月はどうして落ちてこないの?
1063年10月上旬 ドイツ オーストリア辺境伯領 ウィーン ジャン=ステラ
「ジャンお兄ちゃん、どうして月は落ちてこないの?」
お目めぱっちりのアレクシオスちゃんと僕は、執務室の部屋から東の空に浮かぶ満月を見ていた。
執務室に僕たち2人の影ができるくらい、明るい中秋の名月。
あぁ、月見団子が食べたいなぁ。
東ローマ帝国の皇族であるアレクシオスは、僕より3つ年下の6歳。
お父さんである先代皇弟のヨハネス・コムネノスは、
「ジャン=ステラ殿が預言者だと確信が持てた。早くもどって皇帝陛下に奏上しないとな」
といって、コンスタンチノープルに戻っていった。
一人残されたアレクシオスちゃんは、数日しょげていたけど、唐揚げとマヨネーズで懐柔した。
うん、やっぱり、美味しいは正義だよね。
そして一番重要なこと。「ジャンお兄ちゃん」「アレク」と呼び合う仲になったよ!
僕は末っ子だし、前世でもお姉ちゃんが一人いるだけだった。
だから、弟か妹が欲しかったんだよね。
血は繋がっていないけど、アレクは僕の弟、そう決めちゃった。
そのアレクちゃんだが、僕にたくさん質問してくる。
「どうして雨が降るの?」
「どうして空は青いの?」
「どうして鳥は飛べるのに、僕は飛べないの?」
まだラテン語を勉強途中のアレクちゃんは、簡単な単語しか話せない。
それなのに、答えるのが難しい質問ばかりなんだよね、困ったことに。
「地上や海で蒸発した水がお空に登って雲になるの。雲がたくさん集まって重くなると、雨になって降ってくるんだよ」
こんな風に僕がやさしく説明すると、側に控えている通訳がアレクちゃんに伝えてくれる。
ただ、その通訳がちょっと問題ありなんだよね。
ラテン語からギリシア語への通訳は完璧だと思う。
なにせコンスタンチノープル帝都大学の教授陣なんだもの。
しかし、アレクちゃんへの回答を聞いた通訳が僕に質問してくるのは、よくないと思うんだよね。
「空から降ってくるのは、雨だけではありません。雪やあられ、ひょう、そして雷が降ってくるのはなぜですか?」
「雪が溶けると水になります。氷も溶けると水になります。雪と水との違いは何ですか?」
教授だけあって、知識欲が旺盛なのはいいと思うよ。
しかし、アレクちゃんが置いてけぼりになっているから、ちょっとは質問を自重して欲しい。
アレクちゃんの質問コーナーは毎回、そんな感じ。
だから、アレクちゃんの質問には、ラテン語教師を務めている教授たちの影が透けて見えるのだ。
つまり、
「どうして月が落ちてこないの?」
という質問も、アレクちゃんが本当に聞きたい事なのか疑わしい。
ちなみに今日の翻訳担当は、数学者のピサネロ・ゲオルギオス。
少し前に、天動説・地動説で議論を交わした相手なんだよね。
「ねえ、アレク。お月様は空にあるものだよね。落ちてくるなんて考えは、どうやって思いついたの?」
かのニュートンは、「りんごは落ちるが、月は落ちない」ことから万有引力を思いついたと言われている。
しかしながら、そもそも「月が落ちてくる」などと、普通は考えないと思うのだ。
「えっとね、ピサネロからジャンお兄ちゃんに聞いて欲しいって言われたの」
果たして、曇りの一切ない笑顔で、裏で糸を引いている者の名前を暴露しちゃうアレクちゃん。
「あぁ、やはりね」
と、通訳として控えているピサネロを見たら、ちょっと慌てていた。
そのピサネロは、「う、お、オホン」、と小さく咳ばらいをしたあと、質問の理由を話してくれた。
「アレク様の代わりに、不祥このピサネロが回答いたします。
天動説において月や太陽、そして星々は、地球を覆う天球に固定されています。
そのため、月が落ちてこないのは当たり前でした」
プラネタリウムのドームみたいな天球に太陽や月が張り付いているのが天動説。
なるほどね。それなら月は落ちてこないだろう。
「しかし、ジャン=ステラ様の地動説では、月は楕円軌道を描いており、そもそも天球が存在しません。
月が天球に固定されていないのであれば、地上に落ちてくるはずです。
やはり、地動説は間違っているのではないでしょうか」
ああ、そういう事ね。ピサネロはまだ地動説に納得していなかったんだ。
今も、ピサネロは、挑戦的な輝きを宿した目を僕に向けてくる。
そんなピサネロを無視して、僕はアレクに問いかける。
だって、ピサネロは翻訳係であって、主役はアレクだもん。
「月が落ちてこないのって、アレクも不思議に思うかな?」
「ん~。よくわかんないや。ジャンお兄ちゃんはどうして落ちてこないか知ってるの?」
左の人差し指をほっぺたに添えて、小首をかしげるアレクちゃんがとっても可愛い。
「うん、知っているよ」
「ジャンお兄ちゃんすごーい!」
まだ何も答えていないのに、アレクちゃんが僕を尊敬の眼差しで見てくる。
もう、目からキラキラって音が聞こえてきそう。
そんな視線がこそばゆいけれど、僕はとっても嬉しくなっちゃう。
