もふもふ&クリュニー修道院の美食(前編)
まえがき: クリュニー修道院に関する地図を後書きに記しています。
1062年12月中旬 イタリア北部 アルベンガ離宮 ジャン=ステラ(8才)
クリスマスソングじゃなくても歌詞を説明するのは、とっても難しい。僕の知っている歌詞は日本語だから、どうやってイタリア語にすればいいのか困っちゃう。
何に悩んでいるかというと、ドレミの歌。
「ドーはドーナツのド」
ドーナツって英語だよね。イタリア語でもドーナツでいいのかな?
「お母様、ドーナツを食べた事ってありますか?」
「どぉなつ、ですか? 初めて聞きましたよ、どんな食べ物なのですか?」
お母様も知らないみたい。思い返してみると、ドーナツが食事に出てきた事ってなかった。
ということで、ドレミの歌は、歌詞の最初から翻訳に失敗。残念、お母様とカラオケしたかったなぁ。
◇ ◆ ◇
歌詞についての話も一段落したころ、執務室に白髪の美丈夫が入ってきた。深い青色の目が印象的で、落ち着いた雰囲気の中年男性である。
「ジャン=ステラ様、お初お目にかかります。辺境伯家で白鳥飼育係を務めているオロールと申します」
オロールはたいそう誇らしげに「白鳥」の部分を強調しつつ、僕に自己紹介してくれた。
「白鳥飼育係? ねえ、お母様、アルベンガ離宮で白鳥を飼っているのですか」
飼育係っていうと、小学校の時のウサギ係やカブトムシ係みたいなものかな? 校庭の片隅にウサギ小屋があって、そこでウサギをモフモフぎゅって抱きしめるのが好きだったなぁ。
ウサギと同じように、白鳥と遊べるといいなぁ。たしか鳥って体温が高いんだよね。ぎゅっと抱きしめたらホカホカと温かいと思う。ちょっとわくわくしてきた。
「ええ、ほかにもウサギとか羊とかも飼っていますよ」
「おおお、うさぎ! どこどこ? どこで飼っているのですか? 僕、ウサギの飼育係をやってみたい!そしてもふもふしたい」
手入れされたもふもふは、お日様の香りがするんだよ~。
お母様の返事に僕のテンションだだ上がり。思わずその場でぴょんぴょん飛び跳ねたい衝動にかられちゃう。前世では、動物が好きだったから牧場でバイトしてたくらいなのだ。小動物が嫌いなわけがない。
前のめりになってもふもふ言っていたら、お母様が不思議そうに首を傾げる。
「モフモフですか? よくわかりませんが、他にも色々と飼っていますよ、ね、オロール」
「はい、アデライデ様。他には、豚や牛、山羊も飼育しております。それに食用ではありませんが、離宮では馬も飼っております」
今なんか不穏な言葉が聞こえたような。
「食用? 」
「いえ、馬は軍で使うため、食用ではないんですよ」
ニコニコと、子供を諭すような優しい口調でオロールが、馬は食用ではない、と教えてくれた。
馬はということは、つまり他の動物って……
僕はおそるおそる、間違っていますようにと祈るような気持ちでもう一度聞いてみる。
「馬は食用じゃない。という事は、うさぎは?」
「はい、食用です。ジャン=ステラ様の食卓にも何度かお出ししたことがありますよ」
「いやーーー」
もふもふ、食べちゃうの? 僕、食べちゃったの? いつの間に食卓にあがってたのよ。知らなかったよ。知っていたら食べなかったのに。僕のモフモフ、ごめんよぉ。
「まぁ、ジャン=ステラったら。突然どうしたのですか。落ち着きなさい。オロールを困らせていますよ」
「はっ!」
お母様の言葉に我に返った僕がオロールに視線を移すと、取り繕った笑顔の下に、隠しきれてない不安が覗いていた。僕の不興を買ってしまったのかと、怖れ慄いているのかもしれない。
貴族でないオロールからみれば、僕も絶対権力者の一員である。自分でもついつい忘れそうになるけど、現役のアオスタ伯爵だもの。
そのアオスタ伯爵である僕が叫んじゃうほどの不快感を表しちゃったら、平常心ではいられないよね。解雇とか、領地追放といった処分がオロールの脳裏に浮かんだとしても不思議ない。なにせつい最近、サルマトリオ男爵を借金まみれにして、領地を没収したところなのだ。
「オロール、僕、ウサギを食べるだなんて思っていなかったんだよ。だからつい叫んじゃったの。オロールを非難したわけじゃないんだよ。ごめ……」
謝罪の言葉を口にしようとしたタイミングで、お母様に膝をぺしっと叩かれた。
(いたっ。お母様、どうして叩くの?)
