惑う気持ちと、なつかしさ。
どうやらこの人狼に、私を襲う気は全くないらしい。
先ほどの狩場から自分の家へ帰る方角へ数十分歩くと、祖母の家はもう目と鼻の距離だった。
「後少しで着くから。
それまでしっかり意識保ってて。」
「…っハァ、……っ…す、すみません……っ…」
相変わらず私は、人狼のそのやけに締まった体を自身の腕で支えながら、一歩ずつ前へと進んでいた。
しかし。
「私にもっと体重かけて。
そうじゃないとあんた、本気でぶっ倒れるわよ?」
この人狼、私が女だから気を遣っているのか、全くその身を預けてこようとしない。
むしろ、無駄にスタイルのいいその長身を、あまり高くはない私の身長に合わせて肩を組んでいるというのだから、この姿勢は人狼にとって─ただの負担にしかなっていないと、そうとさえ考えられた。
「で……っ…も、…さす、が……ハァ…に…それは…っ」
「言い訳は却下。
女だからって気遣われてんの、本当迷惑。」
心ない一言。
しかし、ここで私を頼ってくれなければ、この人狼は今にも再起不能に陥ってしまいかねないくらい、弱っていた。
「す、みま、せん……っ…………」
ほんの少しだけ、人狼の体が私の方に傾く。
それでもまだ、支えると呼ぶには足りないほど、微妙な圧が加わった…程度のものではあったのだが。
一体、どれだけ遠慮深いんだか…
しかし、これ以上その事について言及しても、言葉を発するだけ相手の負担になると悟った私は、黙って後少しの道のりを懸命に歩き始めた。
そして、数分後。
「着いたわよ。
ほら、早く入って。」
鍵を開け、無理矢理人狼をその中へ押し込むと、私は慣れた手つきで数あるランプに火を灯していく。
ここは、祖母の終の住みかだった場所。
そして、今の私の武器の保管庫 兼 休憩所の役割も担っていた。
「これでよし、…と。
あんまり綺麗じゃないけど、文句はなしね。」
私はそう言って、人狼をゆっくりベッドへと導く。
一応、ここに来る度に手短な掃除は済ましているものの、もう誰も使わなくなった家。
枕や毛布だって、とてもじゃないが衛生的とは言えなかった。
─ボフッ。
しかし、あまりの高熱故に気にもならないのか、人狼はそのままベッドに横になり、毛布をぎゅっと抱き締めていた。
「…………。」
どうして、なんだろう。
苦しみ喘ぐ人狼を見ながら、私はふと思った。
病人であるとはいえ、相手は憎き人狼。
同じ屋根の下になんか、入れていい生き物じゃなかったのに…。
「これじゃあ、襲われても文句言えないよね…」
苦しむ人狼にそっと厚手の布団をかけてあげ、自身の荷物を置いた私は、思わずそう呟いていた。
己への覚悟が、弱すぎる。
憎むべき仇、恐れるべき相手──それが人狼。
そのはずなのに、そうでなきゃならないのに、私は彼を助けてしまった。
いや、助けたなんておこがましい。
この優しさは罠だと分かっているのに、私は彼に……助けられてしまったのだ。
これじゃあ、この人狼の容態が良くなり、仮に私を襲ったとしても、それは完全なる私の落ち度。
だって弱肉強食の森世界では、弱き者が強き者に背を向けるなどあってはらないことであり、今この状況はすなわち─そういうことを、言わずもがな示しているようなものだった。
(とりあえず、何か冷やすものを…)
つべこべ考えても始まらないと割りきった私は、家の中からバケツとタオルを探し出す。
だが生憎、ここには電気も水も通ってはいない。
そのため、家の裏手にある井戸へ向かうべく、私はもう一度ドアノブに手をかけた。
すると。
「いか…ないで……くだ…さい。」
薄く目を開いた人狼が、横たわりながら私に向かって懸命に手を伸ばしてきた。
