世界を二分割する条約
1064年1月上旬 北イタリア アルベンガ離宮 ジャン=ステラ
「ジャン=ステラ様、アデライデ様、お久しぶりでございます」
枢機卿の豪奢な服を身に纏ったイルデブラントが入室してきた。
しかし、その声にハリがなく、なんだか疲れているみたい。
いつも笑顔で精力的なイルデブラントとは別人のように見えてしまう。
そんなイルデブラントの様子に全く頓着せずにユーグは、ピエトロお兄ちゃんとアグネスちゃんの縁談が整った事を伝えた。
「イルデブラント様、トリノ辺境伯家とアキテーヌ公爵家との縁談が纏まりました」
「おお、それは誠におめでたい。両家に神のご加護があらん事を」
胸の前で十字を切るイルデブラントは、疲れた顔に喜びを浮かべてピエトロお兄ちゃんの結婚を祝福してくれている。
事務的で冷めた感じの口調で話すユーグと、喜びを言葉と顔に表すイルデブラント。
対照的な二人の対応をみていると、ユーグに対する不信感がむくむくと僕の胸に湧き上がってくる。
もちろん、好き嫌いで人を判断してはダメってわかってはいるつもり。それでも感情を抑えられない。
そのユーグなのだが、仕事を片付けてしまいましょうとばかりに、領有権の問題を切り出した。
「早速ではありますが、新しい島々を誰の領土とにするかについて、教皇庁のご判断をお聞かせください」
「ユーグ殿、それは構いませんが、新しい島々についての説明はお済みなのですか」
「そちらも、イルデブラント様にお願いできればと思っています」
新しい島って何のことだろう。
ユーグが言い出したことなので、彼が指揮する探検隊が発見した大西洋の島々かな?
まさか、アメリカ大陸ではないと思いたい。だって、アメリカの地図は渡していないもの。
ユーグから説明の要請を受けたイルデブラントは、一瞬嫌な顔をした後で「島」について説明してくれた。
「ジャン=ステラ様からいただきましたヨーロッパ・アジア・アフリカの地図に基づき、ユーグ殿は新しい島々の探索を行ってきました。
その過程でユーグ率いるノルマン人船団は、これまで知られていなかった島々を発見しただけでなく、忘れられていた島々を再発見いたしました。
今回のお話は、忘れられていた島々についての領有をアキテーヌ公にお譲りいただきたいと、ジャン=ステラ様にお願いに上がった次第です」
うーん。意味がよく飲み込めない。知られていない島というのは理解できる。僕が渡した地図に載っていたけど、ヨーロッパ人が存在を知らなかった島だよね。
忘れられていた島々というのは何だろう。そもそも誰に忘れられていたの?
「イルデブラント。理解ができないんだけど、具体的に教えてくれる? 忘れられていたって誰に忘れられていたの?」
「もちろんです、ジャン=ステラ様。よろしければジャン=ステラ様の地図をお見せいただけませんか?」
僕は一つ頷き、執務室の棚から大きな羊皮紙に描かれた地図を取り出し、そして机に広げた。
「じゃあ、みんなで一緒に地図を見よう」
広げた地図には南北アメリカ大陸、そしてオーストラリア大陸は描かれていない。
ユーグだけでなく、イルデブラントにも新大陸の情報は秘密にしているから、当然のこと。
「ジャン=ステラ様、ありがとうございます。まず今回の対象となっているのは3つの諸島でございます
一つは、ユーグ殿が貿易拠点を構築中のカナリア諸島。残る二つは、こちらの島々でございます」
イルデブラントが地図上の2箇所を指し示す。
1つ目は北アフリカの西側、カナリア諸島の北北西のあたり。もう一つは、ポルトガルの西方のはるか沖合の海の上。
どちらの場所も、僕の地図に島はなく、ただ海が広がっている。
地図を覗き込むイルデブラントの顔に浮かぶ影が深まり、逆にユーグの顔が紅潮している。
「ジャン=ステラ様の地図も完璧ではなかったようですなぁ」
ユーグが首をふりふり、さも残念だと言わんばかりに、僕の地図の不完全さを嘆いている。
「そりゃ、まぁ、ねぇ」
一方の僕はと言えば苦笑するしかない。
そんなに勝ち誇らなくてもいいじゃない。
ヨーロッパ・アジア・アフリカが1枚に描かれている地図なのだ。小さな島まで全て書いてあるはずもない。
そんな僕をよそ目に、ユーグが2つの諸島について滔々と語り始めた。
「これらの島々なのですが、実はノルマン人が既に知っておりました。それどころか、古い文献を探したところ、古代ローマ時代には見つかっていました」
「おおっ、そうなんだ。ノルマン人って凄いね」
素直な驚きを僕は表した。こんな沖合の島を知っているとはびっくりだ。