これぞ、お兄ちゃん気分ってやつだと思う。
「えっへんぷいぷい。そう、僕ってすごいんだぞぉ」
なんだか、アレクちゃんを見ているだけで、心が洗われていく気がする。
素直な子っていいよね。
「じゃあ、説明するよ」
「うんっ!」
「とっても簡単な事なんだよ。お月様が落ちてこないように、見えない手で支えているだけなの」
「見えない手って、神様の手?」
「残念だけど、神様じゃないの。遠心力って言うお手てなの。ちょっと実験してみようか」
従者のファビオに、ひもと石を持ってきてもらう。
ひもの先に石を結びつけて、僕は石と反対側のひもをつかむ。
そして、手を頭よりも高くあげる。
すると、ひもは石を下にしてぶらーんと垂れ下がる。
「ねえアレク、石って落ちるよね」
そう言って、ひもを持つ手を離す。
トンッと小さい音を立てて、石が床に落ちる。
「うんっ、落ちたね」と、アレクちゃん。
僕はひもをもう一度持ち、手を上げる。
「こうやって、ひもを持っていたら、石は落ちないよね」
「ジャンお兄ちゃん、それは、当たり前じゃない?」
「そう、あたりまえ。石が床に落ちないよう、ひもが支えているからね」
アレクちゃん相手にやさしく説明している僕を、ピサネロがものすごーく真剣な目で見ている。
「では次に、このひもを振り回すよ。すると石はどうなるかな?」
頭上でひもを振り回す。
最初はゆっくりと。そしてだんだん速く。
最初は低い位置にあった石が、回転速度をあげるにつれて、手の高さまで登ってきた。
「アレク、石はひもに支えられていないけど、落ちないよね。これが遠心力なの」
「うわー、面白い~。ぼくもやりたい。ジャンお兄ちゃん、貸してかして~」
アレクちゃんは、もう質問の事を忘れてしまったみたいで、石をぶんぶん振り回したくて仕方ないみたい。
「石を机や壁にぶつけないよう気をつけてね」
注意をしてから、石のついたひもをアレクちゃんに渡した。
アレクちゃんが遊び始めたのを見届けたあと、僕はピサネロと向き合った。
「ピサネロは理解できたかな? 回転していると、落ちてこないよね」
僕に言葉を向けられたピサネロは、不満顔を乗せた首を左右に振っている。
「ジャン=ステラ様、私は納得できていません。
回転する石の中心と、地面の向きが違います」
地球をまわる月は、回転の中心である地球に向かって落ちていく。
しかし、石の場合、回転の中心と重力の向きが違う。
だから、納得できないのだと、ピサネロが主張する。
(そんな細かいことに気づかなくてもいいのに)
「ピサネロは本当に、月が落ちてこない理由を理解したい?」
「もちろんですとも」
大きくうなずくピサネロに、僕は3冊の教科書を渡すことにした。
ドンドンドンッと執務机の上に置かれた植物紙の本。
「これは?」
「僕が書いた方程式と積分と、そして力学の教科書だよ」
月が落ちてこない理由、つまり万有引力と遠心力を理解するためには、数学と物理が必要になる。
最低限の知識を詰め込んだ教科書をピサネロに渡す。
先日、アレクちゃんのお父さん、ヨハネス・コムネノスから紙をたくさん貰ったんだよね。
それを使って、教科書を書いていたのが丁度、役立った。
教科書を手に取ったピサネロが驚きの表情で、丁寧にページをめくっている。
「教科書の内容を理解したら、また来てね」
そういってピサネロに退室を促そうとしたら、アレクちゃんが割り込んできた。
「ジャンお兄ちゃん、ぼくも本が欲しい~」
どうやら石を振り回すのに飽きちゃったみたい。
うーん、どうしよう?
僕の本って、全部ラテン語で書かれているんだよね。
アレクちゃん、ギリシア語はともかくラテン語は読めないはず。
でも、まぁいっか。教授陣の誰かが翻訳してくれるだろう。
「じゃあ、算数の本を貸してあげる」
算数の教科書を開いたアレクちゃんが、一言声を発する。
「よめない……」
悲しそうに下を向いちゃった。
「じゃあ、アレクが楽しめるような本にしよう」
かわいい子に悲しい顔は似合わない。
笑顔になってもらえるよう、算数の本に落書きしちゃえ。
ページの右端に、立っている棒人間。
次のページの右端に、歩き始めた棒人間。
さらに次のページにも、もうすこし歩いている棒人間。
棒人間のパラパラ漫画を、急いで教科書に書いていく。
よしっ、できた!
「いい、ここをよく見ていてね」
ページの右下を見るようアレクちゃんに言い、ページをパラパラとめくっていく。
「わ、動いた! 動いてる!」
きゃっきゃと楽しげに笑うアレクちゃんが嬉しくて、なんどもパラパラ漫画を動かしてみる。
その度に驚いてくれるから、こっちもテンションあがっちゃう。
ひとしきりパラパラ漫画で遊んだあと、アレクちゃんが聞いてきた。
「ジャンお兄ちゃん、本に精霊を宿したの?」
月は本当に地球に落ち続けているのでしょうか?
これはある意味間違っていて、実は地球からすこしずつ遠ざかっています。
年に2cmくらいと微々たるものですが、不思議ですよね。