ほんの少しの
「僕なら」
顔を少しうつむかせ、彼は言う。
「外で空を飛ぶことを全面的に禁じます」
そうしてちらりと目線だけでわたしの表情を窺ってきた。らしくない仕草に思わず口角が上がりそうになるのを必死に堪え、わたしは教師としての威厳を保つべく「なるほどね」と冷静に口にした。
普段は傲岸不遜を地でいく彼ではあるが、今回ばかりは珍しく鳴りを潜めていた。普段ならわたしに問題の解説を求めることなんてしないだろうに。テーブルを挟んで向かい側に座る彼は、どことなく落ち着かない様子で視線をあっちこっちにやっている。
「来年一月一日から、人類が鳥のように空を飛べる魔法が使えるようになると仮定します。現在の法律および社会通念は人が空を自由に飛ぶことを前提としていないため、さまざまな混乱が生じると考えられます。どのような問題が起こるかを予測しその解決策とあわせ四百字程度で述べてください……か」
彼の目の前に置かれたプリントを手に取り、一つ設問を読み上げた。最初に彼から問題を聞いた時ほどの衝撃はない。
「外では飛行禁止、だっけ」
「です。こういう先生の部屋とか、室内……私有地みたいなところでは大丈夫ということにします。狭いですけど」
「まぁ確かに一般的な部屋の大きさでは飛行には適さないだろうね」
「いえ先生の部屋が、ですが」
「ほっときなさいよ」
「いい年した女性が七畳一間ワンルームって。お金ないんですか?」
「ほっとけ!」
嘆息する。既に彼はいつもの調子を戻していた。可愛げのない生徒だなとわざとらしくこぼしてみると、先生の可愛さで釣り合ってますよと口説かれた。まともに相手するにも馬鹿らしくなって、わたしは天井を仰ぎ見た。
彼は昔の教え子である。教え子といっても高校生の時に二年ほど家庭教師を務めていたにすぎないので、人格の形成に関わったとか人生の指針になったとかそういった関係ではない。なんだったら今からでも舐めた性根を叩き直してやりたいところだ。彼が高校を卒業すると同時に家庭教師の役目を終えたのだが、彼は浪人を始めると同時に勉強という名目でわたしの家に入り浸るようになった。職場に徒歩一分の近さを選んだわたしの怠慢さが恨めしい。
しかし頼られた手前、いつまでも仄暗い感情を燻らせている訳にもいかない。
「で、それは解決策だけど、どんな問題が起こると考えたの?」
ひとまずは彼の考えを訊くことにした。しかし彼は途端、「それなんですけど」と勢いを失ってしまう。
「なんでも起こる、という結論に達しちゃって。だったらもう禁止するしかないな、と」
「なんでも起こる、ねぇ」
歯切れの悪い意見だった。けれどそれも仕方ないか、とも思う。そもそもの問題である『空を飛べたら』という設定が難しい。論理的思考というより、空想力や妄想力が物を言う問題になっている。勉強一辺倒であればあるほど点数を得るのは難しいだろう。
「具体的には? 大変だとは思うけど、話しやすそうなのを一つ挙げてみて」
「そうですね、なら一番数が多くなりそうな、衝突事故、とか。人と人ともそうですけど、人と建物だったり、人とドローンだったりとかもあり得ます。こういった場合の保証の問題、ですかね。まぁでも、この程度の問題なら道交法から引っ張ってくればある程度はカバーできるのでまだ大丈夫だと思うんですけど……」
彼は言いながら再び表情を曇らせた。
「ネックになってくるのはインフラの整備、でしょうか。飛行行為を移動行為として捉えた場合、空中にも地上部の道路のように設備を整える必要が出てきますよね。空をどれくらいの速度で飛べるのかにもよりますが」
「なるほどね。それは大変そうだ」
「そうなんですよ。標識とか中央線とかを空中に浮かせるっていうのはあまり現実的でもないですし。仮にそういった技術が発達して可能になったとしても、今度は金銭面での問題が出てきます。日本全国の道路をもう一度作り直すようなものですからね。だから……」
滔々と続ける彼。熱を帯びた彼は、とうに話題が別のものに変わっていることに気づいていなさそうだ。嗜虐心のままに喋らせ続けてもよかったのだけれど、辛うじて残った良心がそれを妨げた。一つため息をついて、「でもそれは」無理矢理に話を中断させた。
「可能性の話でしょう? 今聞かれてるのはあくまで問題点とその解決策だけ」
