お産をもっと安全に
1063年4月上旬 トリノ近郊 イシドロスの修道院 ジャン=ステラ
クロスボウの改造について技術担当のニコラスと話した後は、お産についての話し合いが待っている。
新東方三賢者の一人で、農業を担当している修道女のユートキア・アデンドロに、医者と助産師を集めてもらっているのだ。
会場となる修道院の礼拝堂へと、ロベルト、ティーノそしてグイドの三人の護衛を引き連れて移動する。
礼拝堂の扉をグイドに開けてもらい、修道士・修道女たちが並ぶ中、祭壇の前へと進んだ。
まるで結婚式の新婦入場みたい。
左側の椅子には修道士たちが座り、右側には修道女たちが座っている。
視線が集中してちょっと恥ずかしい。
「医師と助産師の皆さん、集まってくれてありがとう。そしてユートキア、みんなを集めてくれてありがとう」
今回のように、大勢を前にして話すのは、実は初めて。
緊張して変なことを言わないよう、気をつけなきゃ。
「ここにいる皆さんは、これまでに多くの出産に立ち会ってきた事でしょう。そして、悲しいことにたくさんの赤ちゃんが生まれてすぐに死んでしまいます」
ユートキアの話では7に1人、15%が生まれて1週間以内に死んでいる。
その事実を僕は、アルベンガ離宮からの道中に教えてもらった。
「そして、出産に失敗して亡くなってしまう産婦さんも後を絶ちません」
出産って本当に命懸け。普通の村だと2〜3年に一人、亡くなるらしい。
「悲しいですよね。この悲劇を少しでも減らしたいと思います。その方法は簡単なんです」
一呼吸おき、眼前の修道士・修道女たちを見渡す。
ありがたいことに、みんな僕の話を真剣に聞いてくれている。
「その方法は簡単。出産のお手伝いをするときに、石鹸で手を洗ってください。
赤ちゃんを取り上げる時、産婦さんの傷口を触る時に、石鹸で手を洗ってください」
これだけで、亡くなる人が減る、はず。
大学で習った統計学の実例では、劇的な効果があったと書いてあった。
「ジャン=ステラ様、質問があります」
前の方に座っている修道士が立ち上がった。
「石鹸は、やはり聖別したものを用いるのでしょうか」
司教や司祭は、祈りをささげることによって、物を聖別することができる。
例えば、パンと赤ワインを聖別するとキリストの肉と血になり、これをミサにおける聖体拝領の儀式で使うのだ。
聖別しなくても効果は変わらないけど、聖別した方が使ってもらえるのかな?
嘘も方便って言うしなぁ。うーん、どうしよう。
「いいえ、石鹸は聖別しなくていいです。聖別してもしなくても違いはありません」
聖別することにしちゃったら、そこに宗教の闇が広がってしまいそう。
「聖別した石鹸を使わなかったから、赤ちゃんが死んだ。そなたの信仰は本物か?」
「偉い聖職者が聖別した石鹸の方が効果が高いのですが、なにせ貴重な品でして。ところで、いかほどご寄付いただけますか」
石鹸の聖別が教会のお金儲けの道具になる未来図が、どうしても浮かんでしまう。
こんなのに自分が関わるのは嫌だよね。
次はユートキアが質問してきた。
「馬や牛のお産にも石鹸は役にたちますか?」
車も重機もない中世だから、馬や牛はとっても大切な資産である。
畑を耕すのに牛馬は使うし、農業担当のユートキアとしては聞いておきたいことなのだろう。
僕の答えは、当然イエス!
「ええ、役に立ちます。牛馬のお産にも石鹸を使ってください」
僕が答えると、礼拝堂がざわざわし始めた。
あちこちで、ひそひそ話が交わされている。
そんな人たちの声を代弁するかのように、一人の修道士が立ち上がった。
「ジャン=ステラ様。なぜ、造物主がご自身の姿に似せて作りたもうた人間と、馬や牛が同格だとおっしゃるのしょう。それは神の教えに反するのではありませんか?」
礼拝堂は、水を打ったように静かになった。
全員が、僕の次の言葉を待っている。
ありゃ、面倒なことになっちゃったかな。
それにしても、どこから人間と牛馬が同格って話に繋がったの?
わけがわかんない。
どう答えたらいいのかわからない。だけど、黙っているわけにもいかないよね。
とりあえず否定しなきゃ。
「いいえ、反しません。人間と馬、牛が同格だとは、僕は言ってないです。
ハチや蚊、アブに刺されたら、痛かったり痒かったりしますよね。それは人間も牛馬も同じです。
だからといって、人間と牛馬が同格とは言わないでしょう?」
この説明で納得いってくれるといいなぁ。
そう願いながら、質問をした修道士を見る。
うーん、納得しているかどうか、わからないや。
「石鹸はね、人や牛馬に悪さをして病気の原因になってしまう、目に見えない小さい生き物を退治してくれるの」
僕が答えたら、礼拝堂が喧騒に包まれちゃった。
「小さい生き物? そんなのどこにいるのだ」
「病気の原因は、悪い血が溜まっているからじゃないのか」
「ヒポクラテスの教えと違うぞ」
「病は瀉血で治るではないか」
「ジャン=ステラ様が嘘をつくとでも?」
あちこちで議論が始まり、収拾がつかなくなってきた。
(あっちゃぁ、大失敗しちゃった?)
