表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

243/279

陰謀の髭(後編)

 1065年5月上旬 北イタリア フィレンツェ ゴットフリート3世(60歳)


 俺の主君、ハインリッヒ4世は馬鹿だった。


 親政の開始に華を添えるためにケルン大司教アンノ2世の討伐をいきなり言い出した。


 いや、討伐が悪いのではない。俺だって聖職者たちに何度も煮湯を飲まされてきた。


 俺の弟が教皇ステファヌス9世になった後にも、のらりくらりと言を左右する枢機卿団にどれほど悩まされたか。あいつらを殺してやりたいと思った回数なんて、両手の指でも足りないくらいだ。


 では何が悪いのか。それは根回しの悪さ、そして決断力のなさだ。


 ハインリッヒ4世の母親である皇太后アグネス様にまで(おおやけ)の場で反対されるようではどうしようもない。


 だったら、どうする? 簡単なことだ。反対者が反対できなくすればいい。


 そこで俺はハインリッヒ4世に提案した。


 アグネス様とその賛同者であるシュバーベン大公ルドルフ及び、バイエルン大公オットーを騙し討ちにせよ、と。


 三人を打ち果たしてしまえば、ケルン討伐は成功するだろう。


 だというのに、ハインリッヒ4世は腹を括れない。逆に激昂して俺に食ってかかってきた。


「騙し討ちだなんて卑怯(ひきょう)ではないか。それに、俺に母上を殺せというのか!」


「皇帝に逆らうものは、たとえ肉親でも、母親でも許さない。その強い態度こそが諸侯を畏怖させ、陛下への反対者を封じ込め、結果的にドイツの安泰へとつながるのです」


 ーーー 騙し討ちの卑怯者。そして母殺し。

 実行したら、そんな汚名をハインリッヒは被ることになるだろう。


 しかしハインリッヒ4世の治世は安定することになる。十分な見返りが得られるだろう。


 だが、無理だろうな。ハインリッヒ4世は決断できないだろう。

 俺は冷めた目で目の前の子供を観察する。


 激情に駆られて一度は大声をあげたものの、今は冷静さを取り戻しつつあるようだ。


「母上も、こ、殺さないといけないのか?」


「それは陛下のご随意に」


 おまえの好きにしたらいい。どうせアグネス様どころか、大公二人を騙し討ちするような気概はないだろうがな。


 ふんっと鼻で笑いかえしてやった俺に気づかず、ハインリッヒ4世は何やらブツブツと(つぶや)いている。


「母上を……殺す……」


「ええ、そうです。それが無理ならケルン討伐は一旦棚上げといたしましょう」


「そ、そうだな。残念だが、お母様を殺さないため、ケルン討伐は断念するとしよう」


 アグネス様を殺さないためにケルン討伐を断念する? なぜそのように短絡するのか理解に苦しむが、まぁよい。


 どうせ討伐中止の名目が欲しかったとか、その程度のことだろう。



 結局、ハインリッヒ4世はケルン討伐もできず、シュバーベン大公たちの誅殺(ちゅうさつ)も実行できなかった。


 ーーーー


 フィレンツェの執務室にただ一人。俺はごくりと蒸留ワインを一気に(あお)った。


 はぁ、とため息がひとつ、虚空へと消えていく。


 まったく頼りない野郎だったな。


 アグネス様もろともシュヴァーベン大公とバイエルン大公を討っていたならば、俺もハインリッヒ4世を唯一無二の主君と認めただろう。狂気もまた魅力の一つだからな。


 なのに、ハンリッヒ4世ときたら単なる考えなしの子供(がき)だった。


 イタリアに帰ってきた今になっても、あんな馬鹿が君主だと思うと腹がたつ。


 あんな奴の家臣である我が身を嘆かずにはいられない。


 俺の弟が、教皇になったステファヌス9世がもう少し長生きしてくれていたら、俺が神聖ローマ帝国皇帝になれていたかもしれないのに……


 酔った頭に亡き弟・ステファヌス9世の笑顔が浮かんだ。


