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アデライデお姉ちゃん

 1063年8月上旬 ドイツ シュヴァーベン大公領 ラインフェルデン ジャン=ステラ


「失礼します。一旦停止の上、軍の所属と目的地をお教え願います」


 シヨン城を出発した僕たちの、次の目的地はドイツのラインフェルデン城。


 昨年九月に結婚したアデライデお姉ちゃんとその夫、シュヴァーベン大公ルドルフ・フォン・ラインフェルデンの居城である。


 僕たちトリノ辺境伯軍は、ここで義兄であるルドルフと合流し、ハンガリー戦役へと向かう手筈となっている。


 そのラインフェルデンの街に近づいたところで、軍隊の検問に遭遇した。


 トリノ軍の最前列を進む騎士の誰何(すいか)に答える声が僕の耳まで届いた。


「こちらはトリノ辺境伯ピエトロ・ディ・サヴォイア様の軍である。シュヴァーベン大公ルドルフ・フォン・ラインフェルデン様にご挨拶するため、城に向かっている途中である」


 ハンガリーへと出兵する軍が集まっているからか、警戒が物々しくてちょっと怖い。


「ねえ、ピエトロお兄ちゃん。戦場に向かう軍って物々しい物なの?」

「さあな、俺もわからんよ。俺も外征は初めてだからな」


 お兄ちゃんの顔にも緊張が表に現れている。


 よくわからないけど、僕たちトリノの軍と、シュヴァーベン大公の軍とでは兵の質が違う気がする。大袈裟にいうと、洗練された文明人と熊みたいな野蛮人の違いって感じ。


 イタリア兵はドイツ兵に比べて弱いというけど、本当みたいだね。


 その強そうなドイツ兵が(たむろ)している関所を抜け、僕たちはお城へ向かって軍を進めるのであった。



 ラインフェルデンのお城の客間に通されたピエトロお兄ちゃんと僕の元に、アデライデお姉ちゃんからの伝言が届いた。


「宴会の前に、兄弟姉妹でお話をしませんか?」


 今夜は、シュヴァーベン大公が僕たち兄弟を歓迎する宴会が催される。その前に兄弟だけで話をしたいという、アデライデお姉ちゃんからのお誘いだった。


 宴会は公式な場になるから、その前に私的なお話をしたいという事だろう。


 お兄ちゃんと僕は了承の返事を返し、いそいそとお姉ちゃんの執務室へ向うのであった。



「お姉ちゃん、ひさしぶりっ!元気していた?」

「ええ、もちろんよ。ジャン=ステラも元気そうね」


 執務室の扉を衛士が開けるのを待ちきれず、隙間に体をくぐらせる。

 そして、お姉ちゃんに突撃して、抱きついた。抱きついて、頭をぐりぐりお姉ちゃんの肩に押し付ける。


 そんな僕の頭をアデライデお姉ちゃんが優しく撫でてくれた。


(トリノにいた時と同じ事をしてくれて嬉しいなっ)


 結婚してトリノを去るまでの間、お姉ちゃんと僕は同じ子供部屋で育ってきた。


 そのため、ピエトロお兄ちゃんやアメーデオお兄ちゃんよりも、アデライデお姉ちゃんの方が仲良し。僕は基本お姉ちゃんっ子なのだ。


「ピエトロ兄さん、遠路はるばる会いにきてくれてありがとう」


「いや、こちらこそルドルフ大公にはお世話になるからな。アデライデの口からも、俺たちが感謝していたと伝えてくれると嬉しいよ」


 ピエトロお兄ちゃんも嬉しそうだけど、なんかちょっとよそよそしい。というか照れてるみたい。ちょっと顔が赤くなっている。


「ねえ、ピエトロお兄ちゃん。1年間会わないうちに、アデライデお姉ちゃんが綺麗になったから、ドギマギでもしてるの?」


「お? おお。そうだな。アデライデ、きみは以前から可愛い妹だったが、誰がなんと言おうとも、今の君は俺が見た中で一番の美人だ。兄だというのに見惚れてしまった俺を許しておくれ。だが、それも仕方ないことなのだよ。君の前では、ギリシア神話のヴィーナスも(かす)んでしまうのだから」


