非常識な戦場
【ジャン=ステラと遭遇した日の朝】
1065年7月下旬 アルプス山中 セプティマー峠 髭公ゴットフリート三世
「ゴットフリート様、セプティマー峠の北側で休息中の部隊を発見しました。約200名です」
先行していた偵察隊から、軍勢発見の報告を受けた。
またか。まあ、傭兵だろう。そう思いつつ報告者に尋ねる。
「どこの軍だ? 軍旗は確認したか?」
「軍旗は掲げられておりません。傭兵かと思われます」
「よし、ご苦労だった。下がってよし」
200名と少し多いが、傭兵なら無視でよかろう。
俺は2000の軍を率いている。200名の傭兵が兵力差を無視して襲いかかってくることなどないだろう。
実際、フィレンツェからここに来るまでの間にも三度、傭兵部隊と遭遇している。だが、いずれも我が軍を避け、逃げていった。今回も同じだろう。
この時はそう思っていた。楽観的であったと認めざるをえない。
なにせ、俺は浮かれていた。
故郷の地、ロートリンゲンに戻れるのだ。それも大公として。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
2ヶ月前、下ロートリンゲン大公フリードリヒ一世が死んだ。その爵位を俺が継ぐことになったのだ。
ーー父祖の地を追われて18年間。なんと長かったことか……。
18年前、俺は上ロートリンゲン大公であった。しかし、先帝ハインリッヒ三世にその地位を奪われた。
その後、後妻の縁でトスカーナ辺境伯になったものの、悔しさを抱えたまま生きてきた。
ロートリンゲンに返り咲けるとの知らせを受け取ったのは、先月の中旬だった。
ハインリッヒ四世から書状を受け取った俺は涙した。
ハインリッヒ三世に受けた屈辱。その息子であるハインリッヒ四世に媚びへつらう悲哀。脳裏に様々な思いが浮かんでは消え、また浮かぶ。
だが、その苦労がようやく実を結んだ。嬉しくないはずがない。
それでも万感の思いに涙が止まらぬのだ。
ーーあぁ、ついに。俺は、俺の血統にふさわしい爵位に就けるのだな。
義娘の代役としてのトスカーナ辺境伯ではない。俺の体に流れるアルデンヌ家の血。その血統に相応しいのは、ロートリンゲンの土地なのだ。
だから、俺は決意した。トスカーナからロートリンゲンへ宮廷を移そう、と。
これにより、トスカーナ辺境伯の地位は俺にとって不可欠ではなくなる。
ーーロートリンゲンのブイヨンに着き次第、息子と義娘のマティルデを結婚させるとしよう。
俺はロートリンゲンを治め、息子にはトスカーナを治めさせる。
そして、トスカーナの正統後継者であるマティルデには、ブイヨンの宮廷にいてもらえばよい。まあ、体のいい軟禁だな。
カノッサ家唯一の継承者がブイヨンにいれば、トスカーナの貴族どもが反乱を起こすこともあるまい。
ーーそれに、これでようやく、ジャン=ステラにマティルデを奪われる心配もなくなる。
トリノ辺境伯アデライデの息子のうち、上の三人は無欲で大人しいというのに。なぜ、四男のジャン=ステラだけが、あれほど権力欲に取り憑かれているのか。
九歳も年上のマティルデに求婚するなど、トスカーナ辺境伯の地位が欲しくて欲しくてたまらないと公言しているようなものではないか。
アオスタ伯に加え、カナリア諸島王という王位まで手にいれたというのに、いまだにトスカーナ辺境伯の爵位を狙ってやがる。
まあ、カナリア諸島などという、どこにあるかもわからぬ土地に比べたら、トスカーナは裕福だからな。欲ボケのジャン=ステラが狙うのも分からんでもない。
ーーだが、断じてお前になどにやらん!