できるできないは考慮しなくていいんだよ、と言葉を継ぐ。すると彼は見当違いのことを話していたのが恥ずかしかったのか、少し頬を赤らめた。可愛らしくも、確かに前提条件からして有り得ませんからね、空を飛べるなんてこと自体現実的じゃないですもんね、なんて誤魔化しまでしている。
「まぁでも衝突事故、っていう着目はいいと思うよ。道路交通法と絡めていく作戦もスマートでわかりやすいね。今回は四百字だし、これだけで十分なんじゃないかな。外で飛行を禁止する、っていうのは少し大雑把すぎるし、問題作った人としても期待してる答えじゃないと思うし」
続くわたしの解説に、彼はなるほどなるほどと頷きを返す。しばらく手に持ったシャープペンシルを回したのち、ルーズリーフになにやら文字を書き込んでいく。どうやら方針を得た彼には既にゴールが見えているらしく、ペン先は一切の休みを取らずに働き続けた。
そんな彼の様子を見ながら、それにしても、と思う。
「それにしても、もしも空を飛べる魔法が使えるならってかなりぶっ飛んだ問題ですよね」
「そ、うだね」
まるでわたしのモノローグを読んだかのような物言いに思わず面食らう。動揺を悟られないために努めて平静を「あれ、今先生の心を読んだつもりだったんですけど」「……正解だよ」わざとらしく肩を落としてみせた。
先生は単純でわかりやすいですからねと何やら嫌らしい粘着質な笑みを浮かべ、ご満悦そうだ。このままにしておくのも癪なので、顎でやって続きを話させた。
「はいはいわかってます……なんでも起こる、とは最初に言いましたけど、本当になんでも起こると思うんです。まともに答えを考えてたら、さっきの僕みたいに方向性を間違えることだってあるでしょう」
それは確かにそうだ、とわたしも思う。
「衝突とか傷害に始まり、プライバシーは侵害されるわ不法入国は増えるわ交通機関は乱れるわ空を飛ぶ人が多ければ日照権も関わってくるわでてんやわんやですよ。あとはスカイダイビングとかバンジージャンプの価値がなくなったりとか。あ、あとスポーツも」
「スポーツ」なるほど、盲点だった。
「バレーボールとかバスケットボールはもう別のスポーツになっちゃいますね。それもそれで面白そうですけど」
一考。空中で無駄のないパスをつなぎ、そのまま位置エネルギーを利用したアタックを叩き込むバレー。空を飛べば歩いたことにならないためドリブルは姿を消し、三次元的なパスを繋いでからのダンクシュートで確実な得点をあげるバスケ。全くの別物だった。
そういえばハリウッドの魔法学校が舞台の映画で似たようなスポーツがあったはずだ。
「だからまぁ、いっそ外での飛行を禁止したほうがいいかなって。そういった山のように考え得る問題一つ一つに対策なんて、考えてられませんから」
思考の放棄とも取れるような答えだけれど、実際非常に効果的な案だとは思う。ただ正解不正解の存在する今回のような場合ではふさわしくない、というだけである。
「けど、飛行自体禁止じゃなくて室内限定で許可する理由は? 部屋の中で飛んでも、危険なことに変わりないでしょう?」
「狭いですもんね」
「一般的に定義される部屋というものがね」
「先生の、ですけど」
「君はわたしの部屋をいじらずにはいられないのかな」
「汚いですしね」
「汚くない!」
ちょっとばかり本やら洗濯物やらが散乱しているだけで、別に汚くはないのと勢い良く駁する。いや今はそういう話ではない。
「理由を訊いてるんだよ、わたしは」
乱れた呼吸を整えながら言うと、
「理由、ですか。いやまぁ特にないですけど」
彼は本当に何も考えてなさそうな声色で応じた。だって勿体無くないですか、とも続ける。
「空を飛べるんですよ、空を。魔法を使えるんですよ。科学じゃ絶対に説明できっこない、タネも仕掛けもない魔法です。今回は空を飛べる魔法、って限定されてますけど、絶対他の魔法も使えるでしょうし。火とか水とか風とか操れちゃいますって、絶対」
眉毛をハの字にして、露骨に呆れを示してくる。なんなのだこいつはさっきから。特に後半に至っては変なテンションに釣れられて何を言っているのかてんでわからない。
「魔法なんて使えても、いいことなんてあんまりないでしょう」
「もう本当に先生って人は……」
