母の心と赤い糸
1065年6月上旬 北イタリア トリノ ジャン=ステラ
「傭兵が大挙してドイツに移動しているようなのですが、ジャン=ステラは商人達から何か聞いていますか?」
アルベンガ離宮から急遽呼び出された僕は、トリノに到着してすぐにお母様の執務室へと足を運んだ。
久しぶりに見るお母様は厳しい表情をしていて、扉を潜るとすぐに質問が飛んできた。
「いいえ、お母様。少なくともアルベンガの商人たちから傭兵の話は聞いていません。お母様は誰からその話を聞いたのですか?」
アルベンガ離宮に出入りしていた商人との会話を思い出してみるが、傭兵に関する話題はなかった。
「ベリー司教のアイモーネからよ。ローヌ川をドイツ方面へと北上する傭兵が、治安を乱しているとの報告を受けたのです」
いとこのアイモーネお兄ちゃんは、アルプス山脈のフランス側、ローヌ川沿いのベリーで司教を務めている。
そして傭兵というのは、罪を犯したり村から追い出されたならず者が多くを占めている。その傭兵が移動すると道中で商隊を襲ったり、村外で作業している村人たちを襲ったりと碌な事をしない。
そのような報告が、司教としてベリー一帯を統治しているお兄ちゃんの耳に入ったということだろう。つまり、戦争の匂いを嗅ぎつけたフランス人傭兵がドイツへと移動している。
では、フランス以外の傭兵はどうなっているのだろうか。
「お母様、トリノやミラノなどの北イタリアの傭兵に動きはあるのですか?」
「取り立てて目立った動きはないわね。ここ何年もの間、トスカーナ辺境伯が南イタリアに軍を動かしていたでしょう。その影響もあって北イタリアの傭兵はもともと少ないのよ」
そういえばゴットフリート3世って、ローマやナポリ、スポレートといったイタリア半島の南方に影響力を伸ばしていたっけ。あまり興味がなかったから、頭からすぽっと抜けていたよ。
ふむふむ、と傭兵の動きに関する情報を聞いていたら、護衛のグイドが声をかけてきた。
「ジャン=ステラ様、アデライデ様。不躾ながら発言をお許し願えませんでしょうか」
ん? 何だろう。僕はOKだけど、お母様はどう思うかな。
グイドにちょっと待つよう目で制した後、お母様に向き合った。
「お母様、グイドに発言を許してもいいでしょうか」
「グイド……。メッツィ男爵の息子でしたね。いいでしょう、発言を許可します。何か伝えたい情報があるのかしら」
メッツィ男爵は、トリノから東へと流れていくポー川沿いに領地を持っている。商売もそこそこできる
男爵なのだが、一番の売りは情報収集にある。僕の護衛になった頃のグイドがそんな事を言っていた。
僕の護衛で一番イケメンのグイドは、しょっちゅう侍女たちに声をかけていたんだけど、
「これも情報収集の一環なのです。なにせ男性よりも女性の方がいろいろなうわさ話を知っていますからね」
そんな風にうそぶいていたっけ。
僕は小さく頷くことで、グイドに話し始めるよう促した。
「ジャン=ステラ様、アデライデ様、ありがとうございます」
直立不動でビシッと背筋を伸ばしたグイドが物の値段について話し始めた。
「中部イタリアで武具の値段が跳ね上がっています」
武器や防具が高くなっているということは、誰かが武器を買い漁っていることに他ならない。
その中部イタリアで一番お金持ちなのは教皇庁である。しかし、教皇庁はお金は持っていても、武具を買うようなイメージはあまりない。
そうだとすると、武器を買いそうなのは僕たちと同盟しているローマとアマルフィ、そして敵対しているピサになる。
「グイド、誰が武器を買っているのですか。存念を述べなさい」
お母様の詰問みたいな質問にグイドが淀みなく答える。事前に聞かれそうなことを考えておいたのかな。
「はっ、トスカーナ辺境伯家およびピサが買い占めているのだと思われます」
「中部イタリアにはローマとアマルフィもあるわよ」
グイドが僕の方をちらっと見たあと、お母様に続きを話した。
