姫王子の脱走
「人とは、酷く臆病で傲慢な生き物だ。それゆえ、勇敢で謙虚な行いができる」
窓から入り込む風に、くすんだ金色の短い髪が揺れる。豪奢な部屋には二人しかおらず、内一人は広い部屋に声を響かせていた。
『創世神話』と書かれた分厚い本を読み上げる声は、低く馴染みのある声だ。
思わずうとうととしてしまったのは、机に座り、一人その声を聞いていた少年である。
上質なシャツを着て、黒いパンツに皮のブーツを履いている。その胸元には、王家の証である金で出来たペンダントがぶら下がっていた。
「つまり人とは………って、おい。聞いているのか」
赤い瞳が瞼に何度か遮られて、再びぼんやりと部屋の中を見渡した。
完全に寝ぼけている。
「ふぁい、へんへー」
「聞いていないな、ジルベルト」
ジルベルトと呼ばれた少年は、自らの家庭教師を見て瞬きを繰り返す。
くすんだ金髪に、紫の瞳を持つ家庭教師は、ため息を吐いて用意されていた椅子に座った。
「集中できないか」
「あー…わかる?」
「そんなデカい欠伸されればな。じゃあ今日はもう止めにするか」
パタン、とハードカバーの本が閉じられて、そのまま机に置かれる。
装飾は為されていないシンプルな机だが、釘等は一切疲れていない最高級品の机に、ジルベルトは行儀悪く顔を伏せた。
「そーしてくれるならありがたいです、先生」
「その呼び方気持ち悪いから止めろって言っただろ」
まだ青年といっても通じる年齢に見える家庭教師は、その端整な顔に不機嫌そうな色を浮かべる。
ただ、どんなに不快そうな顔をしようとも、顔を伏せたままのジルベルトには見えていない。
机とキスしたまま、羽ペンをインク壺に突っ込んだジルベルトは唸りながら白紙の本を閉じて避けた。
「行儀が悪いぞ。メリルが見たら何て言うか」
「見ていなければ何も言わないよ。あと、」
そこでジルベルトはようやく顔を上げる。
白い額には赤く痕がついていた。その下で赤い瞳が、ちらりと家庭教師を見やる。
「フィルが言わなきゃ」
フィルと呼ばれた家庭教師は、その言葉には答えずに教本を紐で括っている。その口角は僅かに上がっていた。
その表情には見覚えがある。ジルベルトの侍女であるメリルに言いつける時の顔だ。
ジルベルトは、後で説教されることを覚悟してから「そういえば」と切り出す。
「今日は、あの騎士いねーの?」
「ああ。今日は休みらしい。二か月ぶりの休みだ。休みくらい自由にさせてくれ、だと」
「アイツもそんなこと言うんだな」
「結構お茶目だぞ、アイツは」
そんなことを言われても、ジルベルトの脳裏に過るのは、アイツこと、いつもフィルにくっついてやってくる騎士の冷たい紫色の目だ。
透き通るような金色の髪も、性別を感じさせない程に美しい顔も、全てが冷たい印象を与える騎士。
笑うことも、泣くことも、微笑む姿すら見たことがない。
いつも見ているのは、ジルベルトを憎々しげに睨みつけるその姿だ。
そんなに自分のことが嫌いなら会いに来なければいいのに、とジルベルトは思うが、何故かその騎士は毎回フィルにくっ付いてやってくる。
古い友人だとフィルは言っていたが、どうにもジルベルトはその騎士が好きになれなかった。
そのことを何となく感じ取っているらしいフィルは、立ち上がって苦笑する。もう帰るのだろう。ジルベルトも立ち上がる。
この国の次期国王であるジルベルトの自室は広い。扉に向かうまでにも、会話は続く。
「甘い物が好きだし」
「俺はあんまり好きじゃない」
「辛い物も好きだぞ」
「辛いのも得意じゃない」
「パンでも…」
「何でもいいのはよくわかったよ」
『処刑人』なんて物騒なあだ名が付いている騎士だ。もしかしたら味覚がないのかもしれない…なんてふざけたことを考えてしまう。