 ピエトロお兄ちゃんが、大仰(おおぎょう)な身振りでお姉ちゃんの美貌を褒め(たた)えていた。

 奥手だと思っていたピエトロお兄ちゃんも、イタリアの伊達男なんだなぁ、と感心してしまう。


「まぁ、お兄様ったら」とアデライデお姉ちゃんが照れることなく、くすくすと笑っている。

「ドイツに嫁いでからというもの、兄さん達のように言葉を尽くして褒めてもらえなくなりました。ですから、昔を思い出し懐かしい気分になりましたわ」


 そっかぁ、イタリアとドイツはこんな所も違うんだねぇ。


「それにしても、お姉ちゃん。言葉遣いも随分と変わっちゃったね」

 昔はもっと雑な話し方をしていたのに、今は丁寧な言葉遣いをしている。


「そうねぇ。他家に嫁いでしまうと知らない人に囲まれてしまうでしょう? どうしても言葉遣いに気をつけてしまうのよ」


 家族なら問題ない言葉遣いでも、他人の家に入ると少しのすれ違いから揉め事へと発展してしまう。そうならないため、貴族女性は丁寧な、毒にも薬にもならない言い回しを習うらしい。


 いつの時代も、嫁ぐ女性は大変なんだなぁ。


 ふと、トリノのお母様のことが脳裏に浮かんだ。

 お母様の場合、オッドーネお父様がお婿さんにきたからお母様は自由奔放なままなのかもしれないね。


 そんな兄弟姉妹の軽口の応酬を続けていたいけど、そろそろお姉ちゃんが宴会前に僕たちを呼んだ理由を聞いてみよう。


「ねえ、お姉ちゃん。何か僕たちに伝えたいことがあるんじゃないの?」


「あら、ジャン=ステラは察しがいいわね」

 そう言いながら、お姉ちゃんは右手でお腹をさすり始めた。


「まだ公表していないのですけど、実はね、赤ちゃんができたの」


 そういって、ほほを染めるアデライデお姉ちゃん。


(ええ~)

 お姉ちゃん、妊娠したの! でも、ちょっとまって。お姉ちゃんて確か13歳だよね。


 現代日本だったら中学2年生だよ?

 そして、相手のルドルフ大公は38歳。これってロリだよ、犯罪でしょっ!


