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豚に真珠、ユーグに地図

 1064年1月上旬 北イタリア アルベンガ離宮 ジャン=ステラ


 教皇が出してきた条件である南北二分割案。これが骨抜きになったことに満足したアデライデお母様は、先ほどまでと打って変わって上機嫌である。


 このまま解散!になればいいのにな、って思うけどまだ2つも問題点が残っている。一つは聖職者の叙任権で、もう一つはユーグと交わした約束である。


 そのうちの一つをピエトロお兄ちゃんが口にした。


「なあジャン=ステラ。聖職者の叙任権を教皇猊下に渡してしまっても本当によかったのか?」


 司教や司祭を任命するのは誰なのか? この権利をめぐって皇帝と教皇が対立している。


「自分の領地に自費で建てた教会だから、聖職者は俺が任命する」というのが皇帝と諸侯の立場。


 それに対し、「すべての聖職者はその最上位である教皇が任命する」というのが教会の立場である。


 どっちに軍配が上がるかは、見方によって変わると僕は思う。


 ずっと昔から長い間、私領に建てた教会の司祭や修道院長は、お金を出した領主が任命していた。


 しかし、そこに教皇が()みついたのは、領主が任命する聖職者の質が(ひど)かったから。


 聖職者の地位をお金で売る領主がでてきたのだ。そのせいで、ラテン語で書かれた聖書が読めなくてミサができないトンデモ司祭とかが大きな顔をしていたりする。宗教を(つかさど)る教皇としては、「貴族になんて任せちゃおれんわいっ」ってなるのも当然だよね。


「別にいいんじゃないかな。僕の新しい領地といっても今はカナリア諸島しかないしね」


 イタリアやドイツの叙任権ではなく、僕の新しい領地の叙任権だけを対象にする。これがイルデブラントが探し出してくれた妥協点なのだ。教皇の内情を知らない僕が、口をだしてもいい事はないだろう。


「だがな、ジャン=ステラ。お前は教会を建てるんだよな」

「さぁ、どうだろう。必要なら建てるけど……」


 お兄ちゃんの質問にどう答えよう。

 教会っているかな?、と首を傾げて考えていたら、お母様が驚きの声をあげた。


「ねえ、ジャン=ステラ。教会がなければどこで神に祈りを捧げるというのですか?」

「それもそうですね、お母様」


 しれっと答えたけど、内心冷や汗ものの大失態をしちゃった。うっかりしてたよ。神に祈りを捧げる習慣が僕にない事がばれちゃったらマズいよね。


「それに、教会がないと読み書き計算の出来る人が育ちません。それでは統治が出来なくなりますよ」


 江戸時代以前の日本において知識階層は京都の公家と仏門が担っていた。ここイタリアではキリスト教の教会組織が知識階層を形成している。読み書き計算ができる人材が教会に偏っているから、教会の助けがなければ統治機構が働かない。


 お母様の言いたいことを要約すると、そういうことだった。


「じゃあ、建てましょう、教会」

 別に教会を建てないという信念があるわけでもなし、必要ならば建てればいいじゃん、教会。


 小学校レベルの教科書は書き上げてあるし、学校や料理学校を作る予定はある。将来的には官僚や役人になってくれる人材を育てたいけれど、当分の間は聖職者を頼るしかない。それなら人が育つまでの間、教会の人に頑張ってもらっちゃおう。