きっとおとぎ話に出てくる魔物のようにバリバリムシャムシャ食べるのだろう。ジルベルトはその様子を想像して震えた。
「今度話がしたいって誘ってみろよ。美味い物があれば喜んで食いついてくるさ」
「本当にお茶目なところを見れたらな」
「言ったな? ぜったいだぞ」
フィルはウインク一つ残して、純白の扉から出て行く。
扉を開けた執事は、フィルとジルベルトに一礼をし、そのまま佇んでいる。
そんな執事に指示することなく、ジルベルトは部屋に戻った。黙って閉じられた扉を見て、ふと、ついさっき見たフィルの瞳を思い出す。
網膜の周りに軽い炎症が出ていた。
あれは、色ガラスを目にはめている者の特徴だ。目の色を変える為にしているのだろう。
髪も、染粉を使って染めている。初めは気が付かなかったが、シャツの襟元が変色していたのだ。
そこまで気が付いたのはつい最近のこと。しかし、そこまで気が付いてようやくジルベルトはフィルの本名を知らないことに気が付いた。
否、本名どころではない。
どこで学び、どこで生まれ育ち、普段どんな生活をしているかもしらない。
さり気なく聞いてみればいいことなのかもしれないが、聞いたが最後、フィルは二度とジルベルトの前には現れてくれなくなるような気がして聞けずにいるのだ。
フィルが何故身分を隠しているのかはわからない。
ただ、ジルベルトの家庭教師を務めているだけあって、身元はしっかりしているだろう。貴族であるのには間違いない、と思う。
宮廷作法に疎いジルベルトでもわかる程に、彼の所作はとても綺麗だ。平民ということは考えにくい。
ならば貴族……ジルベルトに恩を売りたい家の者、と考えるのがわかりやすい。
しかし、フィルは名乗らない。つまり家名がわからない。
名を売りたいのに、名乗らないとはどういうことだろう。
「………わかんねぇ」
一人呟いて豪奢な天井を見上げる。
いつもここまで考えて、考えるのをやめてしまうのだ。
これ以上考えていると、嫌な想像までしてしまう。
名乗らないのは、名を知られたくないから。
知られたくないということは、よからぬことを企んでいるから――つまり、フィルは自分に何かしらの害を与えようとしているのでは、と。
一見被害妄想のように思える考えでも、現状、割と正鵠を得ているのだ。
宮廷内でジルベルトのことをよく思わない輩は多い。
何度も命を狙われたジルベルトからすれば、心の底から信用できる者など、この王宮にはいない。
間違いなく、今この宮廷で一番疎まれ恨まれ蔑まれているのはジルベルトに違いないのだから。
「お茶目、ね」
お茶目なだけで、あんな目を向けたりするものか。
脳内にちらつくのは、射抜くような鋭い紫色の瞳。
フィルに付いてくる騎士は、第一王子――つまりジルベルトの実兄にあたる人物の幼馴染であるという。
ただ、第一王子の親衛隊には所属していないし、第一王子に剣も捧げていないらしいので、対外的には主君と仰いでいることはしていないのだろう。
表向きには、騎士団の一騎士にすぎない。
しかし、彼らの仲の良さは、兄と一度しか会ったことがないジルベルトでも知っているくらい有名な話だ。
曰く、大事な式典前には、必ずあの騎士と二人きりになる、だとか。
曰く、王宮のどこかにある第一王子の隠し部屋を知っているのは、あの騎士だけ、だとか。
曰く、剣を捧げないのは、いずれ第一王子と駆け落ちするつもりだから……とか。
真偽はともかく、兄とあの騎士の仲を疑う者はいない。
ならば、大切な友人である第一王子の立場を奪ってしまったジルベルトを快く思わないのは道理だろう。
何せ、ジルベルトが現れたせいで、第一王子である兄は、一瞬であろうとも王位を継ぐことはなくなったのだから。
兄に味方する者からの憎しみなど、受けすぎてすっかり慣れてしまった。