トスカーナの富は、アルデンヌ家のものだ。ロートリンゲンの発展のため、俺が効果的に使ってやろう。
数年もたてば俺様は強大になる。トリノ辺境伯も容易に滅ぼせるにちがいない。
ジャン=ステラよ、ロートリンゲンとトスカーナの合同軍の前に膝を屈するがよい。
まぁ、命だけは保証してやる。ただし、一生、蒸留ワイン・勇者の証を俺に献上することを約束させるがな。
俺は愉快な将来像を思い描きながら、お気に入りの蒸留ワインを喉に流し込んだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ゴットフリート様、急報です! 山の上に騎馬隊が展開し、我々の進路を塞いでいます。先ほどまでセプティマー峠にいた傭兵と思われます」
なんだと! なぜ傭兵が俺たちの軍を襲うのだ。
「部隊の規模は? それに本当に傭兵か? 軍旗は確認したのか!」
「騎兵約150。トリノ辺境伯アデライデ様の紋章である、青地に金の雄牛の軍旗を掲げています」
「トリノのばばぁの紋章だと? それなら傭兵ではないだろう! 報告は正確にせんかっ!」
なぜ、こんなアルプス山中にアデライデがいるのだ。
俺がフィレンツェを出発する時には、トリノ城館にいた。
それに、トリノ辺境伯の軍勢は、サルディーニャ島を攻撃しているはず。
トスカーナからの独立を餌に、トリノ軍を引き付けるようピサに命じたのだ。実際、アルベンガの港から軍勢が出港したとの報告も受けている。
いったいどういう事だ。
「ゴットフリート様、確かにトリノ辺境伯家の紋章を掲げていました。しかし、軍旗はその1本しかありません。
その軍は騎兵だけであり、歩兵・弓兵はおろか、荷駄隊も確認されていないのです。
トリノ辺境伯家当主の軍と偽装した傭兵と判断しました」
「確かに、お前の言う事にも一理あるな……」
軍旗が1本というのは不自然にすぎる。辺境伯家当主の軍なら、貴族の旗が数十本は掲げられていないとおかしい。
それに、あのババアがここに居て、俺の軍を待ち構えているとしても、150騎では数が少なすぎる。
さらに、トリノからここに兵を送るには、大量の糧秣が必要になる。全てを略奪で賄うわけにも行くまいて。
「まぁ、よいわ。俺の前に立ちふさがるなら誰であろうと叩き潰すまでのこと」
さて、傭兵どもめ。どう始末してやろう。
そうだな。まずは、山上に布陣している敵の利点を潰そうか。
「山上の軍に使者を出せ! あくまで時間稼ぎに徹しろ」
稼いだ時間で傭兵を敵陣の横に回り込ませる。包囲が完了次第、矢を打ちかける。
傭兵相手に情けは無用。偽旗をつかった事を後悔させてやる。
次は、やぶれかぶれに突撃してくる騎馬隊への対応だな。傭兵の弓で逃げなかった場合、我らを目掛けて突撃してくるやもしれぬ。
山の高さを利用した一方的な突撃は脅威といえば、脅威だが……。
まぁ、対処法は簡単だな。ザマの戦いにおけるハンニバルの象だと思えばいい。ローマの将軍スキピオは象の突撃を受け流して勝利した。
騎馬突撃の勢いを受け止めるのではなく、山の下へと受け流してやればいい。
「敵の騎馬隊が山上から突撃してくるが、恐れるな。あの突撃は一度きりだ。馬車を盾にし、しっかりと防御態勢を取れ!」
山を下りた敵は高さの利を失い、こちらが有利な地形を手にする。あとは敵に十倍する軍勢という数の利を生かして追撃し、殲滅するのみだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
なぜだ、なぜだ、なぜだ!
なぜ、ここにジャン=ステラがいる!
おまえは今頃、サルディーニャ島にいるはずだろうが!
それよりも、いったい何事だ。
「神の炎が地上に顕現いたしました」
敵陣から戻ってきた使者、そして傭兵が口をそろえて主張した。
俺のいる場所からも見えた2つの火柱。いまも黒煙が空に残っており、ものが燃える嫌なにおいが辺り一面にたちこめている。
ーーあれが神の炎、なのか?
黒く染まりゆく空は、俺たちの未来を暗示しているかのよう。
不吉な光景が皆の心に重くのしかかり、陣中は静まり返っている。
そんな中、俺の横に控えていた聖職者のつぶやきが、やけに大きく響いた。
「この戦場は神が見守っておられます。戦場の作法にもとる行動には神罰が下されるのかもしれません」
俺を非難してどうするというのだ! この馬鹿者めが!
この聖職者の浅はかな発言が、我が軍にさらなる動揺を広げていく。
……ジャン=ステラ……預言者……神の御業……
まずい、まずい。非常にまずい。
ジャン=ステラが預言者であるという噂に、俺の軍は想像以上に汚染されていたようだ。
この不安と動揺の連鎖を何としてでも食い止めなけれならぬ。そうしなければ、軍が崩壊しかねない。
実際に今、ジャン=ステラに攻められたら我が軍は一瞬で負けるだろう。
何か打開策はないものか。だが、焦りが募るばかりで、良い案が浮かばない。
そんな時、ジャン=ステラの使者が一騎打ちを提案してきた。
俺はその提案にすがるように、即座に飛びついた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
一騎打ちの最初の三人は、無念にも敗れた。
「ぐぬぬ……たのむ、次こそは勝ってくれ」と、神に祈る。
一度でいい。一度勝てばいい。ただそれだけで、俺たちに染みついた「勝てない」という思いを拭い去れる。
相手が神に守られた無敵の軍隊ではないことが、誰の目にも明らかになるだろう。
そして、神に祈りが届いたのか、ついに四人目の騎士が勝った!