「なぁ、ジャン=ステラ。教会を建てるだろ。そこに教皇猊下が任命した司教が来るだろ。それはいいのかい?」

「別にいいんじゃない。何か不都合があるの、お兄ちゃん?」


 カナリア諸島なんて僻地に人材を派遣してくれるのは、とってもありがたいよね。


「だけどな、教皇猊下がまともな人を派遣してくれると思うか?」

「たしかに、ピエトロの言う通りね。ジャン=ステラの邪魔が目的の司祭がくるかもしれませんね」


 お兄ちゃんの懸念をアデライデお母様が首肯(しゅこう)する。


 しかし、教皇だってそこまで馬鹿じゃないと思うんだよ、僕は。


「うーん、大丈夫じゃないかな。むしろ変な人を派遣してくれたら、お母様やピエトロお兄ちゃんの統治がやり易くなると思いますよ」

「あら、どうしてかしら」


 お母様が小首を傾げる。


「それはですね。統治を邪魔するような司祭を送ってくるなら、叙任権は貴族が持つべきって主張できますから」


 教皇が叙任権を持つべきというのは、諸侯たちが任命する聖職者の質が悪いから、と言う主張に支えられている。そこへもってきて、僕の領地に変な司教を送り込んでくるようなら、大々的に宣伝しちゃえばいい。


「それにね、教皇が変なことをしないよう、イルデブラントが見張ってくれるんでしょう。だって僕の味方になってくれたんだもん」


 そういって、イルデブラントにニコッと笑いかけておく。


 聖職者の叙任権が教皇側にあるべきだと強く主張しているのはイルデブラントなのだ。自分の主張を自分で崩すような事はしないだろう。きっと素敵な人材を送り続けてくれくれるにちがいない。


 そして、イルデブラントは大きく一つ(うなず)き、約束してくれた。


「はい、もちろんです、ジャン=ステラ様。責任をもって良い司祭をカナリア諸島へと送りましょう」


 イルデブラントが請け負ってくれた所で、聖職者の叙任権問題はおしまい。もう一つの問題点であるユーグの事を片づけよう。


「ジャン=ステラはユーグ殿に毎年の寄付を約束しましたよね。それはどうしてなのかしら」


 ユーグが執務室から退室した時とちがい、ずいぶんと穏やかな表情になったお母様が尋ねてくる。そのお母様が言う約束とは、毎年僕の体重と同じ重さの銀塊をクリュニー修道院に寄付するというもの。


 個人としてなら高額な寄付かもしれないが、領主として見たらさして驚くものではない。そのため、お母様も寄付の多寡(たか)ではなく、寄付そのものに対して疑問を持っているのだろう。


「それはお間抜けさんの代名詞として、歴史にユーグの名前を刻んでもらうためですよ」


 たった数十キロの銀塊で、北アメリカ大陸を僕に明け渡しちゃった粗忽(そこつ)ものとして歴史の教科書に名を残してもらおうって思うんだよ。


 目先の利益に釣られて、莫大な利益を逃すことを「ユーグの銀塊」という。こんな(ことわざ)を流布しちゃうのもありかもしれない。


 それとも価値を理解できないという意味で、「ユーグに地図」も捨てがたい。


 豚に真珠、猫に小判ときて、ユーグに地図。


 うん、こっちの方が分かりやすいね。


 その上で、毎年嫌味のようにクリュニー修道院に寄付してあげるの。

「我が家に絶大な利益をもたらしてくれてありがとう。それにもかかわらず、これっぽちの寄付で満足するなんて!さすが清貧で有名なクリュニー修道院ですねぇ」って。


 とはいえ、嫌味が意味を成すためにはアメリカ大陸の探検が必要になるんだよねぇ。世界地図を公開できるまでは、ぐっとこらえて我慢する必要がある。これが欠点といえば欠点なんだよなぁ。