その中でも、あの騎士から感じる異様な気配は、桁違いに存在感がある。
それほどジルベルトが憎いのだろう。
例えフィルが何と言おうと、あんな圧を受けながら食事などしたくはない。
「………?」
ふと、何かが焼けるいい匂いがした。
ジルベルトは窓からバルコニーに出ると、くんくんと鼻をならす。
どうやら近くでパンを焼いているようだ。
図ったように、腹の虫が鳴いた。
「この時間なら…黄橙棟か」
黄橙棟とは、この王宮内で唯一誰でも利用できる食堂がある場所だ。
宮廷内にある大抵の食堂は、使える身分が限られている。
例えば今ジルベルトがいる青紫棟にある食堂は、王族しか利用できない。そこでは決まった時間に決まったメニューの食事をするだけの場所だ。
小腹がすいた時に気軽く利用できるような場所ではない。
普通なら、使用人に言いつけて食事を持ってきてもらえばいい話なのだが、ジルベルトは様々な者が利用する黄橙棟の食堂の雰囲気が好きだった。一人で食事するようになった、今の身分になってからは余計に。
それに何より、黄橙棟の厨房は一番大きい。
まあ、複数の棟の食事を賄っているので当たり前なのだが、高級品ばかりを豪勢に使った料理より、一度に大量に作られた料理の方が美味く感じる。煮込み料理なんて、特に美味しい。
焼き立てのパンもさぞや美味いことだろう。
「どうせにここにいても怒られるだけだしなあ……」
ちらり、と閉じたままの白い扉を見つめる。
あと少ししたら、「ジルベルト様のお行儀が今日も悪くてね」と、フィルからチクられた侍女が飛び込んでくるのだ。
そして、王族とは何かとくどくど説教されるに違いない。
ならば、さっさと逃げ出すのも手である。
そうと決まれば、行動あるのみ。
ジルベルトは、壁と一体化している執事を横目に寝室へと戻った。
天涯付きの寝台の裏を漁る。そこに貼りつけてあった皮袋を取り出し、腰に縛り付けた。
そしてバルコニーへ向かい、柵に足をかけたところで、ハッとする。
「危ない、危ない」
胸元にぶら下がっていたペンダントをシャツの中にいれ、ほどいてあったタイを適当に結ぶ。
シャツの袖も捲って、髪形も崩す。
これで、ただの『ジルベルト』の完成だ。
ジルベルトは、ブーツのまま汚れ一つない真っ白な柵に足をかける。
全体重を思い切りのせても、頑丈な柵はびくともしない。流石、王宮。素晴らしい強度である。
頬を撫でる風は穏やかだ。しかし、ここは王宮の三階である。
柵の向こう側の地面は遠く、目が眩みそうになるだろう。しかし、ジルベルトは臆することなく柵の上に立った。
吹き荒ぶ風が頬に当たり、シャツがたなびいて裾が宙に舞う。普通の人間なら失神してもおかしくない高さだ。どう考えても落ちたら死ぬ。
もし護衛騎士がこの場面を見ていたら、泡を吹いてジルベルトを取り押さえにくるだろう。
しかし、ジルベルトの部屋には誰もいない。
「よっ」
そんな軽い声一つで、あっさりジルベルトは柵から身を乗り出した。
凄まじい速度でジルベルトは落ちていく。否、それは一瞬とも思える短さで、『落ちていく』というよりは、『落ちた』が正しい。
そのままでいれば、ジルベルトの身体は石畳に叩き付けられ、赤い染みを作るだけだ。
しかし、ジルベルトの身体が地面に着く瞬間、ふわりと浮いた。その場に他の者がいれば、ジルベルトを支えるように風が吹いたことに気が付けただろう。
そして、ジルベルトのシャツの中で桃色の光が灯っていたことに。
だがそこには誰もいない。いるのはジルベルトだけだ。
彼を支えていた穏やかな風は、ゆっくりジルベルトの身体を地面に下ろすと、何もなかったように静かになる。
「ふう」
ジルベルトにとって、こうして脱走するのは初めてのことではない。今では慣れたものだ。
