男の顔
1063年2月下旬 北イタリア アルベンガ離宮 アデライデ・ディ・トリノ
アルベンガの冬は雨の季節。
連日続く曇り空としとしと降り続く雨は、まるで離宮内の雰囲気を表すようでした。
誰にでも気軽に「おはようっ」と可愛い声で挨拶し、相手が平民であっても「ありがとう」とお礼を述べていたジャン=ステラ。
「そのような態度では、家臣達から軽く見られてしまいますよ」
私がいくら忠告しても、その癖はなおりませんでした。
「僕もわかっているんです。でも体に染みついてしまっているみたいで、考える前に出てきちゃうんです」
「しかたない子ねぇ。成人する15歳までには治すのよ」
「はーいっ!」
ほんと、お返事だけは元気がいいのですから。
可愛くて愛おしくて仕方のない愛息子。そのジャン=ステラが、離宮の一角に引きこもっています。
息子が執務室に顔をださなくなり、中庭で元気よく遊ぶ姿を見かけることもなくなりました。
家臣からも、そして執事や侍女たち使用人達からも慕われていたジャン=ステラ。
その「おはよう」と「ありがとう」がなくなることで、離宮はどんよりとした空気に包まれてしまいました。
『お元気なお姿をお見かけしたい』
誰も彼もがそう思い、ジャン=ステラの部屋の方を気にしています。
そんな私達に一縷の望みが現れました。
トスカーナ辺境伯のマティルデ・ディ・カノッサ様からのお手紙です。
息子を泥棒猫にとられてしまうような焦燥感がないわけではありません。
胸にちくっと痛みが走ります。
しかし、それでも。ジャン=ステラが元気になってくれる方が何百倍も良いに決まっているのです。
あぁ、神様。ジャン=ステラの心をお救いください。
◇ ◆ ◇
その翌日、太陽が東の空から昇り始めるのを執務室から眺めていました。
離宮の眼下に広がる地中海。その水面に反射した日の光がキラキラと輝いています。
パンを焼く香りがどこからともなく漂ってきました。
「今日こそは、ジャン=ステラの明るい顔が見られるわよね」
明るい一日の始まりを予感させる素敵な風景でした。
そして、私の予感は当たったのです!
執務室前の廊下をタタタッと走ってくる軽い足音が一つ、その後ろを追いかける重い足音が複数聞こえてきます。
あらあら、ジャン=ステラの護衛は大変ねぇ。
「くすくすっ」と笑みが零れました。
笑ってから気づきました。そういえば私、長い間、笑っていなかったわね。
「ジャン=ステラ様がお見えです。お通ししますか?」
私に問いかける執事の顔も笑っています。
「ええ、もちろんよ」
執務室の扉の隙間から、可愛い顔がのぞいています。
「お母様、おはようございますっ」
「ええ、ジャン=ステラ。おはよう。あなたの元気な声が聞けて嬉しいわ」
そういうと、ジャン=ステラはちょっとばつの悪そうな顔をしました。
「心配をおかけし、ごめんなさい。でも、もう大丈夫ですっ!元気になりました」
ジャン=ステラの声に張りがあります。いつもの快活な息子に戻ったのだと確信がもてました。
「それにしても、何かいい事でもあったのですか?」
何かいい事もなにも、マティルデ様からの手紙に決まっています。マティルデ様に少し嫉妬してしまうのは母親として仕方ありませんよね。
「うーん。いい事かどうかは判らないのですが……」
あら、ちょっと歯切れが悪いわねぇ。私に言いづらいような事なのかしら。
「あらら? 私に何か隠し事ですか」
からかうような口調で、ちょっとだけ意地悪に問いかけてみます。
うふふっ。
このような些細なやりとりにも、幸せを感じてしまいます。
ああ、なんて幸せな時なのかしら。
「いえ、隠し事ではないのです。お母様にちょっとお願いがあるのです」
「ちょっとしたお願い?」
「いえ。ちょっと、というには大きなお願いなのです」
もじもじするジャン=ステラも可愛いのですが、男ならびしっと言いなさいな、びしっと!
「ジャン=ステラ、はっきりしなさい。どんなお願いでも、私にできる限りあなたに協力するわよ」
「本当に?」
「当然です。あなたの母親を信じなさい」
さいごの言葉はできるかぎり優しく言いました。
(ああ、ジャン=ステラが子供でいられるのは、この瞬間までなのね)
女の勘がそう告げています。
話す覚悟が決まったのしょう。果たして、ジャン=ステラの表情が決意を固めた男の顔へと変化していきました。
脳裏に亡き夫、オッドーネの姿が浮かびます。
私を、そしてトリノ辺境伯家を守ってくれていた貴方の顔とそっくりね。
「貴方の子供が一人、大人になりましたよ」 心の中で夫に告げました。
ジャン=ステラが私の目を真っすぐ見据えてきます。
「マティルデお姉ちゃんを迎えに行くから、協力してください」