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元婚約者の婚約者

第十章「ハンガリー戦役」が始まります!

 1063年5月下旬 トリノ近郊 イシドロスの修道院 ジャン=ステラ



 乗馬やランスの使い方といった自分を守る訓練を続けていた僕の生活は、アデライデお母様からの急使によって終わりとなった。


「戦争が始まります。相手はハンガリー王ベーラ陛下。トリノ城館にて対応を協議します。トリノへご帰還ください」


 心臓が「どくん!」と大きく跳ねる。


「せ、せんそう?!」

 執務室で使者の報告を受けていた僕は、思わず大きな声をだしてしまった。


 軍隊がトリノに攻めてくるの? 戦火の渦の中に叩き込まれちゃう?


(あわわっ)

 戦乱が普通な世の中に生きているのはわかっていても、急に言われると泡を食ってしまう。


 心臓が早鐘を打ち、頭の中で「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」って阿波踊りのお囃子(はやし)が響いている。


「ジャン=ステラ様、落ち着いてください」

「そ、そそそ、そうだね」


 護衛のロベルトに(たしな)められちゃった。でも、落ち着けって言われて落ち着けるなら誰も苦労はしないんだよっ。だって、戦争だよ!


「大丈夫です。ハンガリーは遠い国です。トリノに直接攻めてきたわけではないでしょう」

「は、ハンガリー?」

「はい、ハンガリーです、ジャン=ステラ様」


 そういえば、お母様の使者がハンガリーって言っていたっけ。戦争という言葉だけが心に響き、相手が誰かなんて頭から抜け落ちていたよ。


 それにしてもハンガリーって東欧だよね。トリノ辺境伯どころか、イタリアとも領地を接していない。


「その遠いハンガリーが、どうしてトリノに攻めてくるの?」


 まったく訳がわからない。ハンガリーとイタリアの間の国々はどうなっているのだろう。

 ハンガリーって海がない内陸国だよね。船で直接攻めてくることもできないはず。


 ロベルトが首を左右に振る。

「ジャン=ステラ様、まだトリノに攻めてきたと決まったわけではありません。トリノが攻める側かもしれないのですよ」


 そんなロベルトの発言に、僕は眉を寄せてしまう。

「どうして、トリノがハンガリーを攻めるのさっ? 攻める理由なんてないよね」


「それは私には分かりかねます。トリノにお戻りになれば、アデライデ様からご説明があるでしょう」



 1063年6月上旬 北イタリア ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ


 修道院を朝出発し、お昼も幾分すぎた頃、トリノの城門を馬で走り抜けた。


 そのまま汗が引くのも待たず、お母様に面会依頼を出す。

 本当は、すぐにでもお母様の執務室へと飛び込みたいけど、そういう訳にはいかないのが歯痒(はがゆ)い。


(戦争、せんそう、センソウ)