「ローマとアマルフィ、そしてジェノバにはジャン=ステラ様が十分な量の武器を売っています。中部イタリアで武器が不足しているのはトスカーナ辺境伯家とピサしかありません」
一年くらい前になるかな。アルベンガに新しい製鉄炉が完成した。滝みたいに落ちる水を使って強風を製鉄炉に送り込むことで大量の鉄、それもどろっと溶解した鉄が作れるようになった。
「鉄も、銅のように溶けるのですね」ってイシドロスが驚いていたのが懐かしい。
ただし、まだ品質の悪い鉄しか作れていない。鍋やフライパン、農具には使えても、剣や槍の穂先のような武器には使えない。すぐ折れるような剣なんて怖くて戦場に持って行けないもの。
それでも、日用品に回していた良品質の鉄を全て武具に使えるようになった功績は大きい。トリノ辺境伯家の軍備は充実し、さらに同盟国に武具を回せるようになったのだ。
だから、中部イタリアで武器を買っているのは、トスカーナ辺境伯ゴットフリート3世とピサ。グイドだけでなく、僕もそう思う。
アデライデお母様が「そのような話、私は聞いていませんよ」って睨んでくる。
「報告はしましたよ。それに僕が製鉄炉を作ったのは、お母様も知っていますよね」
「ええ、去年の3月でしたよね。私も後で視察したわよ」
その後の7月にお母様はアルベンガを離れ、貨幣鋳造のためアスティに移動した。
さらにピエトロお兄ちゃんの結婚があり、イベリア十字軍でバレアス諸島に兵を出した。
出来事がたくさんあり過ぎて、お母様は忘れているだけ。それなのに僕を睨まないでほしい。
「『鍋やフライパンに使える鉄を作れるようになりました』と、お手紙を書いて送りましたよ」
「たしかに、そのような報告はありましたが……」
ね、僕は悪くない。攻守逆転。お母様をジト目で睨み返しちゃう。
「ですが、ジャン=ステラ。武具に使えるとは聞いていませんよ」
「僕の製鉄炉で鉄は大量にできるようになりましたが、剣に使えるような良質の鉄は作れないのです」
アデライデお母様が、大きなため息をついた。
「その報告では武具に使える鉄が増えた事は分かりません。ですが、いまは一旦置いておきましょう。
グイド、他にも何かありますか」
「はい、アデライデ様、もう一つあります。地中海各地でピサの商人が宝飾品を買い漁っています。
それも貴族用の高価なネックレスから、庶民用の安価なくず宝石まで、見境なく買っています」
報告を終えたグイドが、一歩後ろに下がった。
「やはり、戦争の準備なのかしら。しかしゴットフリート3世は傭兵を集めていないのですよね……」
高いのにかさばらない宝石は、移動する時に便利な換金商品である。金は価値の割に結構重いから、遠くに移動するときには宝石の方が便利なのだ。
そのためゴットフリート3世が遠征の準備でもしているのかと思えば、傭兵は集めていないという。
「武器を買いあさっているという事は、籠城の準備でもしているのでしょうか?」
準備だけなら、傭兵を集めておく必要はない。戦争が近くなってから集めればいい。
「ジャン=ステラの言う通り籠城準備なのかもしれません。
しかし、ゴットフリート3世はトリノのことを警戒しているはず。同時に傭兵を集めないのはなぜなのかしら」
「単に、僕たちトリノ辺境伯家が傭兵を集めていないからではありませんか?」
傭兵を雇うのにはお金がかかるから、雇用期間は短い方がいい。
そのため、僕たちが傭兵を雇わないうちは、ゴットフリート3世も傭兵を集めない。
そして、僕たちが傭兵を集め出したら、ゴットフリート3世も集め始める。
そういう事じゃないかな。
「うーん。ジャン=ステラの言う通りかもしれません。しかし何かひっかかるのです。そう、ゴットフリート3世が企んでいるような......」
アデライデお母様が考えを纏め終わるのを僕はじっと待つ。
僕にとっては、ゴットフリート3世が兵を集めていないという情報は福音だもの。