非難がましい目線をお母様に送ると、能面のようなニコニコ笑顔でお母様がこちらを見ていた。
あら、また何かやっちゃった? うーん。なんだろう
あ!
舐められたらダメだから、家臣に謝っちゃだめなんだ。あくまで強い主君でないといけないんだったよ。
「オロールが悪いわけじゃないの。安心してね」
にっこりとオロールに微笑みかけると、オロールの笑みから緊張感が抜け、自然なものになった。
「ジャン=ステラ様のお心を煩わせてしまい申し訳ございません」
オロールは右足を後ろに下げ、丁寧なお辞儀をみせてくれた。
僕のせいで、無駄に謝らせてしまってごめんね。口に出せないから、せめて心の中だけで謝っておくことにする。
オロールとのやりとりが一段落した後、お母様がオロールに執務室へ来た理由を尋ねた。
「ところで、オロール、用件はなんですか? あなたが執務室に足を運ぶのはとても珍しいでしょう。やはり年明けの大宴会の事かしら」
あとでお母様から教えてもらったのだけど、オロールの役職である白鳥飼育係は、白鳥を飼っているだけの係ではないんだって。簡単にいえば、トリノ辺境伯家の食料品全般をつかさどる、職位の高い役職だったりするのです。
中世イタリアって、とっても不便なの。スーパーに何でも売っていて、お店に行けばいつでも買えるわけじゃないんだよね。そのためトリノ辺境伯家の家族、そしてその下で働く人々の食料を仕入れておくのは大変な仕事なのです。さらには、お母様や僕が毒殺されないよう、料理人たちを見張る役割も兼ねているんだって。
それほど重要な役割なのに、どうして白鳥飼育係のような、小学生の生き物係みたいな名前なんだろうねぇ。もっと大層な名前にすればいいのに。
名前はさておき、つまりオロールは、大勢の人に食事を提供する大宴会における裏方のトップという事になる。そのオロールが執務室に尋ねてきたから、お母様は、大宴会に関する用件だって分かったのだろう。
「お時間を頂戴して恐縮です。御推察の通り、大宴会でお出しする料理について、ご意見を頂戴いたしたく存じます」
「あらあら、今まで何度も大宴会を裏から支えてきたオロールが、今回に限っていったいどうしたのかしら」
「お恥ずかしながら、お招きするお客様への対応について悩んでおります」
オロールが困っているのは、クリュニー修道院の修道士たちに出す食事に関してだった。
大宴会にクリュニー修道院の人が来るのは、トリノ辺境伯からローマ教皇に対する寄付を迂回させてもらうためである。
現教皇は、僕たちトリノ辺境伯の主君である神聖ローマ帝国皇帝と対立している。そのため、僕たちが直接教皇に寄付するのは憚られるのだ。しかし僕としては、ローマの人々を小麦高騰からくる飢餓から救いたい。
そこで、助祭枢機卿のイルデブラントが提案したのが、クリュニー修道院を利用する案だった。クリュニー修道院は、フランスのアキテーヌ公爵や、イベリア半島のレオン王国から莫大な額の寄付をもらっている。そのため、トリノからの寄付を偽装しても目立たないだろうというのが、イルデブラントの目算である。
つまり、この目論見に協力してもらうためには、クリュニー修道院の面々には、大宴会で満足してもらう必要があるってことだよね。
でも、修道士に出す料理で困っているってどういう事なのかな?
