ハシ
1063年2月下旬 北イタリア アルベンガ離宮 ユーグ・ド・クリュニー
目の前の机には細く削られた棒が2本。そしてひよこ豆が10個入った皿が一つ置かれている。
「くぬっ、このっ。 あ、逃げるなっ!」
その棒を右手で握り、ひよこ豆と格闘している。
丸いひよこ豆を上手くつかみ、落とすことなく空の皿に移動できればひとまず合格、なのだそうだ。
アデライデ様の執事に説明された。
「副修道院長のスタルタス様は、料理を手づかみで食べたことによりアデライデ様の不興を買いました。ユーグ様が同じ過ちを繰り返されない事を願います」
トリノ辺境伯家では、スプーンとフォークを使って食事を食べるという事を教えられた。なんでも、スプーンとフォークが使えない者は、アデライデ様と食事を共にすることはできない決まりなのだとか。
その決まりを無視したのが、クリュニー修道院・副院長のスタルタスだったと教えられた。
(あのバカ者めっ。一体何をやらかしてくれたのか。尻ぬぐいをする私の身にもなってくれ)
目の前に執事が居なければ、私は盛大に溜息をこぼしていただろう。
ちなみに、素手で料理を掴まないのは、東ローマ帝国皇帝家由来のマナーらしい。
私の父母はフランスの子爵であったが、思い返すと手づかみで食べていた。クリュニー修道院の院長として幾度も、スペインはイベリア半島の王族たちと食事を共にしてきた。しかし、ナイフ以外のカトラリーを見た記憶はない。
つまりはフランス、スペイン、ドイツ、イタリアは手づかみで豪快に食べる文化の国なのである。
(やれやれ、ギリシアかぶれのお上品な上級貴族というのは、食事一つとっても面倒なものであるな)
首を左右に振りつつも、スプーンとフォークの使い方はすぐに修得できた。
肉はフォークで突きさし口へ運ぶ。汁がこぼれそうな料理はスプーンを使う。
たったこれだけ。
そう、たったこれだけなのだ。
「ははっ。スプーンとフォークを使うなぞ造作もないことよ」
新しいマナーを学ぶという緊張から解放されたのだ。軽口を叩くくらい許されてしかるべきだと思わないか?
「おめでとうございます。これほど短期間でマナーを習得されるとは、さすがユーグ様であられますな」
マナーの指南役を勤めていた執事が私の軽口を拾い、祝意を述べてきた。
だが口は災いの元だった。どうやら執事の何かを刺激してしまったらしい。微笑みを絶やさぬ笑顔だが、目元が笑っていない。
(その簡単なマナーも守れなかったスタルタスの上役がお前なのだぞ、と非難しているのだろうか)
「それでは次の段階に進みましょう。ジャン=ステラ様は食事にハシを使われます。ユーグ様もハシの使い方を学ばれてはいかがでしょう」
ハシ。
その名称を与えられたカトラリーは、トリノ辺境伯家中でもジャン=ステラ殿など、ごく一部の者だけが上手に使えるらしい。
「ユーグ様がハシで食事される姿をお見せすることで、ジャン=ステラ様に敬意を示せると愚考します」
そう言って恭しく礼をする執事。
やはりそうであったか。
「スタルタスは敬意を払っていなかった。では私はどうなのだ?」
そう問いかけている。
ゆえに、ジャン=ステラ殿に面会を求めている私は、この提案を受けるしかない。
断ったら、「ユーグ様はジャン=ステラ殿に敬意を示そうとしない」、とアデライデ様に報告されてしまうだろう。
「うむ、よろしく頼む」
「承知いたしました。それではハシの指南役に交代いたします」
アデライデ様はハシを使わない。そのため、アデライデ様の執事はハシの使い方を教えられないらしい。
新しいハシの指南役は厳しかった。
ジャン=ステラ様の側近の一人であるというから、私に敵意を抱いているのかもしれない。そう感じてしまう程であった。
細く削られた棒が2本、机に置かれた。長さはスプーンやフォークと同じくらいである。
「この棒を2本使って、料理を口に運びます」
「フォークみたいに、棒を肉に突きさすのか?」
「ちがいます!」
いきなり怒鳴られた。理不尽な。ハシを見るのは初めてなのだ。その使い方を知っている訳もなかろう。
だが、がまん我慢。ジャン=ステラ殿に面会かなわぬ今、その側近の機嫌を損ねるのは得策ではない。
「いいですか、よく見ていてください。一本を親指と人差し指の間に挟みこみます。落ちてしまわないように、薬指で下から支えます」
(ふむふむ)
「もう1本を親指、人差し指、中指で持ち、動かします」
(うぬ?)
「2本の棒の先で料理をつまみます。ほら、このように」
(は?)
指南役殿は、ひよこ豆を二本の棒で摘まみ上げ、皿から皿へと移動させた。
一粒、また一粒と。淀むことない動作に美しさを感じるのは私だけではないだろう。
だが、目の前の光景が信じられない。
(刺さずに掴むだと?)
それも、手でつまむのとさほど変わらない速さで、だ。
「ユーグ様はこれまで、親指と人差し指で料理をつまみ、口へと運んできたと思います。2本の指を使う代わりに、二本の棒を使う。これがハシなのです」
目を見開いて驚いていると、勝ち誇ったような笑みを浮かべた指南役がハシとは何かについて説明しはじめた。
これがハシを使ったマナー講習の幕開けの風景であった。
そして結局、ハシの使い方に及第点をもらうまで3日もかかってしまった。
「ユーグ様、おめでとうございます。合格です」
なんとも嬉しい言葉であった。
ハシの練習中、なんど右手が攣ったことか。今も親指が痙攣しているような感覚が残っている。その苦労が報われたような気がする。ほっと安堵の吐息をついた。
(これでジャン=ステラ殿の前にでても恥ずかしくないハシ使いができる)
ハシを使える者が少ないという状況であればこそ、ジャン=ステラ殿の歓心を得られるというもの。時間はかかったが、無駄な時間ではなかった、そう思いたい。
少し前にお約束していた箸に関するサイドストーリでした。
● 第一部完結後に何を書くかについて多数の反応をいただきましたことに感謝いたします。
マティルデお姉ちゃんのスピンオフを書こうと思います
スピンオフといっても、ジャン=ステラちゃんの本編を補完するお話になります。
長すぎるサイドストーリー、あるいは外伝といった方がよかったのかもしれません。
それはさておき、これからも第一部の完結にむけて鋭意執筆を続けていきます。
これからも「前世の知識は預言なの?」をよろしくお願いいたします。