表情を曇らせた後、あ、じゃあと言って手を叩く。すでにその顔に陰りはなく、いつもの爽やかな笑顔に戻っていた。嫌な予感が頭をもたげる。
「想像してみてくださいよ」
「何を」
「空の飛べる、いや魔法のある生活を」
やけに苛烈な眩しさで目が醒めた。
カーテンの隙間から差し込む朝日にしては随分と悪意が強かった。重たい瞼を持ち上げながら窓を見やると、カーテンが自ら仕事を放棄していた。お前のせいで、と憤りを白色の布切れにぶつける。
布団から這い出て、軽くシャワーを浴びた。着るものも着ずに髪をドライヤーで乾かしながら、朝食を作る。いつものルーチンワーク。
すすすと人差し指の指先を軽く動かす。
そうしてフライパンが宙を舞う。玉子が割れる。ベーコンが滑り込む。水が入り蓋が落とされ蒸し焼きにされている間に、トースターでは食パンがトーストされ、コンビニで買ったサラダが皿に盛り付けられる。以前にバイトしていたカフェのモーニングメニューで、工程は頭に染み込んでいた。初めはいくつかのタスクを平行処理するのに四苦八苦していたけれど、今では別のことをしながらでもできる。
五分少々で髪を乾かし終わるのと同時、ベーコンエッグセット一式を載せたお皿が宙を舞ってテーブルへと着陸、無事朝食が完成した。タンスから適当な部屋着を手元に呼び寄せてささっと身につけ、リビングに腰を降ろす。指を鳴らすと、テレビがニュース番組を流し始めた。
いちごジャムを塗りたくったトーストを齧る。いい塩梅に焼けている。うんうんと出来に満足しながら目玉焼きに箸を伸ばすと、玄関のインターホンが暢気に来客を知らせた。
こんな朝早くから非常識な客がいたものだ、と時計をちらりと確認すると、針は無情にも十一時を示していた。……今日はどうにも遅起きだったようだ。気づけば確かにニュースの司会にもあまり見覚えがない。ついでに、日差しが強かったのはカーテンの所為だけではなかったことも証明されてしまった。ごめんね、と内心で謝った。
リビングで座ったまま玄関の方を振り返り、親指、人差し指、中指で見えない何かを摘まむ。そのまま手首を返す。かちり、と非力な音がして扉の施錠が解除される。ただいま、と家の者ではない誰かが侵入してくる。
「お家を間違えていますよ」
「いえ、あってますよ」
彼はさっぱりと言う。
「家だけに」
いやいやいや、と監督は不満そうにわたしのノートパソコンを突き返してきた。
「何ですか、何ですかこれ。朝飯作っただけじゃないですか」
「だってわたし他にすることないし」
「いやもし魔法が使えたら、っていう設定なんですから、普段と同じことする必要はないんですよ。したいこととか、やってみたいこととか、そういうの」
どうも拙作は彼のお気に召さなかったらしい。ほんの少しだけ落ち込みながらノートパソコンを引き寄せる。駄目出しを食らったテキストファイルを閉じて、そのままゴミ箱へドラッグ。わたしの部屋もこういう風に片付けばいいのに。
「というか、何でフライパンとかトースターとか使ってるんですか。そのまま火を起こして焼けばいいじゃないですか」
「だって危ないでしょう?」
「もう、先生はそういうどうでもいいところで現実的なんだから……」
ぐっ、と言いかけた台詞を嚥下したら変な声が出た。何を言ったとしても今の彼をヒートアップさせるだけなのは目に見えていた。
しばらくわたしが黙って「あと最後のダジャレは何ですか」「僕こんなことつまらないことしませんよ」「それと僕の登場シーンで終わらせないでくださいよ」「ここからが本番みたいなものじゃないですか」彼の不満を聞き流していると、彼は不意に「なら先生はどう考えてるんですか」と話題を転換させてきた。突然の質問で意図を掴み損ねたわたしは、情けなく答えに詰まる。
「どうっていうのは」彼は言う。「つまり解決策ですよ。飛行に限らず、魔法が使えるとしたら、の。難易度は上がるでしょうけど、そこまで否定的な態度を見せる先生ならきっと完璧で納得のいく解決策を示してくれますよね」
そうして意地の悪い笑顔を浮かべる。どうせ内心してやったりとでも思っているのだろう。わたしには即答できるはずもあるまい、とか。なら、と思う。なら、これで。
「わたしなら魔法を全面禁止にするね」
「えっ、あ、全面禁止、ですか」