修道士に対して持っている僕のイメージは、品行方正で、質素清貧。前世の街角でみた、冬でも粗末な服を着て托鉢しているお坊さんとか、人里離れた山奥で滝に打たれる修行僧とかのイメージと重ね合わせているのだと思う。
修道士たちの食事に悩むっていうのは、魚やお肉をつかってはダメなお坊さんの精進料理みたいに様々な制限があるってことかな?
「ねえ、オロール。修道士に出す料理の何に困っているのかな。修道士ってあれでしょ。戒律のせいで質素な料理しか食べないから、豪華な食事を出せなくて困ってるって感じ?」
思った疑問をそのまま口にしたら、お母様とオロールにひどく驚かれた。
「「修道士が質素ぉ!!」」
2人の言葉が見事にハモった。それほど驚くポイントなの? それにオロール、主君の前で乱暴な言葉遣いをしちゃだめでしょ。
お母様はオロールの無礼には気にも留めず、勢いよく捲し立ててきた。
「ジャン=ステラ、あなたは一体、何を言っているのかしら。修道士が質素だなんて、そんなわけないでしょう。特にクリュニー修道院といったら、豪華絢爛で有名じゃない、ねえオロール」
オロールがうんうんと首を縦に振って同意する。
「アデライデ様のおっしゃる通りです。諸侯からの寄付を使い、クリュニー修道院は美食を追求する修道士の集まりでもあるのです。
『ワインはキリストの血であり、パンはキリストの体』
この言葉をジャン=ステラ様も聞いたことがおありかと思います。クリュニー修道院はこの言葉に従い、美食と美味しいワインの追求に心血を注いでいるのです。質素とは正反対の存在なのですよ」
なるほど、なるほど。 僕のイメージは180度間違っていたみたい。現世から離れた修行僧じゃなかったのね。
「じゃあ、オロールがクリュニー修道院の人たちに出す料理で困っているというのは、豪華な食事を出さないといけないから困っているってこと?」
「その通りでございます。トリノ辺境伯家とクリュニー修道院が友好的な関係を結ぶため、そしてトリノ辺境伯家の格を見せるため、なにかお知恵を拝借できませんでしょうか?」
◇ ◆ ◇
布の価値
ジ:ジャン=ステラ
ア:アデライデ・ディ・トリノ
ジ:クリュニー修道院はともかく、普通の修道士は質素で清貧なの?
ア:うーん、そうねぇ
ジ:イシドロスは、飾りっ気のない質素な服を着ているでしょう?
ア:たしかに飾りは少ないですが、分厚い布で作られた豪華な服ですよ?
ジ:え?分厚い布は豪華なの?
ア:当然じゃない。分厚いと糸をたくさん必要としますからね
ジ:でも、お母様、薄い服も着ているじゃないですか?
ア:あれは絹で出来たドレスよ。糸の値段が段違いに高いのよ
ジ:つまり、イシドロスは質素でない、と。
ア:貴族階級出身の修道院長ですもの。質素なわけないわ
イルデブラント: 清貧を旨とする「ペトルス・ダミアニ」のような聖人もいるのですけどねぇ……
☆宇佐美ナナの歴史コーナー☆
ナ: うさぎのナナちゃん・ピンク色のぬいぐるみ
マ: 黒猫のマティキャット・マティルデお姉ちゃんが作ったぬいぐるみ
ナ: ジャン=ステラちゃんが、ドーナツで悩んでるけど、そもそもドレミファソレシドって知ってるのかな?
マ: マティルデお姉ちゃんは知ってたよ
ナ: えっ、本当?
マ: うん。教会の人が教えてくれたんだって
ナ: じゃぁ、マティルデお姉ちゃんは、歌も好きなのかな?
マ: 歌うのは好きだけど、聖歌は嫌いみたい
ナ: 教会の中で静かに座っているのが苦手なんじゃないかな?
マ: お姉ちゃん、活動的だからね。仕方ないと思うよ
ナ: ジャン=ステラちゃんと一緒に楽しく歌える日がくるといいね
「ドレミ」音階は、グイード・ダレッツォ(トスカーナのイタリア人 991年ー1050年)が提案したそうです。この人、楽譜の書き方も提案しています。教皇庁でも音楽教育法を施していたようですので、アデライデ・ディ・トリノはドレミ音階を知っていたのではないでしょうか。




