名刺からの発想
1063年8月上旬 ドイツ シュヴァーベン大公領 ラインフェルデン ジャン=ステラ
「なあ、ジャン=ステラ。お前がメイシを作るって事は皇帝になるつもりか?」
ふへっ? なんでそうなるの?
宴会で紹介される人が多すぎて名前が覚えられないねってピエトロお兄ちゃんと話していた。
名刺があればいいねって言っていたら、真顔のお兄ちゃんから詰問されちゃった。
皇帝なんて職業に魅力を全く感じないんだけどなぁ。正直に言って皇帝に成りたい人の気がしれない。
だって、皇帝だからって美味しいものが食べられるわけじゃないんだよ。そんな地位、意味ないじゃん。
それより僕は、じゃがマヨコーンピザが食べたいの!
それはさておき、お兄ちゃんの誤解はどこから発生したのだろう。
「皇帝になるなんて嫌ですよ。預言者ってだけでも面倒なのに。でも、どうしてお兄ちゃんは僕が皇帝になりたいと誤解したんですか?」
あまりに突拍子がなさすぎて、理解が全く追いつけない。どうして名刺を作ることが皇帝に繋がるんだろう。
「だって、ほら。枢機卿のイルデブラント様からアスティでの貨幣鋳造権を獲得しただろう?」
「そういえば、お母様が交渉していたような気がしますね」
うーん。そうそう、たしか5年くらい前だったっけ。
イルデブラントが僕のことを預言者だと断定した時、放心状態だった隙をついてお母様がコイン作成許可の羊皮紙にサインをもらってた。
「でも、ピエトロお兄ちゃん。コインと名刺がどうつながって、僕が皇帝になるんですか?」
「ジャン=ステラ。お前はコインの意匠をじっくり眺めたことはないのか?」
「コインのデザインですか?」
うーん。どんなデザインだったっけ。
十円玉なら思い出せるんだけどなぁ。裏に10って数字が、表に宇治平等院鳳凰堂が描かれている。
イタリアで流通しているのは銀貨ばかりで、金貨はほとんどない。
そのデナリウス銀貨のデザインねぇ。
僕の記憶だと、何種類もあって、決まったデザインではなかったはず。
そのためだろうか、お兄ちゃんの意図がいまだによく掴めない。
「あのな、紋章の銀貨もあるが、一番多いのは顔が彫られた銀貨だろう?」
「うーん、そんな気がしますね」
「おいおい、心許ない返事だなぁ」
酔っ払いのお兄ちゃんが苦笑を返してきたけど、仕方ないじゃない。そんな細かいことまで覚えてないんだもん。
僕だって商売をしているけど、基本的に帳簿上の数字を見るだけ。銀貨を手に持つことなんてしない。
「僕が銀貨を手に取ることは、ほとんどないんですよ。トリートメントや蒸留ワインの取引はみんなにお任せしてますから」
「なるほどな」とお兄ちゃんが頷く。
「いいか、銀貨の顔は皇帝なんだ。顔つきのメイシを作って配ったら、『俺は皇帝だ』と宣言してまわるようなものなんだぞ」
そっかぁ、コインに彫ってある顔って皇帝なんだ。でも、コインと名刺って全く違う。混同されると、僕には困惑しか残らない。
「でも、ピエトロお兄ちゃん。名刺はコインと全く違いますよ。名前と顔を覚えてもらうのが名刺であって、お金ではありません」
「いや、その名前と顔を覚えてもらうのが目的なのは、コインと同じだろう?」
デナリウス銀貨に彫られたローマ皇帝の横顔は、お兄ちゃんの家庭教師の教材なのだとか。
『この銀貨の横顔は、第二代皇帝ティベリウス。イエス様がキリスト教を布教していた時の皇帝であり、聖書にも出てきます。
もしかすると、この銀貨は、イエス様が触れらたものかもしれないのですよ』
その家庭教師がお兄ちゃんに語ったらしい。「コインに皇帝の顔を彫るのは、統治者を知らしめるためなのです」と。
ピエトロお兄ちゃんからその話を聞いた僕は、オッドーネお父様のやらかしが脳裏に浮かんだ。
かつて、オッドーネお父様が教皇の許可を得ずに貨幣を鋳造したことがある。
フランス側のアルプス山中で、ちょっと作ってみただけだったのに、教皇から強く叱責された。
その影響で、お兄ちゃんの家庭教師がコインと皇帝の話を盛って話したんだろうね。
「ピエトロお兄ちゃん、心配してくれてありがとう。
では、こうしましょう。名刺には顔を描かない。それなら大丈夫ですよね」
とはいえ、名刺を配ろうが配らなかろうが、僕の名前は、教皇から預言者だと認定されちゃったら、どうせ広まってしまうけどね。
「なぁ、ジャン=ステラ。どうせ名前が売れるというのなら、お前がメイシを配る意味はあるのか?」
僕についてはたしかにその通り。僕がみんなの名前を覚えるために、名刺が欲しいのだ。
それにしても、どこで話が逆転しちゃったのだろう?
「確かにお兄様の言う通りです。だけど僕が最初に名刺を配らなかったら、名刺を配る習慣が根付きませんよね」
「ああ、そういえば、そんな話だったな。失敬しっけい」
赤い顔でだらしなく椅子に座っているお兄ちゃんがしきりに頭を振っている。
そんなことをしたら、もっと酔いが回っちゃうよ、と心配になっちゃう。
「お兄ちゃん、頭を振らない方がいいよ」
「大丈夫、大丈夫。俺はぜんぜん酔っていないから」
どうしてよっぱらいは「酔っていない」って言うのかなぁ。まったくもって仕方ないお兄ちゃんだこと。
「そうだな、ジャン=ステラ。素材が金銀ではないのなら、コインとして使えないし、案外いい案なのかもな。形もコインが丸で、メイシは長方形なんだろ。
もう、いっそのこと似顔絵つきの羊皮紙を盛大にばら撒いちゃったら面白そうだ」
けたけた笑い始めるお兄ちゃん。
預言者の方が皇帝よりも権威が上だと見せつけてしまえばいい。そんなふうに僕を煽り始めちゃう。
お兄ちゃんは本格的に酔いが回ってきたみたい。先ほどまでと正反対の意見になってしまった。
もうっ! これだから酔っ払いと話すのは嫌になっちゃう。
「はいはい、わかりましたよ。預言者になったら、似顔絵付きの名刺を作りますから、今夜はもう寝ましょうね」
足元フラフラのお兄ちゃんをベッドへと誘導し、寝かしつけを終えた後、ふと思った。
貴金属ではなく、羊皮紙で作った貨幣があったっていいんじゃない?




