従者と派閥(後編)
1063年4月中旬 北イタリア トリノ アデライデ・ディ・トリノ
「お母様、無事のご帰還をお喜び申し上げます!」
「出迎えありがとう。ピエトロもトリノでの政務、お疲れ様でした」
おやまぁ。言葉遣いは丁寧なのに、声がうわずっていますわよ。可愛いこと。
トリノに帰還した私は、半年ぶりに会う息子の笑顔に相好を崩しました。
「今日はお母様が帰還されたお祝いの宴会です。アルベンガでのお話を楽しみにしています」
「ええ、私もピエトロのお話を聞きたいわ」
私の共同統治者として、ピエトロは頑張っていたのでしょう。
半年見ない間に、幼かった言葉遣いが、大人の言葉遣いへと変わっているのが変な感じです。
息子の成長は嬉しいことのはずなのに、ちょっと寂しいわね。
「それにしても、お母様の隣にジャン=ステラがいないのは不思議な感じですね」
「あれ、そうだったかしら?」
「ええ、ジャン=ステラが3歳で摂政見習いになった6年前から、ずっと一緒でしたからね」
ピエトロが苦笑している。
うーん。そうだったかしら。しかし、言われてみればそうだったかもしれないわね。
夫のオッドーネが亡くなったあと、私の心を支えてくれたのはジャン=ステラだった。
公私の分け隔てなく本音で話せ、心をさらけ出せたのはあの子しかいなかったもの。
「今は、ジャン=ステラに代わって、あなたが支えてくれるのでしょう?」
半年間という短い間だったけど、ピエトロは一人でトリノを統治してくれた。今後も少しずつ私の代わりを務めてくれるだろう。
それに、トリノ辺境伯家で唯一の成人男性なのだ。
戦争になった時、私以外にも軍を率いる将がいる。これがどれほど心強いものか、女の身で戦いの場に赴いた私にしか理解できないことでしょう。
「ええ、もちろんですとも。アルプスの向こう側ではアメーデオも頑張ってくれていますしね」
次男で13歳のアメーデオは、未成年ながらもモーリエンヌ伯として、アルプス山脈のフランス側にある領地を統治してくれている。
広大なトリノ辺境伯領を私一人で統治しなければならなかった昨年までと比べると、私も余裕ができた。良い息子たちに恵まれたと、心の底から感謝している。
しかし、ピエトロの次の言葉でほっこりしていた私の心に冷や水が浴びせられた。
「でも、ジャン=ステラではなく、僕がトリノ辺境伯家を継いで、本当に良かったのでしょうか」
心臓がドクンと跳ね上がる。
「どうして、ピエトロはそう思ったのかしら」
去年の叙任前、ジャン=ステラにトリノ辺境伯にならないかと打診して、しかも断られたことを思い出す。
(人払いをして話しましたが、どこからかピエトロに漏れたのかしら)
「僕は半年間、トリノの政治を見てきましたが、大変だったんです。ほんとうに」
ピエトロが疲れた顔で、どれほど苦労したかを教えてくれた。
家臣の報告を受け、執事の助言を受けて決裁する。軍事調練を指示し、外交文書に眼を通す。
だが、一番大変だったのは、お金の計算だったそうだ。
どこぞの城壁が壊れた、武器が足りない、馬が欲しい、小麦の相場が上がった下がった。
「家臣のお願いはお金とセットなのだと、やっと理解したのです、お母様」
「ええ、そうね。以前は出納役が全て計算していたものね。ピエトロはよく頑張りましたよ」
これまでトリノ辺境伯家の出納役は、アマルトリダ・ディ・サルマトリオが務めていた。
ジャン=ステラの筆頭家臣ラウルの父であり、反乱容疑で領地を没収されたアルベルト・ディ・サルマトリオの父でもある。
息子の反乱容疑を受け、アルマトリダは出納役を引退した。
引退したのはいいのだが、大きな数の計算を間違えずにできる人材が他にいなかった。ただし、ピエトロを除いて。
「ジャン=ステラから教わった算数がこれほど重要だったとは思いもしませんでした」
知識は重要なのですね、とピエトロが息をはいた。
私は一つ頷き、話の続きを待つ。
「それで、ふと思ったのです。ジャン=ステラが辺境伯を継いでくれたら、トリノ辺境伯家をもっと繁栄させてくれるのではないかと。私が継ぐべきでなかったのではないか、と」
