消えない炎
1065年7月下旬 アルプス山中 セプティマー峠 ジャン=ステラ
「な、なぜだ。水をかけても火が消えないぞっ!」
すこし離れた急斜面を傭兵たちが登っている。
その真っただ中に突然、太い火柱が立ち上がった。真っ赤な炎が山肌を焼き、どす黒い煙が勢いよく青空へと昇っていく。
僕の命令を受けた従者のファビオが、ギリシアの火の詰まった壺を崖上から投げ入れたのである。
「ぎゃー、熱い」
「なんだっ! 何が起きた」
「火だ、火がついた。マントが燃えてる。だ、だれか消してくれー」
何人かのマントが燃えていたり、頭髪に火がついているのが遠目にも見える。
僕たちを包囲しようとこっそり行動していた傭兵たちだったが、炎の攻撃の前に隠れることを放棄したみたい。
「水だ、水をかけろー。全員、水筒の水を使え、早く火を消せっ!」
慌てている傭兵の中にも冷静な判断を下せる者もいたようで、指示を飛ばす声が風に乗って聞こえてきた。
でもね、無理なんだよ。水をかけたくらいで「ギリシアの火」は消えない。
一度火が着くと、海面でも燃え続ける。これこそが、東ローマ帝国海軍が誇る秘密兵器『ギリシアの火』の威力なのだ。
水をかけても火は消えず、逆に被害が広がっていく。瞬時に蒸発した水蒸気がギリシアの火を飛び散らせ、その炎が周囲の者のマントに燃え移る光景が、僕の目に飛び込んできた。
「ぎゃー、水をかけたら炎が大きくなったぞ!」
「俺のマントにも火がついた、だ、だれか助けてくれ~」
火を消そうと集まってきた傭兵たちのマントや服、そして髪が燃えていく。
あーぁ、ほらね。いわんこっちゃない。水をかけちゃだめなんだよ。
傭兵たちは大混乱したあげく、逃げることに決めたらしい。
「撤退、撤退ー。水のあるところまで戻れー」
ーーふぅ、よかったぁ。これで包囲は免れた。
それにしても、ファビオがいい仕事をしたよね。
たった一つギリシアの火が入った壺を使うだけで、傭兵を撃退したんだもの。あとで褒めてあげなくっちゃ。
だが、これでゴットフリート三世との戦闘に勝ったわけではない。まだ宣戦布告すら終わっていないのだから。
予想通り、ゴットフリート三世の使者が再び大声で騒ぎ始めた。
「この卑怯者どもめ! 宣戦布告をする前に攻撃をしかけるなぞ、貴様らは貴族の矜持も持ち合わせていないのか! いや、違うか。貴様らは賊だったな、この山賊どもめっ!」
火柱が立ち、傭兵たちが撤退していく間は静かだった。しかし、先ほどよりもいっそう語気を強めた使者の言葉は、もはや罵倒と呼べるほどにエスカレートしている。
「まだ、賊だと言い張るか! それにあれは我らの攻撃ではないっ! 前言を撤回していただきたい!」
宣戦布告前に攻撃したというのは、濡れ衣だと交渉担当のグイドが叫ぶ。
グイドは僕がファビオに命令していた事を知らなかったみたい。
ーーグイド、ごめん。あの攻撃は僕の指示なんだよ。
そんな僕の内心とは関係なく事態は進んでいき、僕はそれを見守るだけ。
「なにをいうか。だったら、あの炎はなんだというのだ。貴様らの攻撃でないとしたら、誰の攻撃だというのだ!」と逃亡中の傭兵を指差しつつ使者が叫んだ。
彼の口角には白い泡が浮かび、興奮のあまり大きく開いた口から飛沫が飛び散っている。
傭兵による奇襲作戦が失敗して腹が立っているのはわかるけれど、ちょっと興奮しすぎじゃないだろうか。
使者の勢いに負けじと、グイドがすかさず言い返す。
「だれの攻撃だと? そんなことも貴殿はわからぬのか! 神に決まっておろう! 神聖なるこの戦場を汚さんとした傭兵どもに、神の鉄槌が下されたのだ!」
「はっ、言うに事欠いて神の御業だと」
使者が小馬鹿にしたような笑みを口元に浮かべた後、怒りに満ちた声で叫んだ。
「ふざけた事をいうな! このペテン師が! 神の名をみだりに語るお前たちにこそ天罰が降るであろう!」
グイドは鼻で笑い飛ばしたあと、恍惚の表情を浮かべ、聖職者みたいなことを言い出した。
「貴殿もみたであろう、傭兵を焼いた炎を。水をかけても消えない炎を。そのような炎を見たことがあるのか。あれこそが、大天使ウリエルが司りし神の炎である!」
ーーぎゃー、やめてー、グイドそこまでにしてっ! 違う違う、神の炎じゃないってば。水で消えない炎だからって、勝手に神の御業認定しちゃわないでー。
心の中で身悶えしつつ、馬上の僕は叫びたい衝動を必死に抑え込んでいた。
ここで僕が声を上げれば、グイドの体面を傷つけることになる。それに、僕が否定すれば、士気が一気に下がるだろう。そんな愚策を犯すわけにはいかない。
「まさに語るに落ちるとはこのことだ! ただ火を消すだけの水が足りなかっただけ……」
ゴットフリート三世の使者は、言葉を最後まで紡ぐことができなかった。
(ぱりんっ)という小さな音が響き、続いて(ゴォー)という轟音とともに火柱が使者のすぐ横に出現した。その瞬間、驚いた馬が竿立ちとなり、使者は振り落とされるように地面へと落馬した。
傭兵攻撃から戻ったファビオが、今度はゴットフリート三世の使者に壺攻撃をしかけたのだ。
自陣の崖の上から笑顔のファビオが僕の方を見ている。
ーー使者を攻撃しちゃったけど、これってファビオを褒めていいのかな?
褒めてはまずい気がする。しかし、僕がファビオに出した指示は「やっておしまいっ!」だけ。誰をどう攻撃するかまでは指定していなかった。
ーーやはり、指示がまずかったかぁ。
攻撃するのは傭兵だけって限定しておけばよかったと、今更後悔しても遅い。後の祭りになっちゃった。
そんな僕の後悔はどこ吹く風とやらに、事態は進行していく。
黒煙がもくもくと立ち昇り、油が燃える鼻を突く刺激臭が漂う中、味方の騎士たちは大興奮で騒いでいる。
「どうだっ、見たか!」
「神の加護は我らにあり」
「大天使ウリエルは我らの味方だ!」
「主の栄光あれっ!」
ああっ、もうっ。どうすればいいの?
幸いにも、地面で気絶している使者はまだ燃えていない。壺が落ちたのが使者のすぐ横の崖下だったことで救われた。しかし、火の粉が舞っているから、マントや髪にいつ引火してもおかしくない。
「使者を炎から離せっ! 火がついたら砂をかけろっ!」
まずは使者の安全を確保し、引火した場合の対処を指示する。水で消えないなら、砂をかけて消火するしかない。
ざわつきが落ち着いたあと、グイドにゴットフリート三世のもとに行くよう指示を出す。
「気絶した使者を連れて、ゴットフリート三世に宣戦布告してくるように」
あぁ、これでようやく戦闘を開始できる。崖を駆け下り、今度こそ槍騎馬突撃だー!
と、思ったらまだだった。
「ジャン=ステラ様、一騎打ちはどうされますか?」