それとも、人間と牛馬の同格問題はうやむやになったから結果オーライ、かな?
どうしたものだろう、と議論の行く末を放置して眺めていたら、ユートキアが立ち上がりみんなに声をかけた。
「皆様、お静かに。ジャン=ステラ様のお言葉に耳を傾けましょう」
僕の方を向いたユートキアが代表で質問をはじめた。
「ジャン=ステラ様。2つお伺いいたします。まず、目に見えない小さい生き物とはどういうものでしょう。いたずら者の精霊の類でしょうか」
いたずら者の精霊ってなに?
目に見えないほど小さいけど、微生物は精霊じゃない。
うーん。
でも、中世の人にしてみたら、目に見えないという意味では、微生物も精霊も同じようなもの、なのかなぁ。
「違うよ。目に見えないほど小さいだけで、カブトムシみたいな動物だよ」
「目に見えないカブトムシ、ですか?」
頭でイメージした微生物はミジンコ。どう説明したらよいかわからず、とっさにカブトムシの名前が口からでちゃった。
ま、いいや。
「そう。小さいの。でもね、マクシモスが顕微鏡を完成させれば見られるよ」
磁鉄鉱の研究者だったマクシモスお爺ちゃん。彼は現在、望遠鏡の開発に没頭中。
一段落したら、次は顕微鏡を作るようお願いしてある。
「マクシモスですか……。彼の活躍に期待しましょう。ではもう一つお伺いします。病気の原因は悪い血が溜まるからではないのですか。ヒポクラテスの教えと違うのはどうしてでしょう」
ヒポクラテスは古代ギリシアのお医者さん。1500年も前の説を今でも信奉しているって、さすが中世の暗黒時代なだけあるよね。ほんと、科学技術の時間が止まってしまっている。
歴史の授業なら笑っていられるけど、僕自身がその暗黒時代にいるのだと思うと、ため息でちゃう。
「血が原因の病気はたくさんあるよ。これは、ヒポクラテスの言う通り」
白血病とか、血友病とか。貧血だってそうだよね。
「でもね、病気の全部は、血が原因ではないんだよ」
血液が原因になる病気もあるけれど、病気の原因は血液だけじゃない。
しかし、この違いを口頭だけで理解するのは難しそう。
ユートキアもよくわからないらしく、小首を傾げている。
カラスは鳥だけど、鳥はカラスじゃない。
こんな例なら分かってもらえるのかな。
でも、その説明をするのは今じゃなくてもいいよね。
「うーん、ちょっと難しかったかな。時間があるときに教科書を作るから、それでお勉強してね」
お産のお話が、最後には理科と保健体育の教科書になっちゃった。
目の前の修道士と修道女達も、なんだか頭が混乱しているみたい。
よっし、礼拝堂から逃げ出しちゃおう。
このタイミングを逃すと、質問が延々と続いてしまいそうだもん。
今は、静かにしているけど、僕がいなくなったら議論が始まるんだろうなぁ。
ユートキア、あとはよろしくねっ☆彡
新生児死亡率が下がると、15年後くらいに人口ボーナス期が始まります。
だいぶん先になってしまいますが、ジャン=ステラちゃんが25歳頃から如実に効いてきます。
第二部「神聖でありローマでもある帝国」で帝国建国の礎となる「縁の下の力持ち」部分の伏線です。
なお、子供は成人するまではご飯代と教育代がかかるお荷物世代ですが、今後裕福になっていくジャン=ステラちゃんの統治下では些細なことのはず。だといいなぁ。
飢饉が起きませんように(フラグじゃないですよ)
以下、小説で使った数値の推定方法を記します。
チョットムツカシイヨ。読む必要ナッシングです。
◾️新生児死亡率 15%
新生児死亡率、満一歳までの死亡率をあげます。
1952年のバングラデシュで12%、22.5%
※GapMinder からとってきました。
次は満一歳死亡率です。
ローマ時代エジプト 32.9%
England 14世紀 21.8%
この2種類の数値から、11世紀のイタリアの乳幼児死亡率 15% (七人に一人)をエイヤって推定しました。
◾️ 妊産婦死亡率 3%
16-18世紀 西欧の貴族 2%
1800年の西欧で 0.8%
1990年のモーリタニア 0.8%
11世紀の平民の場合、栄養状態も悪いでしょうし3%くらいが妥当かなと思いました。
※もっと高いと思ったけど、想像するのが怖くて3%と甘めにしました
◾️ 女性の死亡原因が出産である割合 20%
女性一人当たり出産推定数7名 x 妊産婦死亡率 3% =21%
(この式はいい加減すぎるので、四捨五入しちゃって20%)
女性一人当たり出産数
1800 年代の西洋が7名くらいだったので、それ以下ではないだろうとの想定です。
おっしまい☆彡