「…私だって、病人を置いて行くほど冷酷じゃないわ。」
あくまで淡々と語る私に、人狼はそれでもすがるような目つきで私を見つめてくる。
「それでも、…もう……っ……あなたを……失いたく……ないんっ…」
「失う?…笑わせないで。」
井戸まではたった数歩の距離だ。
そんな距離で何者かに襲われるなんて、狩人失格もいいところである。
それに、失うもなにも──どうせ自分の手で、私の命を食いつくすくせに。
しかし、人狼のその潤んだ瞳は、至って真剣に私に訴えかけてきた。
「お願い…で…す、
もう少しだけ…そばに……いて、くれません……か」
行き場をなくした獣の手が、ゆっくりと下に垂れ下がる。
なぜか…それを見た私は、胸がきゅぅっと苦しくなった。
「そばにって言われても……」
とりあえず、人狼の床についた手をそっと持ち上げ、自身の手で包んであげる。
「これでいい…?」
なんでこんなことしてんだろ…と思わなくもないが、人狼は安堵したように微笑み、
「ありが……とう……」
と、すっと目を閉じた。
「………っ!」
あまりの破壊力抜群の笑みに、私は終止固まってしまう。
あぁ…ダメだ、笑顔一つでなに戸惑ってんの、私。
目の前にいるのは仇、私を食べる捕食者。
そう、捕食者だ、捕食者。
「狩人が狩られてどうすんのよ……」
ため息と共にその手を離そうとするも、寝ているはずの人狼の手は、なかなか私を離してはくれない。
仕方なく、私は他に出来ることを探そうと、自由の利く左手でポケットに入っていたハンカチを取りだし、人狼の汗を拭ってあげることした。
「それにしても…憎いくらい端正な顔立ちね。」
すらりと伸びた鼻、優しく垂れ下がる目尻、少し癖っ毛で襟足辺りまである、銀色の艶やかな髪の毛。
これが人間なら、さぞかしモテたことだろう。
しかし、生憎人狼に女はいないと聞くから、非常に勿体ないルックスである。
「……ん、んん……」
高熱でうなされている人狼の首に、そっとハンカチを当ててやる。
汗が拭われたことで少しは楽になったのか、人狼の表情は徐々に穏やかなものに変わっていった。
「私を食べる、くせに…さ…。」
どうしてこうも、同情心を誘うような顔をするのだろう。
もし、今目の前にいる人狼がさっきのヤツなら、迷うことなく自分が生き延びる方法を選んだというのに。
「あんたが一番……質が悪い…よ……。」
いつのまにか、私は目にいっぱい涙を浮かべ、その銀髪とふさふさの耳を優しく、とても優しく自分の手で撫でていた。
「なんで、なんでなの…?
なんでこうも……似ている…の…?」
人狼に出会ってしまった幼い私を、父が亡くなり、森の掟も知らずに狩人となった無謀すぎる少女を……。
いつも助けてくれ、どんな時もそばにいてくれたのが…
──流れるような銀髪を持つ、一匹の狼だった。
「……もう、十四年も前か…」
出会いは、父に連れ出されて初めて森に出た日のこと。
動物学者であった父は、私が森に親しみを持てるようにと、たまの休みによく散歩に連れ出してくれていた。
今となってはもう、花なんていう可憐なものとは無縁の生活を送っているが、幼い頃の私は、祖母譲りで草花がとても大好きな、ごく普通の女の子だった。
特に、‘’四つ葉のクローバー‘’なるものを父と探すのが大好きで、よく二人して日が暮れるまで探したものだ。
そしてそんな時、四つ葉探しに夢中になっていた私達の前に現れたのが、一匹のはぐれ子狼だった。
もちろん、容易く近づいていい生き物ではない。
しかし、その頃の私は森の動物に関する知識は全くなく、怖いもの知らずな好奇心の塊そのものだったため、他の動物に出会えた事がただ嬉しく─その狼に、にこっと微笑んで手招きをしてしまったのだ。
