聖遺物
1063年3月上旬 北イタリア アルベンガ離宮 ジャン=ステラ
「ジャン=ステラ様、まずはこちらの品をお納めください」
ユーグが、くるくる丸められた羊皮紙をこちらに差し出してきた。羊皮紙に書かれているのはお土産の目録で、実際の品物は、部屋の入り口付近の机上に置かれている。
ユーグを招待しての食事会の後、場所をお母様の執務室に移しての話し合いが始まった。執務室に場所を移したのは人払いをして話すため。
さきほど食事会の席で「ユーグはどうして僕に会いたかったの?」と聞いたのはアウトだったらしい。食事会は食事を楽しむオープンな場所であり、深い話をする場所ではないのだと、後でお母様に嗜められた。
お母様が言うには、僕と公式に会う事そのものが、すなわち政治的に重要な出来事なんだってさ。あまり意識したことがなかったけど、僕ってVIP、つまり重要人物だったんだね。
そして公式会見中の言葉は、すべて公式発表となってしまう。だから繊細な話題を食事会中にしてはならないのだ。
「ほへ~、知らなかったです」
素で驚いた僕に対し、お母様は溜息とともに肩を落とした。
「ジャン=ステラ……。 あなた、本当に分かっていなかったのですね。肩書だけみても、あなたは伯爵なのですよ」
そういえば、僕ってアオスタ伯だったね。いろいろな出来事がありすぎて忘れていたよ。
「それに、単なる伯爵以上のことをしているではありませんか。トリートメントの件もありますが、マティルデ様を嫁盗りに行くのでしょう? そして預言者なのですよ」
しっかりしてくださいな、とお母様が僕に釘をさしてくる。
まったくもってお母様の言う通りでございます。へへーって平伏したくなっちゃう。
まだまだ前世で一般市民だった時の感覚が抜けていないのだ。マティルデお姉ちゃんと結婚したら、ゴットフリート3世からトスカーナ辺境伯の地位を奪うことになる。僕の結婚話ひとつ取ってみても、とても重要な政治的事件なのだ。
知識として分かってはいても、実感が全く伴っていないんだよねぇ。
結婚と聞いて真っ先に頭に浮かぶのは、前世で恋愛結婚したお姉ちゃんのウェディングドレス姿。
(一度はウェディングドレスを着てみたかったなぁ)
もう一つ浮かぶのが、公民の授業で暗記した「結婚は両性の合意のみに基いて成立する」という条文。
「家と家の結びつきを強化するのが結婚なのです」と言われたって、時代劇の話としか思えないんだもん。
(あ!)
そうだった。今は11世紀。つまり江戸や戦国の時代劇より昔だよ。平安時代だ。藤原道長とか10円玉に描かれている宇治平等院鳳凰堂の時代だもの。そりゃ、僕の知っている結婚と違っていて当然だよね。
はぁ、って溜息がでた。本当に全然、何も分かっていなかった。
フォークやスプーン、お箸もそうだけど、僕が前世で身に着けてきた常識って、全然通用しないんだなぁ、と改めて実感したよ。
気づいたら、がっくり肩が落ちてた。
そんな僕を見かねて、お母様が慰めの言葉をかけてくれた。
「そうねぇ、まだ9歳ですもの。少しずつ学んでいきましょうね」
僕の失敗談はさておき、今はユーグからのお土産に話を戻そう。お土産って言っているけど、正確には初対面を円滑にするための献上品であり、部下であるスタルタスの失態に対するお詫びの品でもある。
ということで、早速、羊皮紙の封蝋を開き、中に書かれているお土産リストに目を通す。
・ 聖遺物
・ 薬
お土産は聖遺物と薬の2項目。薬は分かるけど、聖遺物ってなんだろう?
キリスト教に関係する遺品だとは想像できるけど、詳しくはわからない。羊皮紙には聖遺物の具体的な品名も書かれていた。
「聖アポロニアの歯」
歯が聖遺物なの? 小首を傾げつつ、お母様に聞いてみる。
「お母様、お土産リストに聖アポロニアの歯と書かれているのですが、どういう物なのかご存じですか?」
「ユ、ユーグ殿? 本物なのですか」
驚きに満ちた顔をしたお母様の視線は僕ではなく、ユーグの方を向いている。よくわからないけど、驚きの品らしい。
そのユーグはといえば、お母様が驚いた事がうれしかったらしく、とても満足げな笑みを浮かべている。お母様に向かって大きく頷いた。
「まずは実物をご覧に入れましょう」
ユーグが立ち上がり、入り口近くの机から、赤い布で包まれた小箱を抱えて戻ってきた。
貴重品を扱うような慎重な手つきで、ユーグは包みをそっと執務机の上に置き、赤い布を開いていく。
(何が出てくるのかな?)
