あーちゃんち
翌朝、美香ちゃんに、「帰り、遅くならないようにね」と言われ、手土産にお店で出してるケーキを持たされた。ケーキボックスを揺らさないように歩き、約束した時間少し前に大通りに着くと、すでに先生が車を止めて外で立って待っていた。
離れたところから大きめの声で「おはようございまーす」と、片手を振って挨拶する。
気付いた先生は周りを気にしてるようで片手をわずかに上げて応えてくれたけど、私に声が届く距離まで近づいてから「おはよう」と言った。
「すみません、待たせちゃいましたか?」
軽く首を横に振った先生は、「全然。翔太は家で待ってるよ、行こっか」と言って、助手席のドアを開けてくれた。乗り込む直前に、先生が「荷物持つよ」とケーキの箱を下から支えて一旦預かり、私が乗り込んでから膝の上にゆっくり置いてくれた。
その気遣いと自然な動作に、今まで思い至らなかったことに気づいてしまった。
・・・もしかして先生、彼女いる?強引に決めちゃったけど、今日おじゃましちゃいけなかったかも・・・
遠まわしな探りを入れるなんて話術、自分には無理。走り出した車の中で、「先生、もしかして彼女います?」とストレートに聞いてみた。
先生は前を見て運転しながらそっけなく、「いないよ。いたら料理、頼ってるって」と肩をすくめてみせた。
それもそうか。自分が火種になる心配がないとわかってホッとした。それどころか、心のどこかでちょっと喜んでる。
先生の家は大学病院に程近いマンションで、建物の1階部分が駐車場になっていた。そこに入るのかと思いきや、先生はロータリーに車を回して正面入り口前に停車した。素早く車を降りた先生が回りこんで助手席のドアを開け、手を出してきた。
乗ったときと同じくケーキの箱を渡して降りようとしたら、もう片方の手も差し出された。
・・・え?この手は何?他に乗せるものといったら・・・
おずおずと自分の手を近づけると、すくい上げられるように手を引かれて一瞬ですんなり降り立っていた。
こんな大人の女性みたいな扱い、初めてのことでドギマギする。先生は車を駐車場に停めてくると言ってまた運転席に乗り込んだ。
先生の手が離れたのを惜しく感じていたところに、降り立つのを見て待っていたかのタイミングで翔太がロビーから出てきて「おはようございます」とはにかんで挨拶をしてくれた。
「おはよう、翔太くん。朝早くからおじゃまするね」
歓迎してくれてるのはわかるんだけど、ちょっと恥ずかしそうに立っている。昨日会ったばかりだからお互いどう接したらいいのか距離感がつかめない。
無理ないよね。私も小学生男子との会話のとっかかりがすぐには出てこない。ニコッと微笑むとニコッと返してくれるから、とりあえずこの場の空気は上々かな。
駐車場に車を止め直して戻ってきた先生に、翔太が駆け寄ってしがみついた。そんな翔太の頭をクシャッとかき回して先生が、「家で待ってて、って言ったろ」と言った。
「だって待てなかったんだもん。」
「しょうがないなぁ。昨日の翔太ったら『小川さんが来る、明日来るー』って、はしゃいで楽しみにしてたんだ。今朝も、早く早くって急かされてさぁ・・・」
楽しそうに話しだす先生に、翔太が手を振り上げてストップをかけた。
「もぅ!あーちゃんのおしゃべりっ」
翔太はむぅっと頬を膨らませて先生に抗議してから、私の顔色を窺うように見上げた。
「私もとっても楽しみにしてたよ~!」
私は翔太を安心させたくて拳を振るジェスチャーも交えて見せると、翔太の表情がまるで開花していくように笑顔に変わった。
先生が溺愛するのもわかる。この笑顔、守ってあげたいって思っちゃう。
あ~、すっごく嬉しくなってきた。翔太くんともっと仲良くなりたい。
調子に乗った私は翔太の視線を受け止めたまま、「私のこと、小川さんじゃなくて美緒って呼んでほしいな~」とお願い調で言ってみる。お願いされた翔太は口の形で、みおと作ってから声に出し始めた。
「・・・みお?・・・みお。みお、みお!」
翔太は名前を口にするごとに迷いなく元気に呼んだ。
横で聞いていた先生が慌てて、「こら。呼び捨てはダメだろ、年上の人に対して」と注意したことで、せっかく開いた笑顔が見る見るしぼんでいく。
・・・先生!なんてこと言うのっ。
「いいんですっ!友達だから。私が翔太くんに美緒って呼ばれたいんです。ねっ、翔太くん」
先生が「友達だって。良かったな」とまた翔太の頭を撫でたことで、翔太が「うんっ」と力強く頷いて今度こそ満開の笑顔が咲いた。
!! ここはもうひとつお願いしてみよう。先生の顔を見てニコッとする。
「先生にも、名前で呼んでほしいです」
「え・・・あー、ちょっと無理、かな。ほら、学校で呼び間違うと大変でしょ?公私の区別も大事だし・・・」
「じゃあ、翔太くんの真似して先生のこと、あーちゃんって呼んでいいですか?」
「ぼ、僕?・・・あー、学校では呼ばないでくれるなら・・・」
先生は困った顔で後頭部を掻きながら、不承不承といった感じで許可してくれた。
・・・ちょっと迷惑だったかな。恐る恐る先生の顔を覗き込んで小さな声で呼んでみる。