こっちにおいで、と。
もちろん、それを隣で見ていた父は内心焦ったどころでは済まなかったと思う。
子狼一匹とはいえ、人間の命を脅かす存在。
ただ、父も仕事柄動物には理解があり、こちらが何もしなければ向こうが襲ってくることはないと分かっていたからこそ、慌てることなく私とその狼を静かに見守ってくれていた。
しかし、子どもの私から見ても分かるくらいに、その子狼もまた、私達を警戒し、初めて見たのであろう人間に心底怯えているようだった。
…だから。
だから私は、そっとその狼に近づき、こう言ったのだと思う。
‘’おーかみさん、私とお友だちになろう?‘’
今の私からすると、何ともおかしな台詞を口にしたものだと心底笑ったことだろう。
人間と狼が友達?そんなもの、なれるはずがないと。
でも、父は私の言葉に相好を崩し、こう言ってくれた。
‘’そうだね、僕らは君と遊びたいだけなんだ。‘’と。
その一声もあって、完全ではないながらもその狼は、私達に一歩ずつ近づき、私の隣にちょこんと座った。
そのことが堪らなく嬉しくて、気づけばまた、私はその狼に声をかけていた。
‘’これ、お友だちのしるし。はい、どーぞ。‘’
それは、さっき父と見つけた四つ葉のクローバーだった。
しかし、クローバーを向けられても器用に受け取れるはずもない狼は、もどかしそうにそのクローバーを見つめている。
すると、父はこうもアドバイスしてくれた。
‘’クレア、狼さんのお耳につけてあげなさい。
髪飾りみたいに、ね?‘’
その言葉を聞き、狼は静かに伏せの体制をとる。
まるで、‘’つけて、つけて‘’と言わんばかりのその行動に、父は目を丸くしながら、それでも笑ってくれていた。
‘’こう……かな?‘’
もしこの狼が男の子だったら、髪飾りなんて嫌なんじゃないのかなんて幼心に思った私だったが、その心配は無用だった。
クローバーをつけるときに触れたその毛はふさふさで、艶やかなその流れに沿うようにそっと撫でてあげると、狼は嬉しそうに目を細め、くぅーんと唸り声をあげた。間違いじゃなければ多分、喜びの声だったとそう私は信じている。
‘’狼さん、お友だちになってもいいって言ってるよ。‘’
その時の父の嬉しそうな顔ときたら。
やはり、父は心底自然を愛し、心から動物を大事にしているという事が伝わってくる、とても素敵な笑みだった。
──それからというもの、その狼は私が森に出る度に、いつもそばにいてくれた。
おばあちゃんの家までおつかいを頼まれた時、仕事で忙しくて父が遊べない時、いつだって私の隣にいてくれた。
むしろ、その狼が一緒だったからこそ、私一人で森の出入りをする事に関して、両親が渋る事なく許可してくれたと言っても過言ではない。
そうして二年の月日が経ち、私がいつものように祖母の家へとおつかいを頼まれた日のことだった。
森に入ってすぐ、いつもなら隣にいるはずのその存在が、いつまでたっても現れなかったのは。
おかしいな、とは思いながらも、私はいつもの道を歩き続けた。
そして、おばあちゃん家の扉を開けた私はすぐに気づいた。
何があっても花の水やりを忘れないはずの祖母の家の花が、全て萎れてしまっていたことに。
‘’おばあ…ちゃん?‘’
不思議な違和感を感じつつ、水やりを忘れてしまうほど祖母の体調が優れないのかとベッドに近づいたところ、ベッドに寝ていたのは祖母ではなかった。
祖母の身なりをした──全く知らない他の男だったのだ。
‘’だ、だれ……?‘’
すると、その男は可笑しそう笑い、
‘’何を言ってるんだい?
