第2話 井戸
ハンスを含めた村の大人達が出て行ってから半年が経った。
半年の間に戦地から戻ってきた者は誰もいなかった。働き手を失った村の暮らしはとても苦しかった。村人総出で畑を耕し冬に備えたが、その年の夏は短く作物は碌に育たなかった。
更に流行病は止む事を知らず、半年の間に年老いた者や、体の弱い者から次々に死んでいった。
村の教会には埋葬が済んでいない棺がいくつも並んでいた。
そんな時、俺は村はずれの森にいた。
息を殺して、前方の獲物に気づかれない様、そっと歩く。
前方の木の間に、一頭の立派な角の生えた雄の鹿がいた。
俺はそっと、腰に下げた弓筒から弓を取り、矢筒から取り出した矢を番えた。スッと弦を引き、鹿の左脚の付け根、心臓がある場所に狙いを定める。
アレを狩る事が出来れば、数日は食べ物に困らない。絶対に外す訳にはいかない。
そう思うと腕に余計な力が入って、上手く狙いが定まらない。
ダメだ。落ち着け。自分にそう言い聞かせる。
父さんが教えてくれただろ。
緊張感は獲物に伝わる。だから狩人は常に冷静で、自然の一部になったかの様な気持ちでいなければならない。
父はそう言っていた。
息を吐いて、気持ちを落ち着かせた。
そして、俺は矢を放った。
しかし、その瞬間、
「アガ!どこに居るのー!」森の入り口からルキナの声が響いた。
その声に驚いた鹿が動き、矢は鹿の背中に突き刺さった。
「くそ!」
鹿は一目散に森の奥へと走って行った。
到底、人間の足では追いつけない。矢の刺さった場所が急所ならば、その内衰弱するかも知れないが今回はそうではない。あの鹿は人間を警戒して当分この森には近づかないだろう。
「はぁ」
俺はため息を吐くと、俺の名前を呼ぶルキナの元へ向かった。
森の入り口へ着くと、ルキナが淡い栗色の髪を揺らしながらこちらに駆けて来た。
俺はルキナの姿を見るなり口を開いた。
「おい!ルキナ!何してんだよ!」
「あ!いた!」俺に気づいたルキナが言った。「こっちのセリフよ!畑仕事サボってなにやってんの!」
「狩りだって立派な仕事だ。死んだ土を耕すより百倍マシな」
「獲物が獲れればねー……」ルキナがもの言いたげな視線を向けた。
「あのなぁ!お前が邪魔しなきゃ今頃数日分の食料が手に入ってたんだぞ!」
「はいはい、言い訳はいいから」
ルキナはいつもこういう調子だ。昔からいつも俺の事を下に見ている。
やはり、ハンスの存在が大きいのだろう。ルキナにとって俺はいつまで経っても頼りにならない奴という認識なのだ。
そう思うと悔しさがこみ上げて来た。
もう、ハンスは居ないんだ。いつまでもハンスばっかり見てないで俺を見ろよ。
そう言いかけて口を噤んだ。
「大変なの!」ルキナが言った。
「……また、誰か死んだのか?」俺はそう訊ねた。近頃、最もよく言うセリフだ。
「うん……ベッカーさんが……」
「そうか……」
村はずれに住んでいたベッカー夫人は夫を病で亡くしてから、心を病んでしまい誰とも会おうとしなかった。人知れず亡くなったのだろうか。
「それだけじゃなくて……」
「んあ?」
「とりあえず早く村に戻ろ……!」ルキナは俺の手を取ると来た道を引き返した。
「おい、なんなんだよ!ちゃんと説明しろ!」
***
ルキナに連れられ村に戻ると、井戸の前に人が集まっていた。
俺は近くにいた村長に訊ねた。
「どうしたんだ?」
「おぉ、アガか」村長は顎に蓄えた髭を撫でながら困った顔で続けた。「朝、井戸で水を汲もうと思ったらベッカーさんの死体を見つけてなぁ」
村長が目の前にある井戸を指差した。
俺は井戸に近づき、その中を覗き込んだ。
暗い井戸の底で、水にプカプカと浮かぶ死体が見えた。顔までははっきりと見えなかったが、背格好からしてベッカーさんなのだろう。
「井戸に落ちて死んだのか……なんで……」
自殺だろうか?そう思ったところで村長が言った。
「それだけじゃない、よく見ろ」