 その言葉が脳裏で繰り返し再生されている。

 トリノ辺境伯のお仕事をしているお母様が忙しいのは分かっているけど、早く会いたい。早く会ってどうなっているのか知りたいと、焦ってしまう。


「ジャン=ステラ様、アデライデ様がお会いになるそうです。執務室へおいでください」

 お母様からの伝令が届いた。

「わかった、いそいで案内してくれるかな」

 2階にあるお母様の執務室へと足早に進む。


 執務室前の衛士が扉を開ける時間も惜しくて、隙間から体を割り込ませ、挨拶もせずに叫んでしまった。


「お母様、ハンガリーとの戦争ってどうなりましたかっ!」


「あら、ジャン=ステラ。早かったのね」

 僕が執務室に入ると、アデライデお母様がのんびりとした声で僕に話しかけてきた。


「お、ジャン=ステラ。おまえ、何で慌ててるんだい」

 不思議そうに問いかけてきたのは、ピエトロお兄ちゃん。


 お母様は、ピエトロお兄ちゃんと優雅にアフターヌーンティーを楽しんでいた。

 11世紀のイタリアにお茶っ葉なんてないから、正確にはアフターヌーンジュースだけど、そんなのどうでもいい。


 いらだちを多分に含んだ声色で、お母様に詰問口調で問いかける。

「どうしてって、戦争が始まるって僕を呼んだのはお母様でしょう?」


 そんな僕の質問に対し、お母様は困惑している。


「ええ、そうですけど。ハンガリーですよ。遠いのですよ。地図を描いてくれたジャン=ステラなら、そんな事は分かっていますよね」


「ジャン=ステラ、ハンガリーってアルプス山脈の向こう側だぞ。オーストリア辺境伯領の東側なのに、どうしてそんなに慌てるんだい。なんだか、お前らしくないぞ」


 ピエトロお兄ちゃんはあきれ顔。


 そりゃね、僕だってハンガリーの場所くらい知っているよ。


 でも、戦争なんだよ。

 慌てるなって言われても、そんなの僕には無理。


 しかし、そう思っているのは僕だけみたい。

 慌てている僕が変なのかな、って思えてきた。


 それでも、落ち着きはらってお母様とお兄ちゃんを見ていたら、安心した。


 ハンガリー軍が攻めてきて今すぐどうこうなるって事はないのだろう。


「じゃあ、ハンガリー軍はトリノに攻めてこないんですね。よかったぁ」


 緊張の糸が解けた僕は、その場にへたりこんでしまった。


「まぁ、ジャン=ステラったら慌てん坊さんね」

 ふふふと上品に笑うお母様。


「ハンガリー軍がトリノまで攻めてくるわけないだろう。逆だ、逆。ハンガリーを攻めるんだぞ」


 ピエトロお兄ちゃんが僕の手を取り、よいしょ、と立たせてくれた。

「ほら、お前も座れよ」

「お兄ちゃん、ありがとう。でもどうしてトリノがハンガリーを攻めるんですか?」


 そこが僕にはわからない。なぜ、遠いハンガリーなんて国をお母様は攻めるのだろう。


「別に俺たちがハンガリーを攻めたいわけじゃない。上からの命令だ」

「上?」

「そう、上。トリノ辺境伯家は、ハインリッヒ4世陛下の家臣だぞ。お前、もしかして忘れてないか?」


 ピエトロお兄ちゃんが僕をじとーっとした目で見つめてくる。


 ぎくっ。 そういえば、トリノ辺境伯家って神聖ローマ帝国の一部だった。

 すっかり忘れてた。しかし、それを正直に言っちゃまずいよね。


「あははっ、もちろん覚えていますよ。そんな重要な事を忘れるわけないのですっ」


 仕方ないよね。だって、ぜーんぜん皇帝家の影響力を感じないんだもん。まだローマ教皇の方が影響あるんじゃない? ほら、異端審問とかクリュニー修道院長ユーグの事とか、いろいろ揉め事があったもの。