わたしの解答に、予想通りに面食らう彼。好機とばかりに畳み掛ける。
「もちろん、思考停止の考え無しじゃあないよ。君がいった『何でも起こる』は確かに真理の一つだ。いいところをついている。けれどね、それは不十分でもあるんだ。魔法というのは正確には『何でも起こる』ではなく『何でも起こせる』ものだからね。魔法が使えるなら、という漠然とした問題設定である以上、考えられる事案が多すぎてわたしにはこうとしか答えられないんだよ。時間旅行とか考え始めたらもうおしまいだ。君は意地悪のつもりで言ったのかもしれないけれど、これしか解答は存在しないんじゃないかな。最大公倍数を訊ねているのと同義だよ、これは」
以上、と口にして解答を終えた。完璧な論述だった。けれど目の前でおとなしくしている生徒はあまり納得していない様で、でもでも、と眉根を寄せた。
「禁止って簡単に言いますけど、そんな簡単なことじゃないですよ。絶対こっそり使うやつとか現れますって」
最初の自分の意見を棚にあげて言う彼。気づいているのだろうか、指摘してやってもいいのだけれど、ここは一つ堪え「確かにそうだ」と大仰に頷いて見せた。「人間はやるなって言われたことをやりたくなってしまう生き物だからね」
だから、と一度言葉を引き取る。彼の意識がわたしの口元に集中するのがわかった。十分に間をとってから、わたしは口を開く。
「禁止されているということにすら気付かせない。できる、という可能性の段階から芽を摘む」
「……えっと、可能性の段階から?」
彼の顔が訝しげに歪む。疑問も最もだが、一旦は無視をする。
「人が生まれた時、お母さんに顔を見せるよりへその緒を切るよりもまず最初にこう聞かせる。『あなたは魔法が使えません』ってね。いわゆる刷り込みってやつだよ、インプリンティングともいうけど」
人差し指で頭をこつこつと叩く。彼は未だ顔をしかめたまま、対抗するように人差し指を立てた。
「刷り込みは人間じゃ起こりませんよ。ヒナが親鳥のあとをついて歩くとか、そういう一部の動物でだけです」
「それはまぁそうなんだけれども」わたしは手を伸ばして彼の人差し指を優しく折りたたんだ。「君は一つ、忘れていることがある」
「忘れていること?」
「わたしたちは今、魔法が使えるんだよ」
わたしの言葉に、彼ははっとしたような表情を浮かべた。こういう時の察しの良さは非常に助かる。彼はニヤリと口角を上げ、さも楽しそうに言った。
「魔力を込めた言葉で、ですね」
「正解」
彼はいやぁと笑みを浮かべたまま頭を掻く。
「先生も人が悪いですね。そんなだから前の仕事クビにされるんですよ」
「それは今関係ないでしょう……」
店長のふてぶてしい顔と腹が脳裏に浮かぶ。嫌なことを思い出させられ、今度はわたしの顔が歪んだ。行き場のない憤りを胸に「話を続けるよ」わたしは手を伸ばして近くにあったリモコンを手に取り、彼の後ろ側にあるテレビの電源を入れた。彼は不思議そうな顔をして後ろを振り返り、画面を見た。
「正直、臨界期一回の刷り込みじゃ心許ない。だから日々の生活にも本人に悟られない形で暗示を仕掛け続ける必要がある。テレビ番組の何千何万分の一のカットにだとか、青信号の奥の奥にだとか、スマートフォンのホーム画面にだとか。『あなたは魔法が使えません』と言い続けるんだ。ついでに『あなたはこのメッセージを認識できません』とも」
「サブリミナル効果……ですか? それも眉唾物みたいなものじゃありませんでしたっけ。ポップコーンのやつとか」
「君は本当に勉強熱心だなぁ」
彼はきっとニュージャージーの実験の話をしているのだろう。被験者にポップコーンを勧める文言を何度も混ぜ込んだ映像を見せた結果、実験終了後にポップコーンを購入する人が増えたという実験。
「嘘だったって証言したんですよね、確か」
「そうそう。それ以降行われた似たような実験でも、あまり成果はあげられなかった」
わたしがそこまで言うと、彼はあっと声をあげた。鋭い。
「魔法、ですね?」
「正解。ただのメッセージじゃない。魔力を込めた、無意識領域に直接届いて精神に作用する電気的刺激だ」
「……自分が言い出した話ですけど、本当に魔法って言えば何でもありな気がしてきますね」
通りで元の問題には制限がかかっている訳だ、と彼は納得したように独りでに頷く。
