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マリッジ・ブルー

 1065年7月 アルプスの北 レマン湖 ジャン=ステラ



「ジャン=ステラ様、あそこに見える雪をかぶった山頂がモンブランです」


 ジュネーブ伯から借りてきた道案内人が、アルプスの最高峰を教えてくれた。


 アルベンガを船で出発して一週間。ヨーロッパの夏は雨が少ないこともあり、ずっと晴れの日が続いている。


 ローヌ川を北上するカノッサ強襲騎馬隊は、お母様の立てた旅程を順調に消化し、ジュネーブからレマン湖に入った。


 レマン湖の湖面を眺めていた顔をあげ、僕は道案内人が指し示す南方を見た。雪を(いただ)くアルプス山脈の峰々が、溜息が出そうになるほど美しい。


「まるで屏風に描かれた絵みたいだよね」


 レマン湖の湖面に映るアルプスの白い峰々は、まるで一幅の絵画のよう。


「ビョウブ、ですか?」


「いいや、なんでもないよ。気にしないで」


 ヨーロッパには屏風がないのかな。そういえばトリノの城館やアルベンガの離宮でも見たことがない。

 僕の独り言を拾った従者のティーノが問いかけてくるが、説明する気になれなかった。


 だって、気楽な観光旅行じゃないんだもの。


 カノッサ城を奇襲するためにアルプスを時計回りに大回り。それだけでも憂鬱(ゆううつ)なのに、とんでもない約束をアレクちゃんと結ぶことになってしまった。


 僕とマティルデお姉ちゃんの娘の嫁ぎ先が決まっちゃったんだよねぇ。


「子供が生まれるまえに、子供の婚約が決まるって……」


 アレクちゃんとの約束を思い出すたび、ため息が出そうになる。


 もちろんアレクちゃんなら良いお婿さんになるだろう。東ローマ帝国皇帝の血筋だし、性格もいいし、顔もいい。そこに不満はなく、当然ながら問題点はそこじゃない。


 だって、生まれてくる子は僕だけの子じゃないんだよ。マティルデお姉ちゃんの子でもあるんだもの。


「どうやってマティルデお姉ちゃんを説得すればいいのかなぁ」

 それを思うと胃の辺りがキリキリ痛い。


 そもそもマティルデお姉ちゃんと僕はまだ結婚したわけじゃない。現在進行形でマティルデお姉ちゃんをカノッサ城まで嫁盗りにいく道中なのだ。


 アルベンガを出発する直前、僕はマティルデお姉ちゃんに暗号の手紙を書いた。


「8月1日に迎えに行きます。城門を騎馬で強行突破するけど驚かないでね」と。


 さんざん悩んだけれど、まだ生まれてもいない娘の婚約相手が決まったよ、とは書けなかった。


 だって、そんな事をマティルデお姉ちゃんに伝えてしまったら、へそを曲げてしまうかもしれないもの。


 カノッサに着いたのはいいものの、お姉ちゃんの手で城門が閉ざされていたら目もあてられない。


 いや。そもそも、アレクちゃんとの婚約の話がなかったとしても、不安の種は尽きないんだよね。


「お姉ちゃん、カノッサ城から出てきてくれるかなぁ」


 今更ながら不安が僕の心にじわじわと広がっていく。


 カノッサ城に着いたら城門が閉ざされていて、「九歳も年下の男なんて嫌よ」などと拒絶されないだろうか。


 そんな、よくない想像が脳裏をよぎる。


 今更考えても仕方ないのに、お姉ちゃんとの年齢差が気になってしまう。


 マティルデお姉ちゃんは二十歳で、僕は十一歳。


「大学3年生が小学6年生を本気で相手にすると思う?」

 自問自答が僕の心の中で繰り返される。


 マティルデお姉ちゃんとの結婚。これまでは、どこか現実的でなかったのだと思う。


 年齢差なんて気にもしていなかったし、「年下だっていいじゃない」ってどこか他人事で笑い話だった。


 しかし、カノッサへと進んでいくにつれ結婚が現実であり、それに伴い解決しなければならない問題点も具現化していった。


 きっとマティルデお姉ちゃんは、城門には出てきてくれるだろう。

 それは、いままでの手紙のやり取りから十中八九間違いないと思う。


 しかし、だ。

 マティルデお姉ちゃんが僕を受け入れてくれるかは、わからない。


「城門に出てきたマティルデお姉ちゃんが、僕の姿を見て回れ右しちゃったらどうしよう」


 預言者だったり、カナリア諸島王だったりしていても、僕の見た目は小学6年生の子供なのだ。

 大学3年生のマティルデお姉ちゃんが、恋愛相手、結婚相手として僕を見てくれるのだろうか。


 アルベンガを出てからというもの、毎日のように悪夢を見る。

 レマン湖までの航路を終え、陸路を東に騎行する疲れた日にも悪夢は襲ってくる。


 僕を一目見たマティルデお姉ちゃんが、僕を拒絶するのだ。


「ジャン=ステラ、あなたがそんなおチビちゃんだなんて思わなかったわ。私の婿に相応しくないから、大きくなってから出直してきなさい」


 おチビかぁ……。馬の手綱を握る自分の小さな手をぢっと見る。ため息がでた。


 僕を護衛しているティーノを横目で覗く。背が高くて、胸も腕も筋肉もりもり。僕の護衛を始めた頃には無かった、あご髭も生やしつつあって、貫禄たっぷりになってきた。


 一方の僕は、背もちっちゃくて、二の腕の太さなんてティーノの半分くらいしかない。馬上槍試合をしたら、それこそ鎧袖一触で負けるだろう。


 ふぅ、とため息がもう一つ。


「もっと早く生まれてきたらよかったのに」


 せめて声変わりだけでもしていたら……。

 自分ではどうしようもない事ばかりが、頭の中で繰り返される。


「だめだめ、弱気になっちゃだめ」

 真っ暗な将来像を振り払おうと頭を強く振ってみた。


 しかし、いくら自分を鼓舞してみても、すぐに不安が心を染める。


 アルベンガを出発してから、僕の心はずっと不安定。


 右手に見えるのは絶景のアルプス。しかし、僕の視線は下へと下へと俯いていく。手綱を握る手をぼーっと眺めるばかり。それでも僕は街道を東へ、ひたすら東へと進んでいった。

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