村長が井戸を覗き込んで、水に浮かぶベッカーさんを指差した。
「んん?」
訳もわからず再びベッカーさんの死体をよく見ると、肌が所々白く変色しているのが見えた。
「白皮病!?」
「あぁ、ベッカーさんは人知れず白皮病に罹り、恐らく苦しみながら水を汲みに来たんだろう。そして、誤って井戸に落ちた」
「あぁ、くそ……最悪だ」
この井戸はもう使えない。恐らくこの井戸の水を飲めば白皮病に感染してしまう。
白皮病の原因は未だよく分かっていないが、とにかく感染者が触れたものには極力触らない、それがこの病気の唯一の対処法だった。
「村の井戸が使えないとなると、川の水を飲むしかないな……。村で蓄えていた酒はもう殆ど無いし、大事にしておきたいからのぉ」
村長が頭を掻いた。
「川の水って……」
ヨーク村の近くにはシュマール川が流れている。シュマール川はプロトテイン公国を北から南へと縦断する型で流れるアインパール川の支流にあたり、その水は普段、農業用水や家畜の水として使われている。
ぱっと見は酷く汚れているわけでもないが、飲料水として扱うには少し汚い。ましてや、ヨーク村はプロトテイン公国の南部にあるため、必然的にシュマール川はアインパール川の下流に当たる。
その為、上流で使われた生活用水や、糞尿などの汚物がが流れ込んでいる可能性も高い。
さらに、川の水を飲んだ者が白皮病に罹ったという噂までもある。
「もちろん、そのまま飲む訳じゃないさ。濾過槽に入れるのは勿論、煮沸してから使う」
俺の考えている事を察したのか村長が言った。
それでも、井戸水が使えないのはかなり不便だ。今ですら皆、辛い生活をしているに更に大変になる。
どうして、こんな悲劇ばかりが起こるのだろうか。運命とやらを呪いたくなった。
「そうだ……!森の向こうに昔使われていた井戸があったはずだ!」俺は村長に向かって言った。
「あぁ、確かにそうだが……もう何十年も使われてないんだぞ?もう水が出るかどうかもわからんし、仮に出ても飲めるかどうか……」
「俺が行って調べてくる。川から汲んで濾過するよりは楽だ」
俺はそう言って踵を返した。
「アガ!ちょっと待ってよ!」ルキナが俺の腕を掴んだ。「またそうやって一人だけ別行動するつもり?朝だって畑仕事をサボって狩りに行って結局何も獲れなかったじゃん!そんな使えるかどうかもわからない井戸に行くより、みんなで一緒に川まで水を汲みに行った方が良いよ!」
「別にサボってねぇよ。俺はみんなが楽になるように俺なりに考えて動いてるだけだ」
「そうやって、何でも一人でやろうとしないで!兄さんだったら、みんなとちゃんと話し合って……」
「ハンスは関係ないだろ!」
先ほどの件もあってか、つい声を荒げてしまった。ルキナがびくっと体を硬直させる。
「俺だってちゃんと考えてる!それなのにいつも兄さんは兄さんは……って俺じゃ役立たずってか?」
「それは……」
「そうだよな?ルキナはハンスの事が大好きだもんな」
「だって兄さんは……!」ルキナの目に涙が溜まっていた。
俺はその表情に罪悪感を覚えたが、溢れた感情を抑える事が出来なかった。
「ハンスはもういないんだ!だからハンスと俺比べるのは辞めろ!」
そう言ってから後悔しても、もう遅かった。
「ゔあああああ!」ルキナが両目から大粒の涙を流して、今まで聞いた事が無いほど大きな泣き声を上げた。
今思えば、ハンスがいなくなってからずっと溜め込んでいた感情が一気に溢れたのだろう。
「おい、アガ!」
村長が俺を諌めた。
他の村人がルキナを抱きしめ慰める。
しかし、一度感情の堰が崩れたルキナは止まらなかった。
「アガの馬鹿!何でも勝手にいけば良いじゃない!もう知らない!」
自分が悪い事は分かっていた。だが、ちっぽけなプライドが素直に謝る事を拒んだ。
「あぁ!そうするよ!!」
俺は吐き捨てる様にそう言って、村を後にした。