変わりゆく、ものがたり。
主に、クレア視点で物語が進んでいく予定です。
他の視点の時は、「side…」と文の始めに明記していきたいと思います!
──今だ。
森の茂みに身を潜め、私はそっと手元の弦を引いた。
目の前には、夢中で草を啄む小鹿が一頭。
もちろん、小鹿とはいえ軽く50㎏は越える大物。
仕留めれば、三人家族の我が家では一週間はもつであろう、貴重な栄養源でもあった。
「……。」
タイミングを見計らい、焦点を確実に定めていく。
例え殺す相手とはいえ、一発で仕留め、苦しむことなく逝かせてやりたい…。
これは、森の恩恵を直に受ける狩人としての、森に対する礼儀のようなものでもあった。
[どうか、そのままじっとしていて…]
私は、心の中で小鹿への謝罪を唱えながら、張り詰めた弓を最大限まで引き、そして。
『ギャアアアアアアアアアアアアアアっっっ!!!!!』
「っ!?」
耳をつんざくような、子供の甲高い声。
しかし、自分が昔から狩り場としているここら一帯は、子供がそう簡単に迷い込んでしまえるほど、小さな森の浅瀬などではなかった。
ずっと、ずっと、奥深くの手付かずの森。
なのに今、はっきりと子供の声がした。
いや、悲鳴に近い、痛烈な叫び声だった気がする。
「まさか、そんなこと…」
悲鳴に怯えて逃げてしまった鹿などもうどうでもよく、私は、声のする方へと足早に歩き出した。
…あるはずない、そんなこと、あるはずがない。
もう狩人になって十二年も経つが、この森でその存在を見かけたことは、まだ一度もなかった。
─獣の耳を持ち、人の成りをした人害の獣。
その八重歯は人間のそれより鋭く、犬並みに鼻が利き、運動神経に置いては右に出るものはいないという、ヒエラルキーの頂点に君臨する自然界の絶対王者。
─そして。
人間の恐れる最大の敵であり、私の大切な人を奪った憎むべき仇。
「そんなに騒ぐんなら、今すぐ味見してやってもいいんだぜ?」
ただ、現実というのはどこまでも残酷で。
そのことを身にもって知っていた私は、一欠片の希望を抱くことすらせず、ただただその姿を視界の端に捉えていた。
───人狼…。
やはり、予感と悪寒は見事に当たり、私はすぐさま弓を構える。
そこには、幼い少女を肩に担いだ大人の人狼が一人、口許には不気味な笑みを湛え、陽気に森の奥を進んでいた。
「はなじで!!!がえる!!がえるのっ!!」
少女の泣き叫ぶ声だけが、無情にも木々の間をすり抜けていく。
「っるせぇガキだな、ったく。」
しかし、さすがにここからでは遠すぎた。
私は、徐々に人狼との距離を詰め、再度臨戦態勢へと入っていく。
────しかし。
「ああ…ん?」
やはり、人より何千倍と利くその鼻が、私に感づかないはずがなかった。
人狼は、少女を抱えたまま立ち止まり、辺りをきょろきょろと見回し始める。
…これでは、近づくことおろか、自分が殺られる方が先かもしれない。
いや、自分だけならまだ構わない。
でも、あの少女だけは……必ず、救わないと。
「おっかしいな、今、確かに…
──旨そうな女の臭いが、したんだがな。」
私は、太ももについているホルスターのボタンを軽く緩めた。
そして、捨て身の作戦へと移る。
「ま、それでなくても今日はごちそうが───」
「───動くな。」
人狼の背後へと飛び出し、弦を最大限にまで引き伸ばす。
「アア…?」
振り返った人狼は、見せつけるかのように牙を剥き出し、その鋭い目を更に細めてこう言った。
「フっ……小娘独りか…」
「黙れ。
今すぐその子を放せ、さもないと───」
「愚かだな。」
次の瞬間、人狼は恐るべき脚力でこちらに爪を立て、襲いかかってきた。
『テメェも、俺のエサにしてやるよ………!!!!』
「っ……!!」
避ける暇がない。
──いや、これこそが、こちらの本当の目的。
「愚かなのは、果たしてどっちだか。」
不敵な笑みを浮かべた私は、弓矢を投げ捨て、ホルスターから拳銃を取り出した。
そして、人狼の腕を狙い、確実に撃ち定めていく。
「うっ…ああ……!」
人狼が、あまりの衝撃に少女を宙に投げ出したその瞬間、私は、見事にその子を腕の中に収めることに成功した。
「テメェ……」
人狼の腕からは真っ赤な鮮血が溢れでている。