小箱からでてきたのは、茶色く古ぼけた奥歯が1個。ただそれだけ。
(うわ、聖アポロニアの歯って、まんま歯だったよ)
ちょっと引きぎみの僕とは違い、お母様はキラキラと輝いた目で歯を見ている。
お母様の態度に気をよくしたユーグは長~い説明を開始した。
「こちらの歯は約800年前、エジプトのアレクサンドリアで殉教した聖人、アポロニアの聖遺物です」
アレクサンドリアのアポロニアという女性は、古代ローマ帝国のキリスト教徒。当時、キリスト教は迫害を受けていたのだが、アポロニアは全ての歯を抜かれるという拷問にあった後、火あぶりの刑により殉教した。そして、歯を抜かれたという逸話から、アポロニアは「歯の守護聖人」と呼ばれている。
聖人の遺骸は聖遺物として崇敬の対象となっている。聖遺物にもランクがあり、聖人の生涯に関係するものは価値が高いのだ。つまり、歯の守護聖人である聖アポロニアの歯はとりわけ格の高い聖遺物になる。
「そう、これこそが、かの聖人アポロニアの歯なのです!」
ユーグが興奮気味に古ぼけた歯を指し示したことで、ようやく説明が終わった。
「まぁ、なんと素晴らしい! ユーグ殿、当然これは本物なのですよね」
「もちろんですとも、アデライデ様。クリュニー修道院が創建された約100年前、アキテーヌ公ギヨーム1世から贈られた品でございます」
「まぁ、そのような由緒ある品をお贈りいただけるとは思っていませんでした。ジャン=ステラ、あなたもそう思いませんこと?」
お母様とユーグの熱っぽい視線が僕の方を向き、同意を求めてきた。
そんなこと僕に聞かれてもねぇ。どう答えればいいのか、困ってしまう。
「そ、そうですよね。うん、凄いと思います」
お茶を濁すので精一杯。はっきりいって、興味ないもん。
茶色い歯を、宝石を見るようなキラキラした目で見ているお母様とユーグ。
興奮を隠そうともしない二人と違い、説明を聞いても特に気分が高揚したりしない。宝石ならともかく、歯を見て感情が昂るというのが、僕にはよく分からないのだ。
(二人の会話が早く終わらないかなぁ)
ちょっと遠い目になりながら、ぼーっとしていた。
「あら、ジャン=ステラ。あなたは聖遺物に興味がないのかしら」
僕が無関心な事に気づいたお母様が、不思議そうに問いかけてくる。
「ええとぉ、そんな事はありませんよ。そう! この歯は素晴らしいです、この光沢のなさといい、歴史を感じさせる茶ばみとか」
聖遺物のどこに注目して褒めたらいいかなんてわからない。頑張って適当に褒めてみたけど、お母様とユーグにバレバレだった。
お母様がため息混じりに、そしてユーグは苦笑しつつ、僕の言葉を肯定する。
「そうよねぇ、見た目は小汚い歯ですものね」
「聖アポロニアの歯でなければ確かにその通りです、ジャン=ステラ様」
僕にできることといったら謝ることぐらい。
「お母様、ごめんなさい」
「あら、別にいいのよ。トリノ辺境伯家は、もっと綺麗な聖遺物の歯をたくさん持っていますからね」
へー、そうなんだ。さすが由緒ある家は違うなぁ。面白いお宝をたくさん持っているんだね。
自分の家のことながら感心していたら、先ほどと打って変わって真剣な顔をしたユーグが疑問を口にした。
「アデライデ様、恐れながらトリノ辺境伯家は歯の聖遺物をお持ちでないはずです。いつ手に入れられたのでしょう」
聖遺物の一覧と所有者が記載されたリストが教皇庁で管理されている。
そのリストによると、歯の聖遺物をトリノ辺境伯家は所有していないらしい。ユーグはこのリストを見て、聖アポロニアの歯を選んだから、間違いないと言う。
「つい最近なのですよ、ユーグ殿。ここ2,3年で相次いで手に入れたのです」
「そうだったのですね、それは残念なことでした。後学のため、どのような来歴の聖遺物なのでしょうか」
ユーグがちょっと残念そうに尋ねてきた。
トリノに存在しない歯の聖遺物、しかも歯の守護聖人アポロニアの歯という特別な品をお土産に持ってきたのだ。それにもかかわらず、実はトリノに歯の聖遺物がありました、だものね。ガッカリしてしまってもしかたない。
「そうねぇ。ユーグ殿にならお伝えしてもいいかしら。まだ公表していない聖遺物なのです」
「アデライデ様、どうして公表なさらないのでしょうか」
「実は、現時点ではまだ聖遺物ではないのです」 と、お母様。
僕の方をちらっと見て話を続けた。
「生え変わりで抜けた、ジャン=ステラの乳歯なのですよ」
ころころと笑いながら、お母様がそう告げた。
聖アポロニアの歯は聖骨箱に入れられ、ポルトガルのポルト大聖堂にて保管されています。
当時、聖遺物がなければ教会、正確には聖堂を建てられませんでした。礼拝所の祭壇下に聖遺物を埋葬している必要があったのです。そういう意味でも、聖遺物の価値は高かったのです。
ちなみに、ジャン=ステラちゃんの毛髪もアデライデお母様は収集しています。
最後にもう1点。聖遺物の一種に聖骸布というものがあります。キリストの亡骸を包んだ布で、その血を吸っているという第一級品の聖遺物です。この聖骸布は、トリノの聖骸布とも呼ばれれます。その名が示す通り、現在はトリノの聖ヨハネ大聖堂に保管されています。15世紀にサヴォイア家の所有物になったため、ジャン=ステラちゃんが目にすることはできないのです。
あぁ、いつかはイタリアを旅行したい。あなたもそう思いませんか?