赤ずきん、ほら…おいで。おばあちゃんだよ。‘’
と、何食わぬ顔で手を伸ばしてきた。
その時以上の恐怖を、私はまだ知らない。
そう言い切れる程、私の足は恐怖のあまりすくんでいた。
‘’い、嫌だ……!‘’
それが精一杯の抵抗だった。
おばあちゃんはどこ?あなたは誰?聞きたいことは山ほどあったけれど、私の本能が察していた。
この人の近くにいては危ない…と。
すると、その男はため息をつき、舌打ちをしながら私を見下ろしてきた。
‘’聞き分けのないガキだな‘’
情のない瞳、残忍に歪む顔、どれ一つ取ったって不審者に変わりはない。
逃げなきゃと思う気持ちとは反対に、私の体は余計に動けなくなっていた。
‘’……!‘’
いきなりその不審者に腕を捕まれ、体を引き寄せられる。
‘’早く来い!!‘’
‘’……っ離して!‘’
身をよじって逃げようにも、たった六歳の幼子が、大人の力に勝てるはずもなかった。
一瞬、考えたこともないような恐怖が頭をよぎる。
もちろんその時はまだ、私に死の覚悟を出きるほどの度量は備わっていない。
けれど、小さな体が、そのない知恵を振り絞ってたどり着いた答えは──確かに無事では済まないという、残酷な現実そのものであった。
‘’やめ……‘’
‘’ヴァンッッ!!!!!‘’
勢いよくその男に体当たりしたその影に、私は涙が出るほど救われた。いや、恐怖と安堵が入り交じり、その時の私は多分、ぼろぼろ泣いていた事だと思う。
‘’グルルルルル……‘’
警戒の、低い唸り声。
震える私とその男の間に割って入り、私を庇うようにその男を睨み付けたそれは──大切な友達である、あの狼だった。
‘’助けてくれるの…?‘’
狼はそれに答えるように、今しがた入ってきた、乱暴にも開け放たれた家の扉を鼻先で指し、私をそちらに促した。
‘’ありがとう…‘’
私は、出せる力の限りを振り絞り、走った。
友人を置いていくことに対する躊躇はあったけれど、私があそこにいても、ただ足手まといになるだけだ。
‘’コラ!!待っ──‘’
‘’ヴァンッッ!ゥゥ……‘’
遠くの方で、友人の勇ましい応戦の声が聞こえた。
そうしてなんとか無事家にたどり着いた私は、息絶え絶えになりながらも母にこの事を伝えた。
そして、すぐ宮廷警備隊が祖母の家に向かい、事の処理をしてくれた。
──と、私が体験したのはここまでだ。
後は、丁度家の裏手で祖母の食い荒らされた無惨な遺体が発見され、私を襲った男は、その祖母を襲った人狼と同一人物であることが判明した。
しかし、警備隊が祖母の家につく頃にはもう家の中はもぬけの殻で、人狼おろか、あの狼すら見つけられなかったらしい。
娘を襲った人物が人狼と知った両親は、顔を青ざめながら、それでも私が生きていたことに心から安堵していた。
しかし私は、自分を襲った人物が人狼だったと知り、違う意味で顔を青ざめた。
─私を救ってくれた友達は、果たして無事だったのだろうか。
狼とて、私達人間からすれば脅威の存在だ。
しかし、相手が人狼となれば別の話。力の差も、体格も、知恵さえも─他の動物とは一線をかく、醜くも利口な生き物。
しかし、そんな私の心配が的中する事はなく、狼はまた私の前に忽然と姿を表した。
幸いな事に、怪我一つしていないその姿を見て、私がどれだけ安堵し、涙したことか。
もちろん、その出来事以来、森に出ることを固く禁じられていた私は、もうその狼に会える手段まで失ったと心から落ち込んでいたものだから、周りの目を盗んで、しかも‘’人里に下りる‘’という危険をおかしてまで会いに来てくれたその狼に、泣きながら抱きついた事を今でも覚えている。
するとその狼は、お見舞いの品とばかりに、口にくわえていたそれを床に置き、私に差し出した。
‘’くれるの…?‘’
それは、私の大好きな四つ葉のクローバーだった。
‘’ありがとう。おーかみさん。‘’
私はこの時、もうこれ以上の怖いことは何も起きないと思っていた。
もちろん、生きてる以上危険は付きものだ。
しかし、祖母を人狼に殺され、あやうく自分も手にかけられて死ぬとこだった。普通の人間なら、そうそう経験しないことばかりだっただろう。
しかし、その心配だけはどうしても回避できなかった。
すなわち、私達一家は、祖母を亡くした傷がまだ完全に癒えぬうちに、より最悪な事態へと──呆気なく、巻き込まれてしまったのだった。
『お、お父さん…っ…』
『…つ、冷たい…』
すると、突如人狼が辛そうに眉間に皺を寄せた。
突然の出来事に、私はふと思い出から現実へとその思考を元に戻す。
『だ、大丈夫!?