「まあ、よしとしとこうか」

 ため息をついたピエトロお兄ちゃんが、ハンガリーを攻める理由を説明してくれた。


「前ハンガリー王の死後、後を継ぐはずだった息子のシャラモン様がドイツに亡命してきているのは覚えているか?」


「え、そうなのですか?」

「おいおい、そこからかぁ」


 ピエトロお兄ちゃんが呆れ顔を僕に向けてくるけど、知らないんだから仕方ないじゃん。


「昔むかしだが、お前が小さい頃に、婚約者がいただろう」

「あれ、そうでしたっけ?」

「あのなぁ。ハインリッヒ4世陛下の妹君、ユーディット皇女と婚約したけど破棄されただろうが」


 ああ、僕が2歳の頃の婚約者ね。その後、先代皇帝ハインリッヒ3世が亡くなったら、4歳の時に解消されちゃったんだったよね。


「ああ、そうでしたね」

 僕はマティルデお姉ちゃん一筋だもん。過去の婚約のことなんて、頭の片隅にも残っていなかった。綺麗さっぱり忘れていたよ。


「そのユーディット様の新たな婚約者が、前ハンガリー王の息子シャラモン様なのだ」


 神聖ローマ帝国の外交政策上、僕との婚約解消は仕方ないとか言われたっけ。そんな記憶がうっすらと蘇ってきた。


「うんうん、なんとなく思い出してきましたよ。そのシャラモン様が今回の戦争に関係するんですね」

「ああ、その通り。ハインリッヒ4世陛下は、シャラモン様をハンガリー王にするために軍を動かすのだ」



 現在のハンガリー王はベーラ。前ハンガリー王の弟であり、嫡子であった甥のシャラモンから王位を奪った。その結果、シャラモンはドイツへの亡命を余儀なくされた。


 ハインリッヒ4世の思惑としては、シャラモンと妹を婚約させ、その上でハンガリー王とすることで、帝国の勢力圏を拡大したいのだろう。


「ピエトロお兄様、ハンガリーを攻める理由はわかりました。ですが、なぜハンガリーから遠く離れたトリノが戦争に巻き込まれるのですか?」


「それは、お前のせいだよ、ジャン=ステラ」

「え、僕のせい?」


 どうして僕が理由になるのか、さっぱり分からない。


 首をひねっていたら、お母様が割り込んできた。


「これ、ピエトロ。すこし言い過ぎですよ」


 お母様はお兄ちゃんをすこし(たしな)めた後、

「ジャン=ステラ、私から詳しく説明するわね」と状況を教えてくれた。


 ハンガリーに対する戦争は、今年13歳になるハインリッヒ4世の初陣なのだそうだ。


 その初陣を華々しく飾るため、神聖ローマ帝国のうち、全ドイツ諸侯に参加が呼びかけられている。


「トリノってドイツではなくイタリアですから、関係ありませんよね」

「ええ、本来ならそうでした。しかし、ジャン=ステラが預言者という噂が問題なのよ」


 ローマ教皇の枢機卿会議で、僕が預言者か否かを考える会議、というか異端審問があった。結論は、クリュニー修道会院長のユーグが新大陸を見つけられたら、僕を預言者と認定するというものであった。


 つまり、僕はまだ公式には預言者じゃないし、一般にも広まっていない。ただし、司教や大司教といった高位の聖職者たちは、僕のことを詳しく知っている。


 そして、若年であるハインリッヒ4世の代わりに政務を行っているのは、マインツ大司教や、ブレーメン大司教といった高位聖職者である。


 その聖職者達が、僕が預言者という噂をひどく気にしているらしい。


「あの方達は、預言者という噂が流れているジャン=ステラを参陣させ、ハインリッヒ陛下に臣下の礼をとらせようとしているのよ」


「うっわ。なんだか面倒な事になっているのですね。でも、預言者を皇帝の下に置いてしまうのって、キリスト教的な問題になりませんか?」


 預言者の権威を皇帝以下の地位に落とそうとするのは、どうしてだろう。いまいち理由がよくわからない。


 マインツ大司教やブレーメン大司教って、宗教的権威で成り立っているはずだよね。

 その宗教的権威をおとしめることにならないのだろうか。


「臣下の礼をとっているのは、大司教たちも同じですもの。帝国における預言者の位置づけを確定したいのではないかしら」


 今の僕はアオスタ伯という、ちっぽけな領地の伯爵でしかない。皇帝ハインリッヒ4世に(ひざまづ)くのは当然のこと。


 ただし、ハインリッヒ4世に臣下の礼をとる僕を見た人々は、「預言者が王に従った」と思っても不思議はない。実際、そういう(うわさ)を流すんだろうと、容易に想像がついてしまう。


 つまり、皇帝ハインリッヒ4世は預言者の僕よりも偉いのだ、と諸侯に見せつけたい。そのために僕をハンガリーまで呼びつけるということね。


「はぁ、そんな事になっているのですね。というか、僕の役割って見世物になるって事ですか?」

「頭が痛いことですが、かいつまんで言えば、そういう事になるわねぇ」


 戦争に行く事になると深刻に考えていたら、ピエロを演じる事を求められちゃった。


 戦争は政治の延長とは言うけれど、こんな事になるとは全く思っても見なかったよ。


 まさに欧州情勢は複雑怪奇、だね。

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