誰もが口々に叫んだ。「勝ったぞ!」と。歓声が一斉に上がり、その声が空気を震わせる。
「勝てない」という不安は、まるで霧が晴れるように消えた。兵士らの目には、もう「負けるかもしれない」という不安はない。その代わりに、戦い抜けば勝てるという確信が輝いていた。
「この戦、勝った!」
兵数は敵に十倍するのだ。敵軍に一方的な神の加護がなければ、俺たちが負けるわけがない。
さきほど見た「神の炎」とやらは、ジャン=ステラが流した悪質な欺瞞工作だったのだ。
ーージャン=ステラめ、ざまぁみさらせ。俺の目は誤魔化そうとしても無駄だ。
神の炎はうそ。神の加護もうそ。そして、ジャン=ステラ、お前が預言者だというのも嘘。
お前がついた全てのうそを、俺が、今ここで暴いてやるわ!
だが、俺が高揚感に身を委ねられたのは、ほんの束の間でしかなかった。
四人目の勝利を収めた騎士が、皆から祝福を受けていたその騎士が、突如として炎に包まれたのだ。
「これは神の炎だ…」
誰かが震えながらつぶやく。勝利に歓喜していたはずの兵たちは、今や呆然と立ち尽くし、心が恐怖に染められていく。
「この一騎打ちは勝ってはいけなかったのか?」
「神は我らの敗北をお望みなのか……」
「勝てば神罰が下る……。俺たちは、どうすればいいんだ……」
兵士たちのささやきは次第に広がり、全軍を深い無力感が覆っていく。
まるで、勝利が許されないという呪いにかかったかのようだった。
そして、誰もが心の中で考えただろう。「次は自分が神の罰を受けるのではないか……」と。
誰かが叫び、誰かが逃げ出せば、全軍は崩壊するだろう。恐怖が彼らを押し潰そうとしていた。何かほんの小さなきっかけがあれば、あとは無秩序な敗走が始まるに違いない。
俺の護衛ですら、顔面蒼白に震えている。この状況で、誰かに頼るなど、もはやあり得ないだろう。しかし、ここで怯むわけにはいかない。俺はもう、やるしかないのだ。
「腹を括るとするか……」
重く呟いた瞬間、俺の中で何かが弾けた。
「くっ、くっ、くっ」口元からこぼれたのは怨嗟に満ちた暗い笑い。俺は覚悟を決めた。この場を好転させるには、ジャン=ステラを殺すしかない。
そうだ、殺してやればいい。あいつが預言者などではないと証明するために。
死ぬ者が預言者であるはずがないのだ。そうすれば、俺が神の炎に焼かれることもない。
「一騎打ちには俺が出る!」
俺は勢いよく立ち上がり、宣言した。自分の運命は自分で切り開いてやろう。
槍の腕には自信がある。10歳のガキに一騎打ちで負ける道理などないのだ。
「蒸留ワインを、勇者の証を持って来い!」
「ゴットフリート様、馬上槍ではなくお酒、ですか?」
問いかけてきた近習を、俺は鋭い目で睨みつけた。
「黙れ!余計な口を挟むな!」
近習は一瞬たじろいだが、すぐに姿勢を正した。
俺はその間に震える手を背中に隠す。手先の震えが止まらない。これでは槍をまともに握れない。
(なぁに、大丈夫。久しぶりの一騎打ちを前に少し興奮しているだけだ。いつも通り、酒を飲めば震えも止まる。そうだ、いつも通りだ……)
自分にそう言い聞かせながら、グラスいっぱいの蒸留ワインをぐいっと流し込み、俺は馬上の人となった。
「ジャン=ステラ、出てこい! 俺が一騎打ちの相手になってやる!」
ザマの戦い(紀元前202年)
古代ローマとカルタゴが争った第二次ポエニ戦争。その決定的な戦いがザマで行われました。この戦いでローマの将軍スキピオは、カルタゴの名将ハンニバルを打ち破り、ローマの勝利を確定させました。
スキピオはローマ軍を独特の陣形に配置しました。彼はローマ軍の部隊を長方形の形に並べ、あえてその間に大きな隙間を作ったのです。これは、ハンニバルが戦場に投入した象兵の突撃を狙ったものでした。象たちが突進してきてもローマ兵は動きません。陣と陣の間の隙間に象を通り抜けさせることで、象兵の破壊力を無効化しました。この巧妙な戦術が功を奏し、ローマ軍は勝利を手にしたのです。