汗かいて体冷やしたんじゃ……』
そう言って、再びタオルをあてがおうとしたその時。
『クレアさん、もう…泣かないで下さい。』
逞しいその腕が、私の顔の横まですらりと伸びてきた。
そして、その手をそっと私の頬に添える。
『………!?』
あまりにもそれら一連の動作が優しすぎて、私は一瞬、何が起きたのか全く理解が追い付かなかった。
『はぁ?……な、泣く?』
『まさか…ご自分で自覚がなかったとは。』
そう言って、その人狼は優しそうに目を細めて苦笑した。
私は、自由の利く左手で自身の頬をなぞり、人狼の言葉の意味を素早く理解する。
『冷たいって…あ、ご、ごめんなさい!』
よく見ると、人狼の首元には汗ではない別の滴が落ちていて、私はそれが、自分の目から溢れた涙だとすぐに勘づいた。
『謝らなくていいんですよ。』
急いでそれを拭おうとする私の手を止め、人狼はまたもにこっと微笑んで見せる。
『……』
何の含みも持たない、心からの安らかな笑顔。
信じたいと思う気持ちとは反対に、今まで私が積んできた経験が、それを信じてはいけないと心内で叫びだす。
どっちを信じたらいいのだろう。どれが、本当の真実なのだろうか。
すると人狼は、ゆっくりと私の手を離し、おもむろにその体を起き上がらせた。
『ごめんなさい…。
あなたを泣かせるつもりじゃなかったんです。
でも、そうですよね。‘’食べない‘’って口で言ったって、信じられるはずありませんよね…。』
『え、あ、いや…これは…』
どうやら人狼は、自分のせいで泣かせてしまったと勘違いしたらしい。
『手厚く介抱してくださって、ありがとうございました。』
そう言い、辛そうに立ち上がる人狼。
その姿を見た時、私はなぜかこのまま行かせてはならないと思い、遠ざかるその背中にそっと声をかけた。
『私は……人を信じることが出来ません。』
その大きな背中が、ゆっくりと私の方を向く。
『父が…人狼だと疑われたんです、幼いとき。』
そう、それは……祖母が亡くなって間もない頃。
まだ完全に祖母を失った傷が癒えておらず、家族の誰もが‘’人狼‘’という言葉に敏感になっていた、そんな時だった。
『それは……随分お辛かったでしょう。』
立ってるだけでも辛いはずのその姿は、そっと私に歩みより、優しく声をかけてくれた。
『…疑いが晴れぬまま、父は処されました。
しかもっ…、火炙りの刑……でした…。
その灰すら、私達一家の手に渡ることなく、ましてや、土に埋められるわけでもなく、川に…全て流されてしまうような、そんな、酷い有り様で…』
死後の世界には、楽園があるという。
そんなもの、私はもはや信じてはいない。
しかし、それを信じて疑わない人々は、その楽園で再び楽しく生きていくことが出来るようにと、姿形のなくなってしまう‘’火刑‘’を心から嫌い、死んだ後は土葬されることを誰もが望んでいた。
もちろん、父もそれが当たり前として育ったから、父は一番辱しめのある罰を受けたと言えるだろう。
『……それからというもの、私達一家は散々たる仕打ちを受けました。
私は、‘’人狼の娘‘’というレッテルを貼られ、何度も危険な目に遭い、母は、父の代わりに働き口を探そうとしても、門前払いされるばかりでした。
唯一、病弱な妹の薬を調合してくれていた薬品店だけ、父の事を信じ、薬を売り続けてくれました。…けど……でも…。』
父を信じてくれていたのは、父と長い付き合いのある薬品店の主だけだった。
でも、もうその店主も若くはなく、薬をもらえなくなるのも時間の問題だ。
なぜなら、その店の次期店主である薬品店の息子は、私達一家を信じるおろか、周りと同じように差別し、嫌っていた。
私が薬屋に顔を出す度に唾を吐きかけ、‘’疫病神‘’と罵ってくるような相手。
しかし、‘’私‘’という存在がその店の売り上げを悪くさせている事実もあって、こちらが強く出ることはもちろん出来ない。
例え父が人狼でなくても、私達一家に非がなくても。
人狼だと疑われた時点で、差別され、罵られ、避けられるのが──この世の中の常なのだ。
『だから、狩人に…?』
人狼は、あまりの熱に足元がふらついていた。
私は、もう一度人狼の体を支え、ベッドに無理矢理座らせる。
『でも…』
人狼はまたも立ち上がろうとするが、私はそれを片手で制した。
『私の話、最後まで聞いてください。』
もちろん、狼と人狼が全くの別種であることは理解している。
だから、今目の前にいる人狼と自分の友人であったあの狼が、同一人物であることはまずない。
でも、例えそうであっても。
この人狼から感じられる既視感を、私は急に信じてみたくなった。
この人狼の言葉を、私は信じたいと思った。
『そうです。だから私は、狩人として家族を養う覚悟を決めました。
‘’人狼の家族‘’なんかに、誰が食べ物を売ってくれると思いますか?