油断は禁物、と周りを見渡せば、丁度見回りの騎士が曲がり角から出てくるところだった。
(やばっ)
二人組の騎士に怪しまれないよう、そそくさとその場を後にする。
王太子の居室がある青紫棟の警備は厳しい。同じ騎士でも、笑って酒を飲めば誤魔化される黄橙棟の連中とは違うのだ。
そそくさと逃げ出したジルベルトは、そのまま黄橙棟へと向かう。
この王宮は、十二の棟からなっており、黄橙棟はその中でも西門に近い方向にある。西門といえば、業者などが出入りする専門の門で、王宮内では尤も平民が多い場所だと言えるだろう。
黄橙棟の食堂は、そういった出入り業者も使える場所で、庶民からするとちょっとした贅沢気分に浸れるらしい。
西門に向かうにつれ、少なかった人気はどんどん増えていき、黄橙棟に着く頃には、周りには騎士やら使用人やら女官やらでごった返していた。
騎士たちは、どこかで水浴びでもしてきたのだろう、上半身裸のびしょ濡れで肩を組んで笑い合っている。
女使用人は、絨毯を干しに行くのか、何やら歓談しながら二人で一枚の大きな絨毯を持っていた。
出入り業者らしき男は、楽しげな顔で食堂を覗き込んでいるし、その弟子らしき少年は緊張しているのか男の後ろで棒立ちになっている。
様々な人が、様々な感情を浮かべてひしめき合う様子は、青紫棟では見られない。
ジルベルトは、微笑ましい気持ちで、周りの人達の様子を見ながら食堂に入った。
内装は、宮廷内と言われるとみすぼらしいが、街にある店よりは遥かに綺麗だろう。
中は騒がしく、昼過ぎだというのに忙しそうだ。
ジルベルトは空いている席を探して適当に腰掛ける。壁にかけられたメニューを見ながら何にしようか悩んでいる内に、給仕が来てしまった。
「いらっしゃい。何にするかお決まりですかね……っておや、ジル坊じゃないか。また来たのかい」
そう快活そうに笑うのは、ここの給仕をしているミランダだ。
まだ十五と言っていた筈なのだが、可憐な見た目にそぐわず、その中身はかなり豪胆である。
ジルベルトがここの食堂に初めて来たとき、一から十まで教えてくれたのも、金がないというジルベルトにツケで飯を食べさせてくれたのも、このミランダだった。
身分がばれることを恐れて、“ジル”としか名乗らなかったジルベルトにも嫌な顔せず接してくれるミランダは、ありがたい存在だ。
「あーうん、何かいい匂いしたから。今日のおすすめって何かある? 焼き立てのパンにあいそうな」
笑って言えば、ミランダは「参ったなあ」と頭をかいた。
「あんたもパンの匂いにつられてきたんだね」
「あんたもってことは他にも?」
「ああ、あそこにほら。見えるかい?」
ミランダが指差す先には、一人の女がいた。
質素なドレスに、控えめな化粧だったが、その美貌は群を抜いている。
――…そしてその食いっぷりも、群を抜いていた。
彼女が座っていたのは、大の男が四人ほど座れる円卓だ。一人には広すぎるだろうその上に、所せましと並ぶ皿と積み上げられたパン。そしてパン。またパン。
それが全て彼女一人の胃袋へと収まっていくのだ。
大量のパンと料理を、丁寧かつ優美かつ素早く食していく姿からは、教養と食い意地両方を感じさせる。何とも奇妙な光景だった。
あれだけ大量に食べていたら味わう余裕なんてないのでは、とも思ったが、存外彼女は楽しんでいるらしく、ミルクシチューらしき物を口に運んでは口元を緩めている。
「……なんか、見てると腹減るな」
「みんなそう言うよ。お蔭さまで大繁盛。休む暇なんてありゃしない。昼すぎたってぇのにまだ昼飯にもありつけてないんだ」
「うーん、よかったなって言えばいいのか、労わればいいのか」
「どちらでもいいさ。昼飯にありつけるならね」
そんな会話をしつつも、二人の視線は彼女から外れない。