 って言いたいけど、夫婦だもんね。文句をいうわけにもいかない。


 頭の中がパニックしそうな僕に対して、ピエトロお兄ちゃんは素直に祝福の言葉を口にする。


「おぉ、それはおめでとう。(とつ)いですぐに妊娠できてよかったな」


「ピエトロ兄さん、ありがとう。これで私の立場も落ち着くわ」


 貴族女性の役割は、次代を担う子をなすこと。そう教えられて育ってきたアデライデお姉ちゃんにとって、妊娠はすこぶる嬉しいことなのだろう。


「あら、ジャン=ステラは喜んでくれないの?」

「いえいえいえ、そんなことないですよ。おめでとう、お姉ちゃん。これで僕もおじさんかぁ」


 赤ちゃんができて、お姉ちゃんが喜んでいるのはよーくわかっている。だから、最後の方は少しだけひょうきんな言い方をして、笑いをとってみた。


 でも、僕がすぐに喜びの言葉を返せなかった事実は変わらない。


 だってね、13歳の妊娠って出産のリスクが大きいんだよ。

 早産や流産もしやすいし、死産どころか母体の死亡率も高かったはず。


 ただでさえ出産時死亡率が高いここ中世で、さらに確率があがるんだよ。

 お姉ちゃんの身に何かあったらどうしようって考えると不安の雲がムクムクと心の中に湧いてくる。


 もう少し体が育ってからだったら、素直に喜べたのに。そう思わずにはいられない。


「ねえ、ジャン=ステラは何を悩んでいるの? お姉ちゃんには話してくれるわよね」

「お姉ちゃんにはバレバレだね」

「それはそうよ。長い時間を一緒の部屋で過ごしたんだもの。ジャン=ステラ、大丈夫よ。教えてくれるかしら」


 アデライデお姉ちゃんは、ふたたび僕の頭を優しく撫でてくれる。


 そうだよね。もう妊娠しちゃったんだもの。いまさら、妊娠前にはもどれないんだし、お腹の中の赤ちゃんのためにも、僕がなんとかしなくっちゃ。


「あのね、お姉ちゃん。赤ちゃんができたのは僕もとっても嬉しいんだよ。それは信じてくれる?」

「ええ、もちろんよ」


 お姉ちゃんが大きく頷いてくれた。


「でもね、僕は心配なの。若い妊婦さんの出産って大変なんだよ」

「ええ、私も知っているわ。先妻のマティルデ様は出産で亡くなったんですもの」


 アデライデお姉ちゃんは、ルドルフ大公二人目の妻である。

 先妻さんは、神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ3世の四女、すなわち皇女殿下で11歳の時に結婚している。そしてすぐに妊娠し、出産時に死亡した。


 お姉ちゃんが淡々とした口調で説明してくれた。ただ、強く握られた(こぶし)が震えている。


 出産で亡くなった人の話を聞かされていたら、そりゃ不安にもなる。


 僕も不安だけど、アデライデお姉ちゃんはもっと不安なはず。


(しっかりしろっ)

 僕は自分にカツを入れる。僕が不安を見せたら、お姉ちゃんはもっと不安になるもの。


 そういえば、前世のノエルお姉ちゃんも、出産前はとっても不安がっていたっけ。


 陣痛も恐いし、赤ちゃんが無事生まれるかも心配。そして初めての育児に見通しが立たない事も原因の一つだっただろう。

 でも、死ぬという不安は大きく無かったんじゃないかな。


 その点、アデライデお姉ちゃんの不安はノエルお姉ちゃんよりも、ずっとずっと大きいはず。


 笑顔を見せなきゃ。

 口角をあげ、オドオドと心配するのをやめて、どーんと構える。

 ちょっと胸も張ろう。


 よーし、心のスイッチが切り替わった。


 ふんっと気合を入れて、お姉ちゃんに正対する。


「お姉ちゃん、大丈夫。安心していいよ。僕が何とかしてあげるから」

「あらあら、神に無事を祈ってくれるのかしら」


 預言者の祈りなら神にも通じるわよね、と優しい笑顔を僕に向けてくれる。


「お姉ちゃんが望むなら、いくらでも祈ってあげる。でも、それ以外にも手立てはあるんだよ。僕の知識をお姉ちゃんのために使わせてね」


 小刻みに震えるお姉ちゃんの手をぎゅっと握り、僕は誓う。


 安全なお産になるように、出来る限りの手を尽くそう。


 僕の知識を生かすためには、出産に慣れた人の手が必要だけど、幸いな事に女性医師のトロトゥーラを連れてきている。



 沸騰消毒した清潔な布と、石けんを使って清潔にした手。

 これだけでも、死亡率はぐーんと下がる。


 あとは……そうだ。修道院のマクシモスに、蒸留ワインをさらに蒸留する緊急命令を出そう。

 消毒用アルコールを作って急送してもらわなくっちゃ。


 お姉ちゃんの出産予定は11月の終わりごろ。ぎりぎり間に合うかな?


 ハンガリー戦役なんて、どうでもいい。

 さっさと終わらせて、お姉ちゃんの元に戻ってこなくっちゃ。




■■■ 嫁盗り期限まであと2年 ■■■

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[一言] 前田又左衛門「けしからん奴だ!あと1年くらい我慢できなかったのか!」
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