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イルブラントの献身

 1063年8月下旬 ドイツ オーストリア辺境伯領 ウィーン ジャン=ステラ


 これが音楽の都、ウィーンなの? なんか、しょぼいんですけど。


 アデライデお姉ちゃんの嫁ぎ先、ラインフェルデンのお城を出発して今日で17日。


 道中は平和そのもの。


 草原の花々をそよがせる爽やかな風が、かすかな香りを運んできてくれた。そして頭上には青空が広がり、夏の日差しが街道に短い影を落としていた。


 ヨーロッパの夏はそれほど暑くなく、馬を歩かせていても、大汗をかかないのも良い感じだった。ほんと、日本の夏とは大違い。


 白馬のブランの騎乗を楽しんでいた僕の目に、無骨な石造りの城壁がその姿を現した。


「ジャン=ステラ様、あれが軍の合流地点であるウィーンです」

 僕の横に馬を並べた護衛のロベルトが、そのお城の名前を教えてくれた。


 黒海へと流れていくドナウ川のほとりに建てられたウィーン城は、直線が多く実用一点張りに見える。


 高校音楽の先生はウィーンを音楽の都と呼び、花の都パリに並ぶ芸術都市だと教えてくれた。


 そのウィーンが見られるんだってちょっと観光気分だったのに、眼前のお城は無骨で野暮ったい。単なる軍事拠点の砦と言われた方が納得する。


 戦争に駆り出される僕にとって、数少ない楽しみの一つがウィーンだったのに。

 期待が大きかっただけに、落とされた時の落差が大きくて、がっかりへにょんな気分だよ。


 とはいえ、よく考えなくても、モーツァルトもベートーベンも生まれる前だもんね。音楽っぽさや華やぎがなくても仕方ないかぁ。



 ウィーン城に近づくと、城壁の周りは軍がたむろする場所になっていた。

 あっちも軍隊、こっちも軍隊。


 何千人、何万人といるのだろう。

 それも当然。ハインリッヒ4世率いるハンガリー遠征軍はここウィーンに集結することになっている。

 ここからドナウ川の水運を使い、下流のハンガリーへと攻め込むのだ。



 そんな軍隊の群れを僕は馬上から眺めつつ、街道を進んでいく。


 ごつい体のお兄さん、おじさんたちが所在なさげに座っている。


 遠目で見る限り「これからハンガリーに攻め込むぞー」という気合は全然感じられない。

 力がみなぎる代わりに、無気力オーラをまとっているんじゃないかと思えるくらい。


 そりゃそうだよね。みんな戦争なんてしたくないに違いない。


「うんうん、僕も一緒だよ」そう心の中で小さくつぶやく。


 きっと、戦争したいのは一部の上層部か戦闘狂だけなんだろう。


 戦争いやだなぁ。

 あぁ、城門へと進む足取りが重い。


 ◇  ◆  ◇


「トリノ辺境伯家の宿泊場所は、こちらの教会になります」

 城門から宿となる教会まで先導してくれたオーストリア辺境伯の騎士が申し訳なさそうに告げる。


 ウィーンの城壁内で僕たちトリノ辺境伯家にあてがわれた宿は、さほど大きくもない街中の教会だった。


 別館ひとつ貸し切りだったアデライデお姉ちゃんの嫁ぎ先、ライフェルデン城との待遇落差がひどい。


「もう少しましな場所は無かったのか?」

 ピエトロお兄ちゃんが騎士に文句を言うが、聞き入れられなかった。


「我が主、オーストリア辺境伯エルンストにお伝えはいたしますが、変更は難しいかと存じます」


 申し訳なさそうに首を振る騎士を見る限り、この教会でも善処してもらった結果ではあるらしく、理由を丁寧に説明してくれた。


 ハンガリー戦役に参加する諸侯達が、ここウィーンに集まっている。


 辺境伯家よりも爵位が上の貴族だけでも8人が参陣しており、さらに高位聖職者もいるため、そもそも諸侯全員に格に見合った良い宿をあてがう事は物理的に不可能なのだとか。


 8名の内訳は、皇帝・国王クラスがハインリッヒ4世を筆頭に、皇妹ユーディット、その婿であり前ハンガリー王の嫡男シャラモン、そしてシャラモンの母であるアナスタシヤの4人。