他の客も同じなのか、メニューの書いてある札よりも彼女を見ている視線の方が多い気がする。
当の本人はまったくそんなことを気にしていないのだろう。
焼き立てのパンをちぎって口にいれ、美味しそうに味わっている。
言葉など一切発していない筈なのに、彼女の全身から「これ美味しい!」というのが伝わってくるのだ。
ジルベルトは垂れてきた涎を拭って、ミランダにミルクシチューとパンを注文した。
それがわかっていたのか、ミランダは「はいよ」といって厨房へと戻っていく。周りのテーブルを見れば、テーブルの上にはミルクシチューとパンばかりだ。彼女の食欲テロに晒されたのだろう。
ジルベルトは、食事が来るまでの時間彼女を観察して過ごした。
食いっぷりばかりに目がいっていたが、彼女の顔は大層整っていて…整いすぎて逆に特徴がないように思う。金色の髪を綺麗に結い上げ、紫色の瞳は、どんな花弁の色よりも透き通っていて綺麗だ。
白い頬は仄かに染まっており、それが恋によるものなら、ぐらつかない男などいないだろう。
まあ、彼女が頬を染めているのは、ミルクシチューが熱いからだろうし、美しい瞳が映すのは目の前の食事のみだ。
薄桃色の唇には次々の食べ物が放り込まれ、消えていく。
無表情ではあるものの、咀嚼する度にキラキラと光る瞳が、彼女が如何にこの食事を楽しんでいるかを語っていた。
(まるで掃除機だな)
やがて、周りと同じように彼女を見ていたジルベルトの視線を遮るようにミランダがやってくる。
その手には、ほかほかと湯気がたつ皿と、白い包みがあり、ようやくそこでジルベルトは彼女から視線を外した。
「はい、お待たせ! ミルクシチューとパンね!」
威勢の割に丁寧な所作で置かれた木の器には、なみなみと白いシチューが注がれている。
ここのシチューの具は一つ一つが大きい。
下味のきいた鶏肉に、大きく切られた野菜は、それだけで御馳走感がある。
一拍遅れて、じっくり煮込まれた野菜や肉の香りが、バターの香りと混ざって食欲を刺激した。
木のスプーンを持って、白く、とろりとしたシチューを掬う。
同時に、ふわり、と、湯気がたち、バターの香りが強くなった。
熱々のそれをふうふうと冷まして、ぱくりと一口。
「……はぁ」
じんわりと口を通って胃へ温もりが広がっていく。
口の中に、とろりと溶けた玉ねぎが残ったが、それも一瞬で甘味となって消えた。
これほど安心できる感触はない。口の中に広がる塩気と仄かな甘み。この乳臭さが苦手という人もいるが、ジルベルトは好きだった。
大きい芋をスプーンで割ることなく口に含む。
「ヅッ!!」
口の中で割った瞬間、余りの熱さに悶絶しかけた。
慌ててふうふうと息を吐きながら咀嚼する。
ほくほくな芋の甘味と、シチューの塩味、そこにミルクのまろやかさが合わさって、口の中がいっぱいになる。
(んまい、んまい)
きっと彼女も同じなのだろう。
先ほどの女を見れば、またミルクシチューを頼んでいた。注文を受けたミランダが「マジかよコイツ」という顔をしている。
テーブルの上にあった料理は既になくなっており、彼女の細い身体に吸引されたとみて間違いではないだろう。消えた料理の量に反して、ドレスに包まれた腹は少しも膨らんでいない。
(本気でどうなってるんだ、その身体)
もしかしたら新しいコルセットとかなのかもしれない。はたまた変身薬でも使っているのか。見た目にかける女性の熱意は凄まじい。ジルベルトは誰に同意を求めるでもなく、うんうんと頷いて白い包みを掴む。
ガサガサと音をたてながら包みを開けば、そこにはこげ茶色のパンが二つ、包まれていた。
パンを手に取った時に温かいと妙に感動してしまうのは自分だけだろうかと考えながら、優しくパンをちぎる。パリパリの皮の中は白くふわふわだ。