 教皇への就任後、たった9ヶ月で死んでしまった。せめてもう一年長生きしてくれれば……。


 ーーー いや、愚痴だな。歳をとると、どうしても昔のことが思い出されて困る。


 グラスに蒸留ワインを並々と注ぎ、ぐびっと一息で飲み干した。


 あぁ、喉が焼ける感触が心地よい。これぞ生きているという感じがする。


 酔いが強くなったところで、アルプスの北側にあるドイツの地に想いを馳せる。


 俺が生まれ育ったロートリンゲン。ライン川の下流に広がる沼地にはアシが生い茂っていた。

 川をすこし遡った場所にある草原では、馬の乗り方を父から教わった。


 その故郷を、先帝ハインリッヒ3世に追われてから20年か……。


 視線を落とすと、そこにあるのはシワだらけの手。ぽつぽつと黒い斑点も目立ってきた。


 あぁ、若い頃はよかった。野心に燃えていた。全能感に包まれていて皇帝にだってなれると思っていた。


 だが、今となってはどうでもいい。故郷という安らぎの地に戻りたい。


 そのためにはハインリッヒ4世をいくらでも利用してやろう。


 ふと、ドイツのある北の方角へと顔を向けた。


 ーーー 俺が残してきた置き土産は、うまく炸裂(さくれつ)しただろうか


『ハインリッヒ4世は、アグネス様にお味方したシュバーベン大公、バイエルン大公。そして中立を宣言したザクセン大公と下ロートリンゲン公を騙し討ちしようとした』


 金を使い、商人どもに噂をばら撒かせた。あれから1ヶ月。今頃はドイツ全土に広がっているだろう。


 根も葉もない噂ではないのだ。ハインリッヒ4世の悪辣な性格を知っている諸侯はみな信じるだろう。

『あいつならやりかねん』、とな。いい気味だ。日頃の行いの悪さを思い知るがよい。


 そこに追い討ちで噂を流すよう商人には命じてある。


『騙し討ちを(いさ)めたのはゴットフリート3世だった。しかし彼はイタリアに帰ってしまったため、ハインリッヒ4世は、反対者の暗殺を試みるだろう』


 ただしハインリッヒ4世の直轄領にだけは別の噂を流す。


『ゴットフリート3世がイタリアに戻って不在の今なら、ハインリッヒ4世を討てる。領地に戻ったシュバーベン大公やバイエルン大公が秘密裡に兵を集めているらしい』

『ザクセンやロートリンゲンも同意しているらしいぞ。それに教会も』



「はっはっはっ。愉快だゆかい」


 今頃は疑心暗鬼が渦巻いていることだろう。


 俺の笑い声が執務室にこだまする。いや、酔いの回った頭に響いているだけかもしれんな。


 どこか一か所でも兵を集める動きが起きれば、ドイツは大荒れに荒れるだろう。


「大丈夫、ちゃんと種子は()いてきた」

 俺は自分に言い聞かせる。


 ドイツからイタリアへの帰路、俺はオーストリア辺境伯の領都であるウィーンに立ち寄った。


 そこで俺は、忠臣の振りをして辺境伯エルンストの耳元でささやいたのだ。


「今のままではハインリッヒ4世陛下の身が危うい。俺はトスカーナに戻り次第、兵を集めようと思う。


 貴殿もハインリッヒ4世陛下の事を思うなら、兵を準備して欲しい」


 先年のハンガリー戦役において武功二位と称されたオーストリア辺境伯エルンストは、ハインリッヒ4世のことを称揚していた。


 あいつは間違いなく兵を集めることだろう。それがドイツ騒乱の幕開けとなろうとな。


 さて、と。上手くいけば両陣営から俺をドイツに、ロートリンゲンに戻せという声があがるだろう。


 ワイングラスをかかげ、そして飲み干した。


「俺様に、そして我がアルデンヌ家に栄光あれ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] トリノ辺境伯家の網に髭がかからなかったのは、帰還の途中でウィーンに立ち寄ったことでリグリア海側ではなく、アドリア海側からフィレンツェに帰ったから ということで合ってますか?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