北方と海の病の共通項
1064年2月下旬 北イタリア アルベンガ離宮 ジャン=ステラ
「こ、これがヴィンランドですか!」
地図を見た赤毛のエイリークが、興奮の叫び声をあげた。海で鍛え上げられた野太い声で、僕の耳が痛くなっちゃいそう。
エイリークとの最初の面会から3日後、今度は中庭ではなく、執務室でエイリークとの会合を持った。
執務室に場所を移動するのは、地図を外に持ち出せないから。なにせアメリカ大陸が描かれた世界地図は秘中の秘だからね。
そして三日後になったのは、エイリークの服装に問題があったから。
「小汚い服装の者を館に入れるなんて、私の目の黒いうちは許しませんっ!」
アデライデお母様にダメ出しを食らっちゃったのだ。
すぐに地図を見たかったエイリークは、きっと血の涙を流していたに違いない。だって、地面をドンドンとこぶしで叩いて泣いていたんだもん。
それってエイリークの自業自得だから、仕方ないよね。
そもそも中庭で会合を持ったのも、エイリークが小汚い上に半袖のTシャツみたいな服を着ていたからだった。
小汚い服装でやってきた理由は、ユーグに命令されて嫌々会いに来たからだったとエイリークは教えてくれた。服装を理由に面会を拒否されたら、これ幸いにと帰るつもりだったんだって。
それが一変したのは、僕が世界地図を持っていたから。早く地図を見たい、ヴィンランドの場所を知りたいと願っているのに、自分の服装のせいで叶わなかった。それを悲嘆して泣き叫ぶなんて、おまえは幼児かっ!
そんな3日間のお預け期間で期待が高まっていたこともあり、エイリークは思わず大声を出しちゃったってわけ。
しかし、そんな無作法を許せない人が執務室にいるんだよねぇ。
僕の隣に座っているアデライデお母様がしかめっ面になっている。
「本当にこんな下品な男を家臣に、それも男爵にするなんて、ジャン=ステラは正気なの?」
「ええ、もちろんですとも!」って胸をはって答えたいけれど、泣くわ叫ぶわの姿を見ちゃうと僕でもためらってしまいそうになる。
「ジャン=ステラの手前、今回だけ、マナーについては我慢します。しかし、次回までにきちんと躾けておくのですよ」
躾けておけって、エイリークは犬か何かですか、お母様?
いえいえ、反論なんていたしませんとも。
「はーい、わかりました。次までには必ず」ってハキハキと答えておいた。
お母様の不快はよくわかるけど、世界地図を見せちゃったからにはもう後には引けないもん。
それに、アメリカ大陸に到達するって業績は人類史上の快挙だからね。トマトをヨーロッパに持って帰ってくれば、ピザができるんだよ!
ようやくピザに手が届きそうなんだもん。少しでもエイリークの意欲を刺激するためなら、爵位を大判振る舞いするくらい安いもの。
実際、「コロンブスは公爵になった」って農学部の授業で習ったしね。
「さて、エイリーク。ヴィンランドはもう終わりにして、西への航海について話をしよう」
「ジャン=ステラ様、ついつい地図に魅入ってしまいましたが、もう大丈夫です!」
航海の腕前については全く疑っていない。なにせカナリア諸島からアゾレス諸島を経由して帰ってきたのだ。海流と風を掴んで外洋を運航する能力は、今のヨーロッパで一位、二位を争うと思っている。
だけど、腕前だけではダメなんだ。
大西洋横断みたいに長く航海すると、健康が極度に悪化してしまう。その代表例がビタミンC不足で発症する壊血病である。
エイリークは人生の大半を海上で過ごしていたみたいだし、壊血病について知っているかもしれない。まずは聞いてみよう。
「エイリークは壊血病を知っている?」
「カイケツビョウ……。それはどのような病気なのでしょうか」
エイリークは首を傾げ、僕に説明を求めてきた。
「歯ぐきから血が出たり、あざが出来やすくなる病気でね、何もやる気が無くなっちゃうんだ」
「ジャン=ステラ様。それは平民であれば普通のことです。食べ物が満足になければ、そうなります」
エイリークが言うように、壊血病の初期症状はありふれてはいる。歯槽膿漏になれば歯ぐきから血はでるし、野山を駆け回る平民にしてみれば手足のあざが途切れる事なんてない。
そして、カロリーと栄養が不足していたら、やる気だっておきないよね。
なにせ、お腹いっぱいご飯が食べられるようになったのって、日本だって1970年以降なのだ。11世紀のヨーロッパの農民は常に、飢餓と隣り合わせだもん。
これだから物事を知らないお貴族様は……って思われちゃったかな。でもそれは食糧不足であって、壊血病とは違うのだ。
「壊血病は食事をきちんと採っていても、同じ症状がでるんだよ。そして、最後には衰弱して死んじゃうの」
壊血病の原因はビタミンC不足。そのためビタミンCが含まれていない食事をいくら食べても壊血病になってしまう。
「あぁ、言われてみれば、ドイツ北方の国々の農民にそのような風土病があると聞いたことがあります。確か冬の病だったかと」
風土病とは、ある地域だけに発症する病気の事だよね。ドイツのような寒い国で起きる、壊血病に似た風土病かぁ。
え? それって壊血病じゃない?
