サレルノのトロトゥーラ
1063年6月下旬 北イタリア ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ
教皇宛ての手紙を書き終わった。
カナリア諸島を中継港として使えないと、大西洋横断の危険度が跳ね上がる。なぜなら、無補給で航海する距離が増えるから。
結果的にトマトやジャガイモ、コーンが手に入る時期が遅くなるだろう。
人生は短いっていうのに、僕がピザを食べられなかったらどうするっていうのさ。
そんな激情が溢れるままに書いた教皇宛ての手紙。それを読み返しているうち、だんだんと頭が冷えてきた。
(自分が書いたとはいえ、ひどすぎない?)
聖パウロに告げ口するって、なにこれ?
「先生っ! あかりちゃんが、悪い事していますっ」って先生に告げ口する小学生レベル。
僕は9歳なので見た目は小学生だけど、中身は大人なのだ。こんな手紙を人に見られるのは、さすがに恥ずかしるぎる。
確実に僕の黒歴史として後世まで残ってしまう。
そんな事になってしまったら歴史の時間に、
「ぷぷぷっ。ジャン=ステラという預言者って、まるで小学生だよな。はっずかしぃ奴ぅ」
とか言われちゃう。
あうぅ。想像していたら、顔から火が吹き出ちゃいそうなくらい恥ずかしくなってきた。
さすがに、これを教皇に届けるわけにはいかないよね、僕の名誉のためにも。
「ねえ、トポカルボ。手紙を書く間、ずっと待ってもらっていたのに悪いけど、この手紙は無しにするね」
「はい、それがよろしいかと存じます、ジャン=ステラ様」
クリュニー修道院長ユーグへの報復は、アデライデお母様と相談することにしようっと。
ふと、トポカルボを見ると、皺くちゃの笑顔が戻ってきていた。
さっきまで、とっても困っておどおどしていたものね。
僕は無視して、手紙書いていたけどさ。
今更だけど、迷惑かけちゃってごめん。心の中だけでつぶやいておく。
「じゃあ、最後の用件を終わらせよっか。たしか、僕に紹介したい人がいるんだよね」
トポカルボがトリノまで来た理由は、ユーグのやらかしを緊急で僕に知らせるため。
せっかくトリノに行くのなら、ついでに人を紹介しよう程度の、軽い用件にちがいない。
そう当たりをつけていた僕は、肩の力を抜いて、トポカルボに軽く声をかけた。
「ジャン=ステラ様は、サレルノ公国をご存知でしょうか」
「あまり詳しくないけど、イタリア半島南部にあるお金持ちの国だったよね」
「はい、交易によって首都のサレルノは大層栄えております」
トポカルボの交易相手の一つであり、手土産に持ってきた砂糖は、サレルノで手に入れたと教えてくれた。
「いい交易相手に恵まれたんだね」
「ええ、それはもう。実はその、ジャン=ステラ様に紹介したいのはサレルノ公国のお貴族様なのですが、ちょっと訳ありでして……」
トポカルボが少し言い淀んだことに気づいた。
「まさかとは思うけど、その貴族に買収されたとかじゃないよね」
いま僕の手元にある砂糖が、買収代金の一部だったりしたらどうしよう。
「いえいえ、滅相もございません。そのお方は商売人ではありません。医師なのです」
「え、お医者さん? お医者さんが僕に何の用があるんだろう」
「なんでも、出産時に医師が手を洗うことの有用性について、より詳しい話がお聞きしたいとのことです」
2ヶ月前の4月、イシドロスの修道院に近隣のお医者さんと助産婦さんに集まってもらって講習会を開いた。
内容は2つ。出産を手伝う時は石鹸で手を洗え。そして、瀉血はやめろ。
だけど、あの時は、あまりよい反応は得られなかったんだよね。
マクシモスが顕微鏡を作ってくれて、微生物が見られるようになるまで待つべきだったかな、って思ったほどだもの。
その講習会からたった2ヶ月しか経っていないのだ。
サレルモからトリノまで、遠路はるばる貴族であるお医者さんがやってくるとは驚きだ。その行動力には敬意を表したいし、講習会の内容に興味をもってくれたのなら、ぜひとも会って話がしたい。
ただ、サレルノ公国って神聖ローマ帝国外の国なんだよね。
トポカルボという仲介者がいるとはいえ、面会予約をとらずにやってくるってどういう神経しているんだろう?