「あれっ。お母様、どうして顔が青ざめているのですか?」

「いえっ、なんでもありませんよ。オホホホホ」


 空疎な笑い声をあげるお母様の横では、イルデブラントが声もなく顔を引きつらせている。


 その一方でピエトロお兄ちゃんだけはもろ手を挙げて僕に大賛成してくれた。

「ジャン=ステラに嫌味を言われて悔しがるユーグ殿を俺も見たいっ!」


 だよね、お兄ちゃん。そのためにも早くアメリカ大陸に人を送り込まなければね。


 そして早期に探索するための鍵を握るのが、ユーグと約束したもう一つの約束になる。


「さらに重要なのが、ノルマン人船団を僕が直接雇えるようになった事なのです」


 寄付の条件として、ユーグが探検に使っていたノルマン人傭兵船団を、僕が譲り渡してもらったんだよね。


「あら、船団なんてサボナの商会に命じれば、雇えるではありませんか」

「いえ、お母様。それではダメなんです」


 アルベンガの東側にある港町サボナには、トリノ辺境伯家に属するクリストファー商会とクムクアト商会がある。この商会に頼めば船団は雇える。


 ただし、サボナで雇えるのは地中海を航海する傭兵船団だけ。大西洋を航海できるノルマン人は雇えなかった。


 そもそも穏やかな地中海と、波が荒れ狂う大西洋では船の形が全く違う。地中海用の船で大西洋に出たら、すぐに転覆(てんぷく)してしまうだろう。


 それが、ユーグの息が多少かかっているかもしれないけれど、外洋航海できる船団を雇用できるようになる。


「これでさらに一歩、ピザに近づいたよ!」と、僕は小躍りしたいくらい嬉しい。


 しかし僕の喜びに水を差すかのように、イルデブラントは懸念点を伝えてきた。

「ジャン=ステラ様。ユーグが雇っていた船団は、評判が大層悪うございましたが、その点は大丈夫でしょうか」


 ローマの教皇庁からアルベンガに来る道中において、ユーグは何度も何度もノルマン人の悪口を言っていたらしい。


 その中でも一番ひどいものは次のようなものだった。


「南へ行けと命じたのに、船団は西から帰ってきた。あいつらは東西南北の方角すら理解できてないんじゃないか」


 ユーグはカナリア諸島から南へと3つの船団を派遣した。しかし戻ってきたのは一つの船団だけ。それも、なぜか西から戻ってきたらしい。


 ただし怪我(けが)の功名でアゾレス諸島を発見できたから良かったものの、そうでなかったら雇い主のユーグによって処刑される所だったらしい。


 イルデブラントによる、ノルマン人船団の質が悪いことの説明は長々と続いた。


 でもね、ユーグもイルデブラントも間違っている。このノルマン人はとっても優秀なんだよ。


「イルデブラント、心配してくれてありがとう。でもね、大丈夫。彼らはとっても優秀だって確信したもの」


 ユーグの雇った3つの船団は、契約通りカナリア諸島を南下したことだろう。


 しかしカナリア諸島の少し南を境に風向きが南西から北東に変わってしまう。そのため北東の方角にあるヨーロッパに直接戻ろうとしても、帆船では不可能なのだ。


 戻るためには、北東の偏西風に逆らわずアフリカ沖を大きく西に迂回する必要がある。西に迂回すれば、南西の貿易風に加え北大西洋海流を使って、ヨーロッパへと戻ってこられる。


 この場合、当然であるが西側からヨーロッパへと戻ってくることになる。

 ユーグの雇った船団のうちの一つが、アゾレス諸島を発見したのは偶然ではなかっただろう。風に逆らわず、海流を生かし、ヨーロッパへと生還した超優秀な船団なのは間違いない。


 あとは、風と海流を生かす技術を使って、アメリカ大陸に行ってもらえばよい。


 ああ、これでようやくピザが見えてきた。


 ■■■ 嫁盗り期限まであと1年7か月 ■■■


 ジ:ジャン=ステラ

 ア:アデライデ・ディ・トリノ


 ア:ジャン=ステラの悪名も後世に残らないかしら

 ジ:僕の悪名ってなに?

 ア:ユーグ殿を騙して世界の半分を手に入れたって

 ジ:ぼく、領有する気はないですよ

 ア:それはどうして?

 ジ:だって面倒だもん

 ア:!!!


 その日、アデライデお母様の価値観が揺らいだのです

 地図を見ると、欧州に帰還できたノルマン人船団の優秀さが理解しやすくなります。ということで、ヨーロッパ発着のアフリカ南下航路と貿易風・偏西風を再掲します。


挿絵(By みてみん)

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― 新着の感想 ―
[一言] アメリカ大陸だったり偏西風だったり、 「ユーグは全体像が見れない」的な悪名は残りそうでありますw そしてジャン=ステラの方といえば、戦争で得た領地や会社のポストの隠語として使われる「ケーキ…
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