 ちなみに、今回のハンガリー戦役の目的は、現ハンガリー国王ベーラを打倒し、ベーラの甥であるシャラモンを国王にすること。ハンガリーに攻め込む大義名分の鍵が、10歳のシャラモン君ということになる。


 そして残りの4人は、今回の主戦力であるバイエルン大公オットー・フォン・ノルトハイム、お姉ちゃんの婿であるシュバーベン大公ルドルフ、ザクセン大公オルドルフ、そしてケルテン公ベルトルト2世。


 トリノ辺境伯より格上の諸侯が一杯集まっている事がわかった。観光ではなく戦争に来ているのだから、味方が多い事を喜ぶべきであり、宿泊先に文句をいうのはお門違いだろう。


 騎士からの説明を受けた僕たちは、この教会を宿とすることで諦めることにした。


 なお騎士の説明は、僕にとって宿以上にやっかいな問題が発生した瞬間でもあった。


(覚えないといけない名前が多すぎるぅ)


 間違えると言う不敬をやらかす訳にもいかないし、もう涙目だよ。一度は諦めたけど、やっぱり名刺が欲しいなぁ。


 名刺問題はさておき、ウィーンの城はどうやらトリノ城よりも小さいみたいだし、王族や上級貴族が泊まれる場所が少ないのは仕方ない。そう頭では分かってはいる。


 でもね、「宿の準備も出来ないなら、僕たちを呼ばないで欲しかった」 というのが僕の正直な思いである。


 ウィーンに着いてからいいことが全然ない。

 ハインリッヒ4世に嫌がらせされるのも確定みたいだし、もういろいろと嫌になっちゃう。



 ◇  ◆  ◇


「ピエトロ様、ジャン=ステラ様。イルデブラント枢機卿がお見えです」


 教会の一室を執務場所として整えてもらっていた僕たち兄弟の所に、来客の知らせがあった。


 僕がトリノを出立する前に、お母様がハンガリーへの同行をお願いしていた助祭枢機卿イルデブラントのお出ましである。


 案内にしたがって部屋に入ってきた初老の枢機卿、イルデブラントは気が()いているらしく、挨拶もそこそこに本題を切り出した。


「ジャン=ステラ様、ここは危険です。万が一に備えて宿舎を移動いただけませんか。もちろんピエトロ様もご一緒で構いません」


 イルデブラントが提案する移動先はウィーンの大広場中央にそびえたつ大聖堂。皇帝勅使としてこの地を訪れているイルデブラントの宿泊所でもある。


 僕たちに割り当てられた教会は、まわりに家が建ち並んでいるため、暗殺者が潜伏しやすいらしい。その点、大聖堂の周りは広場となっているため、暗殺者が急襲できないのだとか。


「イルデブラント様は、ジャン=ステラを暗殺する具体的な計画でもご存知なのでしょうか」

 ピエトロお兄ちゃんの言葉に、イルデブラントは首を振る。


「ピエトロ様、それは私にはわかりません。ですが、ジャン=ステラ様はいつお命を狙われてもおかしくないのです。特にケルン大司教アンノ殿が権力を持つドイツ滞在中は強く警戒すべきです」


 ケルン大司教アンノはハインリッヒ4世の右腕として、神聖ローマ帝国の実権を握っている。

 とても権力欲の強い人物であり、その実権は摂政を務めていた皇太后アグネスから奪ったものだったりする。

 さらに悪い事に、アンノ大司教はクリュニー会の賛同者として、ユーグ・ド・クリュニーと強い繋がりを持つ。


「アンノ大司教なら、自分の利益になると見れば、ジャン=ステラ様を亡き者にする事を躊躇(ためら)わないでしょう」


(うへぇ。こんな所にまでユーグの手が伸びているのかぁ)