「あーちゃん」
途端に先生がぎゅっと目を閉じて顔を背け、手の平でガードして、「見ないで、見ないでっ」と繰り返した。その耳が赤い。さっきまでの翔太を挟んで余裕のあった会話と打って変わって、オタオタして早口でまくし立てる。
「ごめんっ、こういうの慣れてないんだ僕。名前で呼ばれるなんて母さんにだけだったし、女の子を名前で呼んだこともなくて。今日うちに呼んだのも初めてで。ほんっと、ごめんっ」
「先生が謝ることないじゃないですか。今日ここに来たのだって私が強引に頼んだことだし、名前で呼びたいって無茶なお願いしたのも私ですよ?もし謝るなら、私のほうじゃないですか?」
一旦言葉を切って「迷惑かけてごめんな・・」さい、まで言い終わる前に先生が被せてしゃべってきた。
「違うっ、そうじゃなくてっ!・・・あぁ~っ、その・・・嬉しかったんだ。翔太を友達って言ってくれたことも、僕にも名前で・・・って言ってくれたことも。でも・・・恥ずかしくて・・・気を悪くさせちゃったんなら謝るっ」
「謝んなくていいですってば。で、あーちゃんって呼んでいいですか?」
「んっ・・・うん」
視線を合わせてはくれなかったけど、横から見た先生の顔は赤面していた。
気を悪くさせたんじゃなくて良かった。でも、私までなんだか照れてきちゃう。
じゃあなんで車の時の扱いに慣れてるのか尋ねると、「母さんが女性には優しくしなさいって言う人で、出入り乗り降りと食事のエスコートだけは母さんに仕込まれたんだ」と教えてくれた。
なるほど。女性慣れして見えたのは、お母さんの教えがあってのことか。扱いは上手くても、他の女の人には慣れてなかったというわけか。
先生の家は想像してたより広かった。いわゆるマンションの間取りなんだろう。ただ、ふたり暮らしにしては結構な広さがある。部屋の雰囲気もどことなく異国風?
日本らしくない不思議な置物を見ていた私に先生が教えてくれた。
ツアーガイドの仕事で日本と北欧を行き来していたお母さんから生まれた先生と翔太は、お父さん違いの兄弟なのだと。ここでの暮らしの後しばらく北欧に暮らしてたが、一足先に進学のために日本に帰ってきた先生に続いて、翔太も今年からここに一緒に住むことになった。お母さんは今も北欧で仕事していると。
そっか、だから先生と翔太くんは似てるとこもあるし、決定的に違うところもあるのか。
翔太の目の色が少しグレーがかった色だということは、会ったときに気がついていた。綺麗だなと思っただけで、顔立ちに合っているから違和感はなかった。目はお父さんの色なのかもしれない。
先生が世間話をしているかのような口調で生い立ちを説明してくれてる間にも、冷蔵庫から食材を出して並べていく。つられて私も話を聞きながら手を洗って持ってきたエプロンをつけて、調べてきたレシピを用意する。
まずは昨日買いこんだ食材を3人でひたすら切っていく。先生が包丁の使い方を覚えるいい機会だと、翔太に剥き方や猫の手を教えている。切った食材は後は炒めるだけにして冷凍保存袋にパックしたり、加熱してから冷凍コンテナに小分けにしていく。ここまですれば後は簡単な手間で食卓に出せる。余った野菜をコンソメで煮て、今夜用のスープが作業と同時に出来上がった。
お昼は先生が昨日作ったカレーをうどんと合わせて食べる。翔太がカレーを服に飛ばしてしまったことは、カレーうどんのお約束だ。
食器を洗って片付けているうちに、翔太はソファーで横になって眠ってしまっていた。
先生が翔太にタオルケットをかけて優しく頭を撫でる姿に、私は見入っていた。
ふと顔を上げて私と目が合った先生は照れくさそうに視線を外し、「翔太、今朝超早起きだったんだ。しょうがないやつだね」と言ってまた翔太に顔を戻し、起こさないようにまたそうっと頭を撫でる。
「翔太がこっちにきてからこんなに楽しんでるのも初めて見たし、食べてる時もいつもより美味しそうだった。今日、作り置きができたのも小川のおかげだよ。ありがとう」
弟のこと、よく見てるんだね。それに、自然に感謝の言葉を口にできるのも先生のいいところ。
「私も楽しかったです」
先生にたくさん気にかけてもらえてる翔太が羨ましい。私ももうちょっとだけ先生の視界に入りたい。
こっちを向いてほしくて上半身を傾け覗き込んで「あーちゃん」と呼びかけてから「やっぱり先生にも名前で呼んで欲しいです」と再びお願いしてみた。
言ったとたん、先生が目を伏せて口を手で覆った。耳が赤くなっていく。しばし見ていると覆われた口からごく小さく「美緒」と漏れ聞こえた。
こちらをちらっと見た先生はすぐに顔ごと逸らせ、口を覆ったまま呟く。
「だから・・・慣れてないんだってば。それに、名前で呼んでなんて言われると誤解しちゃうから、ちょっと・・・」
「誤解?」
「小川さん、・・・僕に・・・気があるの、かな。とか?」
そこまで言うと、慌てて口から話した手を顔の前でぶんぶん振りだした。
「・・・あ、やっ、忘れてっ。僕、今先生なんだった、何言っちゃってんだろ」
それって・・・こっちこそ期待しちゃっていいの?