誰が、物を恵んでくれると思いますか?』
そして、私は一息置くと、
『結局人間なんて、そんなものだったんです。』
と苦笑いした。
『呆れます、ほんとに。
家族である欲目かもしれないけど、父は、本当に他人思いの優しい人でした。周りに慕われていて、誰からも愛されるような。決して、地位やお金に溺れることのない真面目な人でした。』
止めたはずの、いや、この人狼が止めてくれたはずの涙が、気づけばまた頬を濡らしていた。
『だから…っ、私、父が守ってくれたこの家を守ろうと、狩人になって獲物を狩り続けました。
生きるために、この手でたくさんの動物を殺めました。
…だから…あなたに殺されたって、当然文句は言えません。
でも…私は、あなたの言葉を信じたいんです。』
人狼の瞳が、驚きと共に大きく見開く。
『もしかしたら、自分の都合の良いように解釈したいだけなのかもしれません。
ただ、死にたくないだけ…なのかもしれません。
でも…私は、さっきお話した通り、父の無罪を誰にも信じてもらえなくて、辛い思いをしたことがあります。
だから、同じ事をして誰かを傷付けるくらいなら、私は信じます。あなたのその言葉を、信じたいと思います。』
初めは、誰もが父の無実を望んだ。
でも、裁判所が、国が出した決断に意見を唱えれば、それは‘’反逆者‘’として逆に自分達が捕らえられてしまう。
誰もみな、自分が一番可愛いのだ。
どんな人間だろうと、愛すべき家族がいて、養わなければならない、今死ぬわけにはいかない理由を持っていた。
だから、父の無罪を誰も口にしなかった。
その事を責めることは出来ないが、世の中とは、結局そういうものなのだ。
『信じて…くれるのですか?』
出会った時とは180度考えを新たにした私に、人狼は驚きながらも微笑んでくれていた。
『…はい。』
誰かを信じることは、とても辛いことだ。
時として裏切られ、結局はそんな決断をした私が馬鹿だったと思わざるおえないような、そんな経験ばかりしてきたから。
でも──確かに、今のこれは違う。
疑いたくなかった。
疑ってこの人狼を傷つけることの方が、怖いと感じた。
信じたことで……心が、とても楽になった。
『だから、ゆっくり休んでいって下さい。
もう泣いたりしませんから──早く、元気になって下さい。』
それだけを言うと、私はソファに横になった。
もう日も暮れている。今更帰ったところで、森で迷子になるだけだろう。
『ありがとう……狩人さん。』
私が寝る体勢に入ったことで、こちらが本気で‘’あなたを信じている‘’という事が彼にも伝わったようだ。
時を同じくして、人狼もそっとベッドに横になる。
そして、数分も経たないうちに……私は、疲れのあまり夢の中へと静かに落ちていったのだった。
同時連載で、『代償のない契約』というヒューマンドラマのお話も描いています!
クールでアクティブな女子高生と、その契約主である悪魔が送る、痛快ハートフルストーリー(?)となっています。
もし良かったら、そちらも目を通して頂けると幸いです(*^-^*)