第3話 森の奥で
村を出た俺は、森の奥へと進んでいた。
ブナやカシの木が鬱蒼と生い茂る森は、奥に進むほどその密度を増していく。より多くの光を得るために伸びた枝葉は太陽の光を遮り、足元には露に濡れた苔藻が、まるで緑の絨毯の様に広がっていた。
まるで巨大な生き物に飲み込まれていくような感覚を覚えながら俺は慎重に森の中を進んだ。
狩りをする時でも、こんな森の奥へ行く事はそうそう無かった。
井戸のある廃村に行ったのは一度だけだ。
その時は怖がるルキナを無理やり引っ張って来たが、結局、帰り道が変わらず二人で泣きべそをかいていたところを、ハンスに助けられた。
先ほどまで森が怖くて泣いていたルキナは、ハンスの姿を見ただけで泣き止んだ。それがとても印象に残っていた。
そうこうしている内に、前方に開けた土地が見えてきた。
ここはかつて異教徒の村があった場所だ。
噂では今から約二十年前、まだ、ヴァルトヴィング帝国がヴァルト王国と名乗っていた頃、大きな宗教改革が起き、そこで迫害を受けた者達が帝国の脅威から逃れ、隠れる様にここで暮らしていたらしい。
しかし、それも長くは続かず、大陸中に広がった排斥運動によってこの地を追われ、今ではもう誰も住んでいなかった。
今にも朽ち果てそうな家の隙間を縫って広場へ行くと、そこには古ぼけた井戸があった。
少なく見積もっても十年以上使われていない井戸だ、水があったとしても枯葉や枝が落ちているに違いない。
そう思って井戸を覗き込んだが、そこにはゴミ一つ浮かんでいない水面が木の隙間から刺す光を受けキラキラと輝いていた。
「え……?」
予想と異なる光景につい言葉が出た。
ふと、視線を井戸の横に移すと水を汲むための桶が置かれていた。違和感を感じた俺は、桶に手を伸ばした。すると、桶が濡れている事に気がついた。
誰かが使ったのか……?
しかし、こんな森の奥にヨーク村の住人が来るとは到底思えない。そうなると必然的によそ者が使ったと言うことになる。
俺は弓を握りしめると、周囲を警戒した。
今は戦時中だ。戦に敗れた敵国の兵士がこういったところに隠れたり、戦場から逃げた兵士が故郷に帰れず衣食住に困り野盗と化すなどと言った話はよくある事だ。
そうでなくても、今、村には大人の男達がいない。普段から悪事に手を染めている連中がこの機会に村を襲おうとしている可能性は十分にあった。
俺は慎重に廃村を歩き回った。
その時、前方にある一際大きな家から微かに物音が聞こえた。
誰か居る。
俺は矢を弓に番えると、慎重に大きな家に近づいた。
窓は雨戸が閉まっており、中の様子を伺う事は出来なかった。仕方なく入り口の扉に近づくと、中から何か物が倒れる音が聞こえた。
そっと、扉に手を掛けて隙間から中を覗き込んだ。
次の瞬間、
「何か用かしら?」背後から女の声が聞こえた。
いつの間に!?
俺は驚きを隠せなかった。
全く気配を感じなかった。二人居たのか?中の方に集中していたせいで背後から忍び寄る気配に気づかなかったのか?
