セントバーナード犬
1063年6月上旬 北イタリア ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ
皇帝ハインリッヒ4世が初陣の相手に選んだのはハンガリー王国。
僕はその初陣に華を添えるべく、皇帝への臣下の礼を披露しにいくことになった。
戦闘に参加しなくてよさそうで、内心ほっと安堵の息をつく僕に、ピエトロお兄ちゃんが不思議そうに問いかけてきた。
「なぁ、ジャン=ステラ。お前は陛下に跪くことに躊躇いはないのかい?」
「ためらい? そんなのありませんよ。だって相手は主君じゃないですか」
ピエトロお兄ちゃんが、どうしてそんな当たり前のことを聞いてくるんだろう。
よくわからず、首を傾げてしまう
「だって、お前、預言者だろう? 預言者が皇帝とはいえ臣下の礼をとっても大丈夫なのかい。預言者の使命を全うする妨げになるんじゃないかと、お母様も俺も気にしているんだ」
お母様もピエトロお兄ちゃんと同意見らしい。僕が視線を向けると、大きく頷き返した。
「僕の使命、ですか」
ピエトロお兄ちゃんの言う、預言者としての僕の使命ってなんだろう?
転生した時に神様から使命を授けられた、とかいう事もなく、あっさりと産まれちゃったみたいだしねぇ。今更、使命とか言われても困っちゃう。
いや、ちょっとまてよ。
マティルデお姉ちゃんとの結婚が使命!だったりはしないよね。
他に使命になりそうなのって、「じゃがマヨコーンピザを食べる」くらいかなぁ。
うん、こちらの方が使命っぽい気がする。
じゃがいもやトマトを普及させたら、ヨーロッパに新しい食文化が花開きそうだもの。
だけど、ピザを使命って言うのはちょっと恥ずかしいから、お兄ちゃんには内緒にしておこっと。
「神様から使命は授かっていないのです、ピエトロお兄様」
「うーん、それなら臣下の礼をとってもいいのか、な」
ピエトロお兄ちゃんは、何か釈然としないらしく、語尾がすこし弱くなっていた。
「でも、お兄様。僕が臣下の礼を断ったらどうするつもりなのですか?」
「そうだなぁ、ジャン=ステラが体調を崩して寝込んでいるとか、そういう言い訳を陛下にお伝えするだけだよ」
おもいっきり、ばればれな嘘だよね、それって。ちょっと調べたらすぐに嘘だとわかってしまうよね。
「それって、すぐに嘘だとばれてしまいますよね」
「ジャン=ステラが大人しく寝室に篭っていれば、バレないぞ」
ピエトロお兄ちゃんが茶目っ気たっぷりに返してくる。
「大人しくしているって、僕には無理ですよ」
「だよなぁ。ジャン=ステラっていつも何かやらかしているもんなぁ。おまえ、いつも目立ちすぎっ」
声をだして笑うピエトロお兄ちゃんと、言葉のキャッチボールをしばしの間、楽しんだ。
(笑いあえる関係っていいよね)
これからも、家族を大切にしていきたいって心の底から思う。
一息ついたところで、お母様が話を締めくくりにかかる。
「たとえ、ばればれであっても、建前って重要なのよ。それは覚えておきなさいね」
「はーい、お母様」ちょっと照れくさくて、短く答える僕と、
「それは、もちろんです」と真剣な表情で返すピエトロお兄ちゃん。
そうだよね、建前って重要。「臣下の礼をとりたくないとジャン=ステラが言っています」なんて回答したら、それこそハインリッヒ4世の初陣相手がトリノに変更されてしまいそうだもの。
それはお母様もわかっていたみたい。
「正直なところ、ジャン=ステラが臣下の礼をとると決めてくれて助かりましたわ」と、心境を吐露してくれた。
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ハンガリー戦役関連地図
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1063年6月中旬 北イタリア ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ
ハンガリー攻めに参加する事が決まった僕だけど、トリノの出発は8月。まだ1か月以上も先になる。
「ハインリッヒ4世陛下の初陣ですもの。準備が大変なのですよ」
国を攻める軍隊を組織するためには、いろいろと手順を踏む必要があると、お母様が教えてくれた。
まずは1か月後の7月に、ドイツ諸侯をマインツに集めてハンガリー攻めを決議する会議を開く。
それから軍を組織して8月下旬に、ハンガリー攻めの拠点とするレーゲンスブルクに再集合するんだってさ。
「それにしても、のんびりしていますよね。どうして8月まで攻撃しないのですか?」
どうせ攻めるって決めたのなら、すぐに攻めればいいのに。
兵は拙速を貴ぶって言うし、のんびりしていたら、ハンガリー王国側が守りを固めてしまうよね。
「あれ、ジャン=ステラは知らないのかしら。8月の中頃までは、小麦の収穫で忙しいからよ」
7月から8月にかけては、冬小麦の収穫の時期だった。この時期に兵を徴集したら、困っちゃうよね。傭兵だって、収穫作業を手伝っているだろうし。なるほど、なるほど。
そういう事で8月まではトリノで過ごすことになった。
乗馬やランス、クロスボウの訓練をしたり、小学校レベルの教科書を執筆したりの日々だったけど、今日はお母様から呼び出されている。
なんでも僕に会わせたい人がいるのだとか。
「アオスタ伯爵領に関係する人なのよ」
お母様から事前に教えられていた。
どんな人かなぁ、と思いながら、お母様の執務室に足を運んだ。
「ジャン=ステラ様、お入りください」
執務室の扉をくぐって中に入ると、そこには大きな犬がいた。
驚いて思わず声がでちゃった。
「わっ、セントバーナードだっ!」
世界で一番大きなワンちゃんとして有名なセントバーナード犬が、お母様の執務室にいた。
長くて大きな尻尾をゆらしつつ、丸くて愛らしい瞳で僕を見つめてくる。
(か、かわいいっ)
駆け寄ってぎゅって抱きしめたいけど、さすがにそれは無作法だよね。
でも、とっても気になっちゃう。僕の目はワンちゃんに釘づけ。
そんな僕に、お母様が驚いた風に声をかけてきた。
「あら? ジャン=ステラはベルナルド様を知っていたのですか?」
(ベルナルドってだれ?)