「サレルノって帝国外だよね。勝手にやってきたら、トリノに攻めてきたって思われちゃわない?」
お金持ちの貴族が、まさか単身でやってきてるわけもなく、それなりの軍も一緒にきているはずだよね。
「いえ、ジャン=ステラ様。それが3名だけなのです」
「え、たった3名なの?」
「はい、親子2名とその従者が1名のみです。貴族であれば事前通告は必要ですが、医師なら問題ないはずだと、押し切られた次第でして」
困った顔のトポカルボが頭をぽりぽり掻いている。
トリノまでは、トポカルボと一緒に来たというなら、道中は安全だったかもしれないけど、貴族がそれでいいんだろうか。
もしかしてすごく変な貴族だったりするのかな。
「そういえば、トポカルボは訳ありって言っていたよね。どんな訳ありなの?」
「実はその面会を強く求めているお貴族様は、女性でして」
「は? 女性?」
「はい、トロトゥーラ・ディ・サレルノという名の女性医師です」
「それってまずくない?」
僕のお嫁さんに立候補とかしてくる女性だったりしないよね?
もしそうなら、お母様が鬼になっちゃうよ。お母様は、お兄ちゃんたちや僕に近づいてくる女性にめっちゃ厳しいのだ。
今回のように神聖ローマ帝国外の貴族女性がアポなしで来て、僕に求愛でもしようものなら、多分生きては帰れない。
なぜ、お母様がそんなに神経質になるかといえば、ベルタお姉ちゃんの婚約者である次期皇帝ハインリッヒ4世に原因がある。
とっても女癖がよろしくなくて、とっかえひっかえ手当たり次第なのだとか。
噂半分としても酷すぎるんだけど、どうやら本当みたいなんだよねぇ。
英雄色を好むという言葉はあるけれど、ハインリッヒ4世ってまだ13歳だよ。それに、キリスト教は一夫一妻だというのに。
「一体だれが教育しているんだよ、親の顔が見たいわっ」とは公言できないけど、そう思ってしまう。
ただ、ハインリッヒ4世って教育係がいないんだよね。
去年の4月までハインリッヒ4世の母である、皇太后のアグネスが面倒を見ていたんだけど、ケルン大司教とバイエルン公といった重臣たちに誘拐されちゃった。
「なんで、重臣が主君を誘拐するの?」
さっぱり訳がわからないけど、誘拐後のハインリッヒ4世はよく言えばのびのびと、悪く言えば自分の思うがままの日々を過ごしている。
神輿は軽い方が良いと言うけれど、ハインリッヒ4世を立派なバカ殿にするべく放任主義の教育が徹底されているのかもね。
そういう訳で、アデライデお母様は僕たち兄弟に近づく女性に厳しいのだ。
「ご安心ください、トロトゥーラ様はアデライデ様と同い年であり、子もお二人おられます」
「あ、そういえば、親子で面会を求めているって言っていたよね。子供が女の子だったりしない?」
「幸いにして、成人した男性にございます」
それなら大丈夫だろう。さすがに、お母様と同い年の女性なら、会っても大丈夫だろう。
「ん、決めた。トロトゥーラに会おう。僕の執務室に呼んできてくれるかな」
サレルノのトロトゥーラ (トロトゥーラ・ディ・サレルノ) (1020?-1097)
イタリア中部、ナポリ近くの街サレルノの貴族女性で、女性医師です。
「女性の病気」「女性の化粧」「治療法、トロトゥーラの第二の書」という三冊の著者と言われています。
佐藤双葉様の漫画「アンナ・コムネナ」の292-307話にも、トロタの名前で出てきます。
https://sai-zen-sen.jp/comics/twi4/annakomnene/0292.html
この漫画、面白いので、中世欧州好きな方には強くおすすめします。
アンナがかっこいいのです☆彡
あと、33話で第1回十字軍がコンスタンティノープルを攻める場面があります。
https://sai-zen-sen.jp/comics/twi4/annakomnene/0033.html
攻め手は、下ロレーヌ公ゴドフロワ。
このゴドフロワは、ゴットフリート3世の孫です。
マティルデお姉ちゃんの婚約者、ゴットフリート4世に子供がいなかったため、4世から見て甥のゴドフロワが下ロレーヌ公の爵位を継ぎました。
そして、マティルデお姉ちゃんは、第一次十字軍の主要支援者の一人なのです。
歴史って、いろんな所に繋がっていくから面白いですよね☆彡
この面白さをあなたにも伝えたいっ!