だって、後2ヶ月でマティルデお姉ちゃんを迎えにいくのだ。敵の虚をついてマティルデお姉ちゃんの居城であるカノッサ城にいき、お姉ちゃんを奪う。
途中のお城が籠城準備しているだけなら、素通りできる。
「ゴットフリート3世が何を考えているのか。意図は掴めませんが、それはひとまず置いておきましょう」
お母様は結局、考えがまとまらなかったらしい。少し浮かない顔をしたまま、僕の方を見つめてくる。
「それよりも、ジャン=ステラがどうやってマティルデ様を迎えに行くかよね。期限まであと2ヶ月となりましたが、どうするつもりですか?」
「以前の予定通り、騎馬だけでカノッサ城に行き、マティルデお姉ちゃんだけを連れて一緒にトリノに戻ってきます」
一目散に逃げてこれば大丈夫だよね、きっと。
「騎馬だけでカノッサ城をどうやって攻め落とすのですか?」
「マティルデお姉ちゃんに門を開けてもらいます」
「……それって大丈夫なの?」
「マティルデお姉ちゃんは開けてくれるって手紙をくれたもん」
アデライデお母様の心配も分かるけど、僕はマティルデお姉ちゃんを信じるよ。
「マティルデ様はそう思っていたとしても、ゴットフリート3世が手を回していないとも限らないでしょう?」
「……」
そんな言葉、お母様の口から聞きたくなかったなぁ。
僕だって薄々は感じているよ。ゴットフリート3世がカノッサ城を守っていないとは思えない。
そこで城門が空いている昼間に奇襲して、騎馬で無理やり城門を突破しようと思っていたんだもの。
「ですがお母様。ゴットフリート3世は、僕たちが正面から戦って勝てる相手ではありませんよね。
そのため、奇襲するしか手がないのです」
お母様が何度目かの溜息をついた。
「確かにジャン=ステラの言う通りです。しかしこの奇襲は危険なのよ。勝てるかどうかも分からないわ。
あなたを愛する母親として私は、そのような場所に赴いて欲しくないのよ。それは分かりますか」
トリノからカノッサ城の間には、トスカーナ辺境伯家の城塞がたくさんある。途中で見つかったら袋叩きにあうかもしれない。それでもまだ行きはいい。見つかったとしても、騎馬の速力を使って逃げる事もできる。
しかし、帰り道は待ち構える敵を突破しなければならない。
奇襲が成功し、僕の横にマティルデお姉ちゃんがいたらトスカーナ兵は攻撃してこないと思う。しかしゴットフリート3世が雇った傭兵達はそれでも襲ってくるかもしれない。
「お母様、危険なのは僕も分かっています。それでも、僕はマティルデお姉ちゃんを迎えに行きます。それがお姉ちゃんとの約束だから」
お母様が優しく、しかし、とても悲しそうな目を僕に向けてくる。
「それはどうしても? マティルデ様を諦めることはできないの?」
「いくらお母様でも怒りますよ!」
お母様が僕を大切に思ってくれることは理解している。しかし、それとこれとは話の次元が違うのだ。
だって、僕は......。
トリートメントを作ったり蒸留酒を作ったりした。新大陸にだってエイリークが見つけてくれた。
預言者だなんて大層な称号で呼ばれたりすることもある。
でもね、そんな事はどうでもいい。
だって、僕の心を救ってくれたのは、マティルデお姉ちゃんなんだもの。
アデライデお母様は、とっても僕に優しくしてくれて、僕の存在を肯定してくれて、僕を今まで守ってくれた。
それでも、僕が必要としているのはマティルデお姉ちゃんであって、アデライデお母様ではない。言葉にしちゃうと酷い事だと分かっている。しかし、本当の事だから仕方ないんだ。
だって、僕と同じ立場で怒ってくれて、喜んでくれる。それができるのは、マティルデお姉ちゃんだけだから。
お姉ちゃんとは生まれてから一度しか会っていない。それでも、僕たちの心は繋がっている。
マティルデお姉ちゃんとの絆は時と距離を越えているんだって、心の深いところで理解してしまったから。
「だから、僕が諦めるなんてありえません。お母様、お願い、僕をわかって!」
■■■ 嫁盗り期限まであと2ヶ月 ■■■