「そうやって何度も何回も狂気的なまでに暗示、催眠、洗脳をかけ続ける。そうすればほら、魔法の使えない人間の完成だ。魔法なんて空想の世界の話だと笑い飛ばせて、自分が魔法が使えるなんて思いもよらない、挑戦すらすることを忘れた人間の、ね」
「……なるほど」
神妙な面持ちで顎に手をやる。納得したのかしていないのか、表情からは読み取れない。
「何か質問はあるかな?」
「んー、いや特に先生の話にはないんですけど」
「じゃあどこに」
「魔法って、何なのでしょうね」
彼は半分上の空のように呟いた。疑問というよりむしろ、今日は天気がいいですね、みたいな雑談を振るかのような口調だった。
魔法とは何か。雑談にしては難しい話題だ。
「先生は何でもできる万能の技術みたいなように仮定してましたけど」
「そうね」
「何というか実感が湧かなくて。魔法が使える自分、っていうのを想像してみても、あんまりうまくいかないんですよ。さっきあれほど先生にロマンロマン言っといて何だよって話なんですけどね」
彼は大きく息を吐きながら体を倒した。彼の話もわからないわけではない。
「まぁ現実からかけ離れた問題を想像するっていうのは難しい話ではあるんだ。人間が想像できることは必ず実現できるみたいな言葉があるけれどね、そもそもそういう風に想像できる人が一握りなんだ。リニアモーターカーとかスマートフォンとか、少なくともわたしにはゼロから考え始めて実現できる気はしないよ」
「それは」上体を起こし何か反駁しようとして、しかし言い淀む。「そうですけど……」
「それで悩む必要も全くない、皆無だね。君がこの先発明と開発で食べていきたいのなら話は変わってくるけど」
今度はわたしが意地悪く微笑んでやる。するとようやく彼も振り切れたようで、それはないですよと言い返してきた。
ちなみに。
「魔法とは何か、はわたしにもよくわからない」
「実現できないから、想像できないっていうことですか」
「まぁそんなとこだね」
「随分と曖昧ですね」
「いいでしょ。わたしだって何でも知ってる訳じゃないの」
先生にもわからないことがあるんですね、と目を細める。わたしがいつ全知を謳ったか記憶にはないが、上に立つものとして少しは認められているということだろう、とポジティブに捉えた。
「にしても、よくこんなこと思いつきますね」
こんな、とは一連の話のことだろうか。そうだろうと決めつけ「だってほら、今の仕事が仕事だし」と手元のノートパソコンを叩く。
「あぁ、そういえばクビになってから本腰入れ始めたって言ってましたね」
「いちいちクビって言うな」
わたしの今の仕事は文筆業、いわゆる小説家である。以前は飲食店で働きながらの二足のわらじだったのだが、辞めてからはこちら一本に絞った。
「なんだかんだ想像することを仕事にしてるじゃないですか先生……っと、失礼しますね」
ワンルームに陽気な音楽が響いた。音の出所は彼のスマートフォンだ。もしもし、と耳に当てながら、彼は席を立つ。はい、はいと相槌を打ちながら玄関から外へ出て行った。
「想像することを仕事に……か」
確かに、いつの間にかわたしも一握りの方に属してしまっていた。なんてことだ、わたしも天才と自称していいのかもしれない。自然、笑みがこぼれる。
「……先生、今笑ってました?」
突然、ドアが開け放たれ、彼が外から顔を覗かせた。咄嗟にわたしは姿勢を正す。
「いや、見間違いじゃないかな」
「そうですか。先生もいよいよ末期かと思いましたよ。あ、あと」
ちょっと連絡があったんで、今日はこれで帰りますね、と彼は言った。わたしが頷き手を振ると、満足したような表情を浮かべてドアを閉めた。来るときも急だけれど、帰るときも急なのが彼である。まるで嵐のような奴なのだけれど、しかしまぁ、嫌な気はしない。彼が大学に受かるくらいまでの期間なら面倒を見てやってもいいかなという気分にもなる。
にしても、魔法が使えたらだなんておかしな問題を考える人もいたものだ。内心で苦笑しながら、鍵を閉めるためにわたしは立ち上がることはしかしせず、その場で空をつまんだ。そうしてゆっくり、手首を返す。
かちり、と玄関の鍵が降りた。
全く、と静かになったワンルームで呟く。
結局いいことなんて、このくらいしかないというのに。