肩をガックリと落としたピエトロに同情してしまう。
それと同時に、ジャン=ステラに辺境伯を継がないかと打診したことが漏れていなかったと、ほっとした。
「しっかりしなさい。家は長男が継ぐものなのです。あなただってサリカ法は知っているでしょう?」
500年ほど前に作られたサリカ法では、年長の男子が後継者となると定められています。
「理解はしているのですよ。それでも、法に逆らってでもジャン=ステラが継ぐべきだったとの考えが、頭から離れないのです」
そうよね、半年前は私もピエトロと同じ考えでしたもの。
(でも、だめなのよ)
ジャン=ステラがトリノ辺境伯を継ぐと、トリノは混乱する。今の私はそう確信しているのです。
その理由をピエトロに説明しておきましょう。ピエトロには自信を持ってもらわなければ。
「いいえ、ジャン=ステラがトリノ辺境伯を継いだら、家中が割れていましたよ」
ジャン=ステラの周りはイシドロス達、ギリシア組が囲んでいます。まるでトリノの家臣たちを排除するかのよう。
そして、サルマトリオ家の反乱騒動は、筆頭家臣に対する依怙贔屓だと感じられたことでしょう。
筆頭家臣ラウルの兄を失脚させ、元領地の代官にラウルを任命する。
貴族の当主たちにとってジャン=ステラは、自分の地位を脅かす警戒対象となってしまいました。
(成り行き上、仕方なかったとはいえ、痛恨の失策でした)
それも、この事に気づいたのは、ジャン=ステラの新しい護衛を選ぶ時でした。
ジャン=ステラの護衛を好意的に引き受けてくれたのは、メッツィ家だけだったのです。
その他、多くの貴族家からは、護衛の打診を断られてしまいました。
自分の子弟をジャン=ステラの直臣にしたら、自分の地位が危うくなる。そう思われてしまったのでしょう。
ジャン=ステラに対する私の目線と家臣の目線はまったく違う。その事実に驚くとともに、どれほど落ち込んだことか。
「ですから、ピエトロが継ぐのが一番よかったのですよ」
「ですが、お母様。ジャン=ステラはアオスタ伯で満足してくれるでしょうか。いえ、ジャン=ステラが満足していても、周りが放っておかないのでは?」
その通り。ピエトロの心配は当然です。ジャン=ステラに野心がなかったとしても、預言者ですもの。イシドロス達やイルデブラント枢機卿といった宗教家が、ジャン=ステラを無名のまま放っておくとは思えません。
「ええ、そうね。でも安心しなさい。ジャン=ステラはもう自分の道を歩み始めているのです。手紙で伝えましたよね。トスカーナ辺境伯になるつもりですよ、あの子は」
マティルデ様のお婿になるって頑張っているのです。親として寂しいですが、ジャン=ステラは、トリノ辺境伯家を出る覚悟を決めたのです。少なくとも、ジャン=ステラがトリノ辺境伯家に混乱をもたらすことはなくなりました。
「お母様は、ジャン=ステラがトスカーナ辺境伯になれると思われますか」
「逆に聞きましょうか。ピエトロはなれないと思う?」
聞かれたピエトロは苦笑気味に首を横に振る。
「愚問でしたね」
「そうでしょう?」
本気になったジャン=ステラを止められる者がいるとは思えません。怨敵ゴットフリート3世といえど、相手が悪すぎたと同情したくなります。
ピエトロと二人、ふふふと笑いあった。
「それよりも、ピエトロ、あなたのお嫁さんはどうしますか?」
早くしないと、6歳も年下のジャン=ステラに先を越されてしまうわよ。
■■■ 嫁盗り期限まであと2年4か月 ■■■
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ジ: ジャン=ステラ
ア: アデライデ
マ: マティルデお姉ちゃん
ジ: お母様の信頼が重いです
ア: あら?マティルデ様を諦めるの?
ジ: そんなことないですけど
ア: なら、同じことじゃない
マ: 私も信じてるからね!
ジ: もちろん!僕を待っててね!
ア: 私の時と態度が違いすぎ
マ: 早く子離れしてくださいね。お・か・あ・さ・ま♡
ア: むきぃー!
ジ: ガクガクブルブル