さすが、ヨーロッパにおける海の覇者・ノルマン人なだけはある。
「ええ、海の知識において彼らに勝る者はいないでしょう。
さて、島々が地図に記されていない事はご理解いただけましたな」
そう言って周りをねっちょりと睨め回すユーグ。
「つまりは、この地図が不完全である、と。ジャン=ステラ様にもお認めいただいたという事でよろしいですね」
「まぁ、そうなる、かな」
そこまで念押ししなくても、マデイラ諸島とアゾレス諸島を地図に書いていなかったことは認めるよ。
だって、高校世界史の暗記項目になるほどに重要な、大西洋横断の拠点なんだもの。
新大陸を描かない地図に僕が書くわけない。
それなのに、ユーグは鬼の首でも取ったかのようで、今にも高笑いを始めてしまいそう。
「結構、結構、実に結構。では、これら2箇所の島々について、ジャン=ステラ様は領有権を主張しないという事でよろしいですな」
「別に領有権なんていらないよ」
ごきげんなユーグと、だんだんと不機嫌になっていく僕。
ユーグへの返答がだんだんとそっけなくなっていくのを止められない。
そもそも僕はジャガイモやトマトが欲しいだけで、その地を支配したいだなんてこれっぽっちも思っていない。
なにせ今日まで領有権の事を考えた事もなかったほどだ。
それを、領有権が得られなくて悔しいか。悔しいだろ。ほれ、悔しがれ〜みたいに言われてもね。
別に悔しくもないし、僕はただただ困惑するだけ。
それでも、何度も悔しいだろう、って言われ続けると、だんだんムカッと腹が立ってくる。
「実は、地図にない島々の領有権に関し、教皇猊下の裁可による取り決めがなされました。
その件をお伝えするため、イルデブラント様がここに同席されているのです」
そういってイルデブラントに発言を促すユーグの嬉しそうな事といったらない。
(ユーグはそんなに僕のことが嫌いなの?)
まぁ、嫌いなんだろうけどさ。
そして発言を促されたイルデブラントが、苦虫を噛み潰した表情で教皇猊下の裁可とやらを読み上げていく。
「ジャン=ステラ様、並びにアデライデ様にお伝えいたします。
ジャン=ステラ様の地図に未記載の島々は、アキテーヌ公の領土といたします。
カナリア諸島は地図に記載がありましたので、ジャン=ステラ様のサヴォイア家の領土といたします」
ふーん。まぁ、いらんけどね。なんだか気乗りしない。
ユーグとしては、僕から領土を巻き上げた気になって喜んでるのかな。
「さらに、条件があります。新領地における聖職者の叙任権は教皇が有するものとします」
言い終えたイルデブラントがそっと目を伏せるのが見えた。
そのイルデブラントに対し、アデライデお母様が普段よりも低い声で語りかける。
「イルデブラント様、いくつか確認させてくださいな」
「ええ、なんなりと」
怒りを抑えていることが明らかなお母様と、何か諦めた感じで微笑むイルデブラント。
「地図に未記載だった島々については、どなたの領土になろうと構わないでしょう。
それでいいですね、ジャン=ステラ」
「は、はい、お母様! 僕に異存はありません」
ノルマン人が既に見つけていた土地を奪うつもりなんて、僕にはこれっぽっちも持ち合わせていない。
従って、お母様に逆らう積もりも必要もない。
それでも、お母様の有無を言わせぬ強い語句に背筋がぴーんって伸びちゃった。
「叙任権が誰の手にあるのか。これについては先代皇帝ハインリッヒ3世の御代から、争いの種となっていますよね」
「ええ、存じておりますとも」
「その上で、叙任権を教皇猊下にお渡しせよ、と。そのようにイルデブラント様は主張されるのですね」
「そこは訂正させてください。主張したのは私ではございません。教皇猊下が、です」
イルデブラントが力なく首を横に振っている。見ていて痛々しいけれど、アデライデお母様の追求の手はいまだ止みそうにない。
「あら、常日頃から『聖職者の叙任権は教皇が持つべきだ』と主張されているのはイルデブラント様でしたわよね。それとも私の記憶違いかしら」
「いえ、アデライデ様の記憶違いではございません。ですが、今回については教皇猊下のお言葉なのです」
信じてもらうのは難しいかもしれませんが、とイルデブラントがつぶやく声が僕の耳に届いてくる。
「そのようなイルデブラント様のお言葉を、一体全体どのようにしたら私は信じられるのでしょうか」
「領主となるのがトリノ辺境伯家ではなく、ジャン=ステラ様のサヴォイア家とした点でお察しいただけませんか」
「ピエトロのサヴォイア家でもない、と」