俺は前を向いたまま、背後の女に問いかけた。
「そっちこそ何者だ?二人だけか……?」
「二人……?ここに居るのは私一人だけど」
女がそう答えた。
「嘘を吐くな!今、中で物音が--」
「あぁ、それ私。誰かが近づいてくる気配がしたからそっと回り込んだのよ」
そんな馬鹿な。いつもの狩りよりも慎重に、物音一つ立てずに近づいた筈だ。
「確かに中々いい動きだったわ。でも、気配を消すにはもっと心を落ち着かせないとダメね」俺の思考を読んだかの様に女が言った。「ねぇ、こうやって背中越しに会話するのも疲れるでしょ。弓矢、下ろしてくれないかしら」
この女は危険だ。俺の五感がそう告げていた。
俺は構えた弓矢を下ろすフリをして、勢いよく振り返ると同時に、弓矢を女の顔に向けた。はずだった。
「え?」
気づいた時には天地がひっくり返っていた。
女に投げ飛ばされたのだと気づいたのは、背中から地面に落ちた痛みが走った後だった。
「いってええ!」叫びながら何とか身を起こす。「いきなり何するんだよ……!」
「それ、こっちのセリフなんだけど。いきなり弓矢なんか向けたら危ないでしょ」
女の正論に返す言葉が一つも無かった。
俺はそこで初めて女の姿を見た。
色白の肌に、パッチリとした青い瞳、肩まで伸びた燃えるような赤い髪。そして、すらっとしたスタイルの良い体には黒いローブの様な布を纏っていた。
歳は二十代だろうか、かなり若く見えた。
村では見かける事もないような、変わった雰囲気を纏った女の姿に目を奪われていると、女が口を開いた。
「それで?あんたは何者?」
その言葉でハッと我に帰った俺は渋々女の問いに答えた。
「俺は森の向こうのヨーク村のアガ・ゲヘルツ。この村の井戸が使えるのか見に来ただけだ……!」
「井戸?」女が訊き返した。「随分と使われて無かったみたいだけど、こんな場所の井戸をどうしてまた?」
「村の井戸が使えなくなったんだよ……!」
「ふぅんなるほどねぇ」女はそう呟くと古びた井戸を指差した。「そういう事ならどうぞ、あの井戸使いなさい」
女はそう言うと、俺を無視して家の中へ戻ろうとした。
「おい、待てよ!」俺は落ちた弓を拾いながら、女を呼び止めた。
「なに?」女が足を止めて訊ねた。
「こっちの質問にも答えろ!あんたは一体何者だ?なんでこんな場所にいる!?」
「私はある人物を探してるの。その人物の噂を聞いてこの土地にやって来たってわけ。そしたら、ここに丁度いい廃村があったから少し借りてるだけよ」
女はそう言うと家の中へ入って行った。
「おい!」
半分くらい答えになってない回答だった。
怪しい女を無視するわけにもいかず、俺は家の中へと足を踏み入れた。
家の中は見たこともない道具で散乱していた。
床には大きな皮の鞄が広げられ、その中には見たこともない色の液体や粉の入ったガラスの器、金属製の道具がギッシリと詰まっていた。
テーブルの上には同じくガラスで出来た容器が並べられ、女は何やら液体の入った容器を火で温めていた。
一体何をしているんだろう。俺は女に近づくとテーブルの上の容器に手を伸ばした。
すると、女が言った。
「見るのは勝手だけど、無闇矢鱈に触らない方が身のためよ。中には危険な物もあるから」
女の言葉に、俺は伸ばした手をそっと引いた。
「外の井戸もあんたが綺麗にしたのか?」
「そ。生活するのに水は必要不可欠だからね」
女は脇目も振らずにそう答えた。
十年以上使われていない井戸だ。掃除するのも大変だっただろうに、女の言い方はいとも簡単にやってのけたかの様だった。
「飲めるのか……?」
俺がそう問いかけると女はテーブルの上のガラスの容器達を指差した。
女が指した容器の中で一番大きな物には何やら黒い粉の入った液体が入っており、女はその容器をアルコールランプの火で熱していた。容器の蓋からは細い管の様な物が伸びており、管は隣の少し小さな容器に繋がれていた。その容器の蓋からも管が伸びでおり、隣にある同じ容器に接続され、その容器から伸びた管は空の容器の中へと続いていた。
「この黒い粉に塩酸をかけると、反応が起きて塩素というガスができる」
女が容器を順に指で追いながら、最後に空の容器を指した。
「塩素?」
女が指差した容器をよく見ると、うっすら黄色味がかった空気が溜まっていた。
「ここに、石灰を砕いた粉を入れる」女が白い粉を容器に入れた。「この状態で少し放置すればさらし粉ができる」
先ほどから、女の言っていることは半分も理解出来なかった。
困惑する俺に女が白い粉の入った小瓶を渡した。
「濾過した水にこの粉を入れて一日置いておきなさい。そしたら飲んでも大丈夫」
「は?なんで……」
「なんでって、村の井戸が使えなくて困ってるんでしょ?使えない理由はわからないけど、大方、病にかからない為とかそんなところかしら」
この女は何故、そんな事を知っているんだろうか。それにこの粉を入れれば大丈夫だと、当時の俺には信じ難い話だった。