冬のドイツにおけるビタミンC源ってキャベツの酢漬けであるザワークラウトだったと記憶している。
ビタミンCを採るためには新鮮な果物や野菜、あるいはお肉を食べる必要がある。しかし、冬には新鮮な野菜はないし、貧乏人にとって肉は贅沢品で、おいそれとは食べられない。
だから、ドイツにおける冬のビタミンC源はザワークラウトなのだ。しかしながら、悲劇的ことに11世紀のドイツにはザワークラウトがないのだ。
思い返してみると、僕はハンガリー戦役でドイツ南部とウィーンに行ったけど、ザワークラウトは出てこなかった。そもそもキャベツがなかったんだよね。
確証はないけれど、その風土病って壊血病かもしれない。
「もしかしたら、エイリークってドイツの救世主になっちゃったかもよ」
その風土病が本当に壊血病だったなら、エイリークのおかげで解決することになる。
エイリークがドイツの英雄になるのは、じゃがいもをドイツにもたらした後かと思ってたんだけどなぁ。
思ったよりも早くなっちゃったかもしれない。
「はぁ……」
エイリークがぽかーんと口を開けて、こっちを見ている。
まぁ、エイリークにしてみたら訳がわからないだろうね。
「今はわからなくてもいいよ。エイリークは新大陸にいく時にはレモンをたくさん持っていくこと。これは命令です。そうすれば、死ななくて済むからね」
◇ ◆ ◇
ジ:ジャン=ステラ
ア:アデライデ・ディ・トリノ
ロ:護衛のロベルト
ア:エイリークの前に叙爵すべき人達がいるんじゃないかしら
ジ:えーと、イシドロス達?
ア:筆頭家臣のラウル・ディ・サルマトリオもね
ジ:護衛のロベルト、ティーノ、グイドは?
ア:ロベルトはともかく、2人は功績が足りないわね
ロ:私はアデライデ様の臣でありたいと思います。ジャン=ステラ様の禄は食めません
ア:そうなのね、それならいいわ
ジ:(お母様、素っ気なさすぎ)
ア:問題は領地よね
ジ:僕の領地、アオスタだから小さいですものね
ア:いっそ銀塊にしちゃったら?
ジ:ユーグへの寄付みたいに?
ア:そうよ。ジャン=ステラの体重と同じ重さの銀塊を毎年支給するの
ジ:領地でなくてもいいのですか?
ア:イシドロス達は領土にこだわらなさそうよ
ジ:じゃ、それで
ア:イシドロスを男爵にして、1ジャン=ステラの銀を毎年与える、でどう?
ジ:1ジャン=ステラ?
ア:重さの単位ね
ジ:僕の体重、毎年変わりますよ?
ア:別に問題ないでしょ
クリストファー・コロンブスの孫が、スペイン王家よりベラグラ公爵に叙爵され、現在も公爵家は存続しています。「コロンブス本人が叙爵された」という記述ですが、これはジャン=ステラちゃんの記憶違いなのでした。
壊血病に類似した症例は、ヨーロッパ北方を行軍中の古代ローマ軍に発生した記録が残っているようです。