僕の知り合いにベルナルドなんて名前の人はいない。
ワンちゃんの方に向けていた視線をお母様の座る執務机に向けると、そこには見たことのない修道士がいた。
齢40歳くらいの修道士は、僕に穏やかな微笑を向けて、不思議なことを言い始めた。
「ジャン=ステラ様に名前を覚えていただいていたとは、大変な光栄にございます」
ん? どういうことだろう。このおじさんと会うのは初めてだと思うんだけど。
修道士のおじさんは僕に礼をした後、すこし困ったような、しかし照れたような感じで言葉を続けた。
「ですが、私は列聖されていませんので、単にベルナルドとお呼びください」
列聖というのは、信仰の模範になる偉業を成し遂げた人が死んだ後、聖人の位を贈られることをいう。
前世で一番有名な列聖者はサンタ・クロースだよね。イタリア語だと聖・ニコラ。
言語によってちょっとずつ読み方が違うのは面白いけど、紛らわしくて面倒だよね。
あ! そういう事か。僕が思わず叫んだセントバーナードが、聖・ベルナルドだと思われちゃったんだ。
それで、僕がこのおじさん修道士を知っていることになっちゃったんだ。
うーん。偶然の一致って恐ろしい。
「そうだよね、列聖されていないのに、聖・ベルナルドって変だもんね。これからはベルナルドって呼ぶよ」
そもそも、死んでいない人に「聖」を付けて呼ぶってことは、おまえは死んでるんだぞーって宣言した事になっちゃうのかな。
ここは適当に誤魔化しておくにかぎる。にっこり笑顔をベルナルドに向けて、有耶無耶にしちゃおっと。
それなのに、お母様が無慈悲にもつっこみを入れてきた。
「ねえ、ジャン=ステラ。ベルナルド様のことを聖・ベルナルドって呼んだでしょう。それってベルナルド様は聖別されるという預言なの? 」
■セントバーナード(仏:サン・ベルナール、伊:サン・ベルナルド)
修道士のベルナルドさんは、1681年に列聖されて聖・ベルナール、英語読みではセントバーナードになりました。
ベルナルドさんは、アオスタ領からアルプス山脈を北にスイスへと超える峠にホステル(山小屋)を作り、運営しました。
この峠道はイタリアとドイツを結ぶ重要な道だったのですが、万年雪が残るような過酷な環境で、春にはよく雪崩が起こっていたそうです。
そこで活躍したのが、スペインから導入した大型犬です。
雪崩にまきこまれた旅人を探し、見つけた後はその体を温めるためのラム酒が入った酒樽を首にかけていた、みたいに描かれる事が多いような気がします。
この犬種の名前がセントバーナード犬。
お分かりの通り、修道士ベルナルドさんの名前を由来としています。
また、峠の名前にも、ベルナルドさんの名前が付けられています。
イタリアのアオスタからスイスへ向かう峠は、大・サン・ベルナール峠と呼ばれています。
大があれば、小もあります。
イタリアのアオスタから西方向にアルプス山脈を越えてフランスへと向かう峠道が、小・サン・ベルナール峠です。
こちらにも、ベルナルドさんはホステル(山小屋)を作りました。
まさに、アオスタとスイス、フランスを結ぶ通称路を維持・管理し、旅人を守ってくれた偉大な方なのです。
ジャン=ステラちゃんは、ベルナルドさんに足を向けて寝ちゃだめなんですよー。
▫️アデライデお母様のファンアートをいただきました!
人の上に立つことに慣れている貫禄を感じさせるお母様の表情がとっても素敵です☆彡
きゅっと結ばれた唇からは、意思の強さを感じました
誰にも負けるものか、と辺境伯家を一人で守ってきたお母様の素晴らしさが詰まっています
絵を描いていただいたカオス饅頭様、ありがとうございました(❁ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾⁾
ファンアートに応えるためにも、これからも執筆を頑張りますっ!




