、大丈夫。きっと大丈夫。できるだけの準備はしてきたんだもの。
マティルデの出産を少しでも安全にしたくて、僕はいろいろと頑張った。
僕に弟子入りしているトロトゥーラ・ディ・サレルノという女医師には、僕の知っている出産に関する知識をできる限り伝えた。
石鹸で手を洗い、さらにアルコールで消毒すること。
そして、出産に使う器具は煮沸消毒すること。
この2つを実施するだけで、死亡率は下がるはず。
だから蒸留酒の生産量を削ってまでも、消毒用のアルコールをたくさん準備した。
そのアルコールで産室も消毒した。
「もちろん、ジャン=ステラのことは信じているわよ。だって神の知識を授かった預言者ですものね」
正確には神の知識ではなくて、前世の知識だけどね。
僕、ジャン=ステラは21世紀の日本で暮らしていた記憶を持ったまま、中世イタリアに生を受けた。
妻の安全な出産のためだもの。「今ここで前世の知識を使わずにどうする」とばかりに頑張った。
だからラマーズ法を妻と一緒に練習していることを知られても、恥ずかしくもなんともない。
むしろ、あえて口にしている。これから出産を迎える女性たちが、少しでも安全に出産できるように。
――そんな願いを込めて。
「ねえ、生まれたのは男の子? それとも女の子?」
産室から吉報を届けてくれた侍女にアレクちゃんが質問した。
侍女はにっこりと微笑みながらも、どこかぎこちない声色で教えてくれた。
「姫君でございます」
その返答に、部屋の一角からわっと歓声があがる。
婚約者となるアレクちゃんを中心に、ギリシア出身の者たちが喜びの声をあげていた。
「やったぁ、僕のお嫁さんが生まれたよ!」
アレクちゃんがぴょんと跳び上がる。
彼にとっては、この誕生は単純に喜ばしいことなのだろう。
なにせ――
僕とマティルデとの間に生まれた最初の女児は、アレクちゃんに嫁ぐという約束を交わしているのだから。
生まれる前から婚約するなんて!と思わなくもないけれど、マティルデにとっては喜ばしい良縁だったらしい。
「だって、アレクって東ローマ帝国前皇帝の甥なのよ。将来の皇帝陛下かもしれないじゃない。いえ、アレクを皇帝になれるよう育てればいいのよ!」
いやいや、マティルデさん、それはいくら何でも無茶振りが過ぎませんか?
「ジャン=ステラは知らないの? 東ローマ帝国では、力が強いものが帝位につくのよ。コムネノス家のアレクなら資格は十分にあるわ」
聞くところによると、東ローマ帝国の皇帝位は世襲ではなく、実力者が就くことが多いらしい。
特に今はセルジュークトルコが東ローマ帝国を軍事的に圧迫しているため、軍閥貴族であるコムネノス家の権勢は上昇中なのだとか。
「ふーん。まぁ、アレクちゃんが皇帝になりたいなら、別に止めはしないけどさ」
「なによ、ジャン=ステラ。煮え切らないわねぇ」
だってねぇ、皇帝になったってピザが食べられるわけじゃないし。
地位を貰っても忙しくなるだけで全く嬉しくない。
実際、マティルデと結婚してトスカーナ辺境伯になった途端、戦争に次ぐ戦争に駆り出されちゃったもの。
そんな会話の向こうで、トスカーナ出身の家臣たちは、静かに顔を見合わせると、そっと俯いた。
喜びの喧騒の中に、わずかな沈黙が混じる。
(……ああ、そういうことか)
その理由を、僕は理解した。
マティルデはトスカーナ辺境伯唯一の血統継承者。トスカーナ辺境伯の血統を繋げるためには、跡継ぎとなる男児の誕生が強く望まれていたのだ。
だからこそ、侍女の声色は微妙に固く、イタリア出身の者たちは浮かない顔をしている。
もし今後も男児が生まれなければ、トスカーナ辺境伯領がギリシアのコムネノス家に飲み込まれる可能性もある。
たとえ今すぐ領地を奪われるわけではなくても、マティルデに男児が生まれるまでは、婚約者であるアレクちゃん、ひいてはギリシア勢の影響力が強まることは避けられない。
当然、トスカーナの家臣たちは面白くないはずだ。
(戦争だけでも大変なのに、家臣の統制まで……。やっぱり辺境伯って楽じゃないなぁ)
けれど、僕にとっては、マティルデと子供が無事でいてくれることこそが何よりも大切だった。
それに、女児の誕生がすぐに悪いことになるとは限らない。
少なくともアレクちゃんは、大喜びしてくれているのだから。
(まあ、その話は後で考えよう)
今はまず、出産という大仕事を終えたマティルデの元へと赴こう。
ご無沙汰しております。宇佐美ナナです。
本話を投稿した今日は連載開始から3年目の記念日です
これにあわせ第二部を書きはじめました☆
お楽しみいただけましたら幸いです