「はい。ですから、トリノ辺境伯家がハインリッヒ陛下に叛逆した事にはなりません」
「……」
「……」
アデライデお母様がイルデブラントを睨み、そしてイルデブラントが力なくアデライデお母様を見つめている。
僕は息を潜めて時間が経つのを待つことしかできない。
……その刹那、お母様の目線がユーグを捉えた。そしてお母様の顔が一瞬強張った。
視線の先のユーグは、こんな張り詰めた空気の中、ひとりニヤけている。
そうか。わかった。ぜったい、裏で糸を引いているのはユーグだ、これ。
イルデブラントは誰かの泥を被っているだけだ。
お母様もそれがわかったみたいで、肺腑から大きく息を吐き出した。
「イルデブラント様、いいでしょう。あなたを信じましょう。
ジャン=ステラ。あなたは今から新しいサヴォイア家の当主です。
イルデブラント様の話を聞いてあげてくださいな」
いきなりな話に、おもわず変な言葉が口からでてきた。
「ほへっ?」
「まったく。ほへ、ではありませんよ。しっかりしなさい」
僕としてはアオスタ伯になった時に、独立した家を構えた積もりでいたんだけど、違ったみたい。
確かに、なんだかんだ言ってもお母様の庇護下にあったけどさ。
あとで詳しく聞いたところ、アオスタ伯としての僕はこれまで通り、トリノ辺境伯家の家臣のまま。
しかし、カナリア諸島の領主としての僕は、神聖ローマ帝国からも独立した一国の主となる、らしい。
つまりはアオスタ伯兼、カナリア諸島の王様? うーん、なんだそれ?
そもそもカナリア諸島には現地人がいるはずだよね。それも、ユーグ派遣のノルマン人を撃退しちゃうくらい強い人たちが。
そんな僕の困惑は誰にも顧みられる事なく、イルデブラントの話が続いている。
「アデライデ様、信じていただきありがとうございます。そしてジャン=ステラ様。領地の配分についてご了承いただけますでしょうか」
「うん、まぁ、いいけど……」
正直どうでも良くなってきた僕が、おざなりに返答すると、イルデブラントの顔に安堵の色が浮かんでいた。
きっと、いろいろ気に病んでいたんだろうね。
「ありがとうございます。では、既知の島々についての領土配分については、これで終わりです。
続いて、今後の領土配分について、教皇猊下の提案を披露いたします」
えー、まだあるの?
お兄ちゃんの結婚話に始まり、よくわからない領有権と叙任権、そして僕の独立と、もうお腹いっぱいなんだけどなぁ。
しかしながら周りを見渡すと、お母様もイルデブラントも真剣な眼差しのまま。
せめて一旦の休憩をはさんで欲しいなぁ、という僕の希望も言い出せなかった。
僕はただ、力なくうなずくのみ。
「未だ見ぬヨーロッパ西方の島々について、以下のように取り決めてはいかがとの提案が教皇猊下よりありました。まずは、その背景について説明します」
そのイルデブラントの説明の長い事といったらなかった。
長々と話すという事は、よっぽど言い出しにくい事なんだろうな、と思いつつ耳を傾けた内容の要点は以下のとおり。
曰く「大西洋の北側はアイスランドやグリーンランドがあって、ノルマン人が活躍している」
うん、そうだね。1年前に幻獣ユニコーンのツノをお土産にもらったことを覚えている。
ま、ユニコーンじゃなくて海獣のイッカクの長く伸びた歯だったけどね。
曰く「今回アキテーヌ公爵領となった島々はジャン=ステラ様の地図に記されていなかった」
マデイラ諸島もアゾレス諸島も小さい島々なので書いていなかった。これは先ほど僕が認めたとおり。
曰く「大西洋の西側にある島々についての情報を教皇庁は持ち合わせていない」
僕がアメリカ大陸の地図を隠しているから当然だよね。
曰く「教皇猊下は、ジャン=ステラ様が提出された世界地図の正確さに疑義をお持ちである」
別に信じてくれなくてもいいよ。
曰く「そのため、ジャン=ステラ様がにせ預言者である疑惑も深まっている」
うん。ん?
地図が正確かどうかで、預言者の真贋を判断するって勝手に決めたのは教皇庁でしょう?
なんとも、自分勝手な主張だよね。
そして、教皇の出した結論としてイルデブラントが携えてきた羊皮紙の内容は次のようなものであった。
「新しい土地はそれを見つけた者の所有物なのは当然である。
しかしながら、ジャン=ステラ殿の地図は正確さを欠いている。
ついては今後見つかる島々については、次のように取り決める。
カナリア諸島以北をアキテーヌ公爵領、以南をサヴォイア領とする。
なおこれら新領地における聖職者の叙任権は教皇が有するものとする」