 ユーグに怒っちゃだめだったなぁと、今更ながらに後悔の念が頭をよぎる。


 まぁ、後悔先に立たずというし、今更だよね。

 きっと、なんとかなーるさ。


 それはともかく、イルデブラントの懇願に近い提案をピエトロお兄ちゃんと僕は受け入れ、そそくさと大聖堂へと移動した。


 ◇  ◆  ◇


「そうそう、トリートメント10瓶を渡しておくね」


 大聖堂に移動した後、ピエトロお兄ちゃんと僕は、イルデブラントの執務室へと通された。


「今後のことについてお話ししたいことがあります」と言っていたので、イルデブラントが得ている情報を教えてもらえるのだろう。


 それに先立ち、僕は報酬の一部であるトリートメント10瓶をイルデブラントに渡そうと思う。報酬の支払いは早い方がいいものね。


 ファビオ・ディ・サルマトリオが執務机の上に瓶を並べていく。


「ジャン=ステラ様。割れやすい瓶をウィーンまでお持ちいただきありがとうございます」

「どういたしまして。それに、これはイルデブラントにウィーンまで来てもらったお礼だから遠慮しないでね」


 イルデブラントの礼を聞き、僕は瓶が割れやすかった事に思い至った。

 この瓶を運んできた人は大変だったろうなぁ。

 運搬人の尽力のおかげで無事、イルデブラントにトリートメントを渡すミッションが達成できた。


 それにしても、どうしてウィーンまで瓶という割れ物をわざわざ持ってこなければいけなかったんだろう。それに、誰が使うのかもちょっと気になる。

 イルデブラントが夜な夜なトリートメントで髪をツヤツヤにしている、というわけではなさそうなのは、彼の光沢のない髪をみれば分かる。


「このトリートメントって誰が使うの? イルデブラントは使っていないよね」

「ええ、私は使っておりませんよ、ジャン=ステラ様。一部の聖職者は、トリートメントを使えば毛が生えてくるのではないか、との噂を聞いて試す者もおりました。しかし効果が見られなかったため、イタリアでは下火となりました」


 なんでトリートメントで毛が生えてくるって思うかねぇ。天使の輪が出るだけだよ。

 いや、もしかして不潔にしていた頭皮をトリートメントで綺麗にするだけで髪って生えてくるのかな?


 まぁ、イルデブラントが下火と言うだけあって、あまり効果はなかったんだろう。


「そりゃ、トリートメントは毛生え薬じゃないからね」

「ですが、今回はその噂も使い、トリートメントで大司教達の買収を試みたいと思います」


 アデライデお母様の影響力が強い北イタリアならともかく、ここドイツの地では僕の味方が少なすぎる。その事をイルデブラントは懸念している。


「人は好き嫌いという感情で動くのですから、歓心を買うのは大変重要なことなのです。特にジャン=ステラ様のように目立つお方は、嫉妬を買わないよう上手に立ち回る必要があるのですよ」


 イルデブラントに諭されてしまった僕だけど、正直な所どうすればよいかなんてわからない。


 ただ、嫉妬が怖いのは、前世から知っている。高校のクラスだってちょっと綺麗な顔立ちをしているからって嫉妬されて、妬まれて、嫌味を言われている同級生が何人もいた。そんな子達は縮こまって嵐が過ぎ去るのを待つか、地味を装うか、道化になるしか嫉妬を回避する手段がなかった。


「嫉妬って怖いものね。僕はどうすればいい?」

 前世の知識にも対応法なんて存在しない。素直にイルデブラントに聞いてみた。

「ジャン=ステラ様は何も行動を起こす必要はありません。全て私にお任せください。ただ、ジャン=ステラ様には、危険な状況なのだと認識していただければ十分です」


 味方が少ないと、身の危険が増えるし、嫌がらせも厳しいものになる。そして何かあった時に擁護してもらえず、被害が拡大する。まったく良いことがないのだ。


 僕がイルデブラントのために持ってきたトリートメントを、イルデブラントは僕の味方を増やすために使うのだと言う。


「イルデブラント、それでいいの? だってこのトリートメントはハンガリーまで僕に同行する報酬なんだよ」

「ジャン=ステラ様が気にされることはございません。アデライデ様から他の報酬もいただいておりますし、私はジャン=ステラ様が預言者としてご活躍いただけるのなら、それに勝る喜びはありません」


イルデブラントのトリートメント配布先


●宗教

ケルン大司教 アンノ 2瓶

マインツ大司教 ジークフリート 1瓶

ハンブルク・ブレーメン大司教アーダベルト 1瓶


●世俗

前ハンガリー王の嫡男 シャラモン 2瓶

シャラモンの母 アナスタシヤ 2瓶

オーストリア辺境伯 エルンスト 1瓶

ケルテン公 ベルトルト2世 1瓶


いずれもアデライデお母様がトリートメント販売を許可していない者達です

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― 新着の感想 ―
[一言] 頭皮油とかでベタついた髪よりサラサラフワフワの髪の方が頭皮が目立たないのでトリートメントで毛の量が増えたように見えるというのはあるかもしれませんね 落葉樹林と常緑樹林の違いの話で荒野には関…
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