なるべく潰さないようにちぎった箇所から湯気がたつ。そのまま香ばしい湯気ごと口に含んだ。
香ばしい香りは消えることなく、寧ろ噛めば噛むほど麦の甘味と一緒に増していく。
「あ」
あまりの美味しさにうっかり一個食べきってしまった。
これではパンとシチューの対比が崩れてしまう。
(まあ、おかわりすればいっか)
残った一つを手にとり、シチューに向き直った。
食べやすい温度になったシチューにちぎったパンを浸す。
シチューが垂れるよりも早く口に放り込めば、少しだけふにゃりとふやけたパンとシチューが口の中で混ざり合った。
パンというのは温かいだけで美味しく感じる。焼き立てとなれば尚の事。
そこにシチュー。もう、言うことはない。
いつも食べているのは、毒見の済んだパンと、厨房から運んでくる間に覚めてしまった料理だけ。
焼き立て作り立てを食べられるのは、ここに来たときくらいのものだ。
どんなに素朴なものでも、温かい食事というのは、それだけで美味しい。
そのままパンとシチューを堪能していたジルベルトだったが、ふと気になるものが見えて手を止めた。
そこには、先程から一人大食い大会中だった彼女と、その彼女に話しかける者の姿があった。
騎士の制服と帯刀しているところから、騎士なのだろう。二人で勝手に彼女の対面に座り、にこやかに話しかけている。
「ねえ君、かわいいね。一人なの?」
「何だったら俺たちと赤橙棟の食堂に行かないか? あっちの方がこんなところより美味いもんいっぱいあるよ」
(な、な、な……ナンパだー!!!!!)
絵に描いたようなナンパだ。きっとナンパの教科書があれば、よくある悪い例として出ていたに違いない。
可愛そうに。
まだ食事の来ていない客やただ彼女に見惚れていた客から彼女に注がれていた視線が同情の色に染まる。
仮にも男たちは騎士だ。この宮廷の戦力ともいえる。力の権化に対して、女性に逆らう術はない。
苛烈に断ることもできなければ、如何にも頭の悪そうな連中の顔から察するに、遠回しなお断りも通じないだろう。
案の定、彼女は柄の悪い騎士たちに怯えてあんなに進みの良かった食事を中断してしまって――いない。
テーブルの上の料理は減り続けている。行先は彼女の体の中だ。
いや、恐ろしいのを必死に我慢しているのだろう。流石にスプーンを持つ手が震えて――いない。
白く細い腕は、震える様子を一切みせず無駄に洗練された隙なく無駄のない動きで料理を口に運び続けている。
幾多もの視線の中、彼女は依然目の前の騎士たちなど見えていないかのように食事を続けていた。
そのスピードはまったく変わっておらず、美味しそうに食べるのも変わっていない。恐るべき精神力だ。
(なんだ、あの女……。変なのは食べっぷりだけじゃないのかよ)
それを不快に思ったのは、何よりも目の前の男たちだ。
「無視はダメだよ、お嬢さん」
「そんなに怖がらなくてもいいのに。別に何もしないよ」
食事を続ける彼女も彼女だが、まだ声をかけられる男たちも男たちだ。
ここには精神力お化けしかいないのだろうか…とも思ったが、事の成り行きを見守る客たちは一様におろおろしている。どうやら精神力お化けはこの三人だけらしい。
「もしかしたら恥ずかしがっているのかもなあ。俺たちこう見えても王室付きだし?」
「確かに。わかる? 王族の方々を護衛する栄誉を与えられているんだよ、俺たちは」
王室付きとは、その言葉通り、王族の居室護衛を示す言葉だ。
ひょっとして、と思い見てみるが、ナンパ騎士の二人は見たことのない顔ぶれである。
どうやらジルベルトの護衛騎士ではないようだ。
だとすれば、他の王族…母親である女王か、兄の第一王子付だろう。関係がないとわかって、意味もなくホッとしてしまった。
しかし、次の瞬間には、ジルベルトの心臓は跳ねあがることになる。