幸い、銃の腕前は思ったより落ちていなかったようだ。
ただ、不意討ち作戦が成功したとはいえ、まだ安心は出来ない。
本来なら、胸を一発狙って殺してやりたいところだったのだが、この少女がいた手前、そんな危うい場所に弾を撃ち込む事なんて、私には到底出来なかった。
「素直に返す気がないなら…
力ずくで、奪うまでだ。」
情のこもらない、酷く冷たい声。
それが自分の声だと気付いても、私は、今更変える気になどなれるはずもなかった。
だって──目の前に、長年追い続けた仇がいる。
もちろん、これがおばあちゃんを喰い殺した人狼なのかどうかは分からない。
でも、この人狼は間違いなく少女を襲った。
そのいたいけな体を、自分のものにしようとした。
正直言って──生かしておく価値など、私の選択肢にはもう微塵も残ってはいなかった。
しかし、父が生前口にしていた言葉が、ふと今の思考を遮る。
‘’人狼は、人間の他に感情を有する唯一の生き物だ。
だからきっと、私達が彼らを恐れれば、彼らはきっとどこかで傷つき、逆に、私達が彼らを心から愛することが出来れば…
きっと彼らも、私達に歩み寄ってくれるんじゃないかな。
もちろん、そうすぐには難しい事だとは思う。
でもいつか、クレアが大人になる頃には──
人と人狼が、仲良く手を取り合える世界になっていてほしいな…って、父さんはそう思ってるんだ。‘’
……と。
幼い頃の私は、この言葉を信じた。
もちろん、父の言った事が嘘だなんて、これっぽっちも思ってはいない。
でも。
人狼は結局、私の全てを奪っていった。
今ではもう、私にとってそれは──
殺す対象以外の、何者でもないのである。
「グスン……っ
うぅ……んっ……う」
少女は、私の肩に顔を埋めて泣いていた。
この歳で人狼に出くわしてしまったのだ。
きっと……トラウマどころではなく、心に大きな傷をおってしまったに違いない。
でも、と私は密かに思う。
もし叶うならば─どうかこの子が、森に対して恐怖ではなく、何かに対する憎悪を抱くことなく、純粋に…
これからの人生を、歩んでいけたらいいな…と。
例え相手が人狼といえど、幼い頃から何かを憎み、過去を背負うような生活を送るのはとても苦しい。
私も、この子と同じくらいの歳で人狼に出くわした身だったからこそ、余計にそう思ってしまうのだ。
「よ、よくも……」
人狼は肩で息をしながら、私を睨んでくる。
いくら睨まれたって、心変わりはしない。
後はコイツを──狩る、ただそれだけ。
しかし、私の瞳に映る人狼の表情は、酷く愉快そうに歪んで見えた。
「小娘、もう襲ってこねぇのか?
──あんたの銃から、もう鉄の臭いがしねぇんだけどなぁ」
「……。」
人狼の言うとおり、私だってその事実は随分前から把握していた。
手持ちの弾は……残り0。
全て、さっきの射撃で使いきってしまったのだ。
「………狩人をなめるな。
負傷した人狼を片付けるくらい、どうってことない。」
嘘も甚だしい。
でも、今こいつから背を向けて走り出せば、確実に追い付かれ、その後の結末は目に見えていた。
「フン…。
虚勢を張るのも、いいとこだな」
人狼は、そう言いながら腰を上げ、血まみれになった体を勢いよく起こした。
このままでは──
二人とも、きっと生きては戻れないだろう。
「一人で……帰れる?」
気がつくと私は、少女にそう声をかけていた。
「えっ……でも…」
至極全うな反応である。
ただでさえ森という場所は危険なのに、そんな危なっかしい所に幼い子を一人で放り込もうなんて、きっと私はどうかしていた。
しかし、少女から紡がれた言葉は、その歳からは考えられないほど……
とても優しく、思いやりに溢れた疑問だった。
「でも、お姉ちゃんは?
お姉ちゃんは、どうするの…っ…?」
「………っ!!」
まさかこの状況で、私の身を案じてくれるとは。
‘’人狼の娘‘’と呼ばれ続けて早十二年、家族以外の人に心配をしてもらったのは、本当に久しぶりのことであった。
だから。
「…大丈夫。
お姉ちゃん、あの悪い狼さんをやっつけてすぐに追いかけるから。…ね?」
余計に、この心優しい少女を自分の手で守りたかった。
「うん、分がっだ……っ…」
叶えることの出来ない、無意味な約束。
でも、平静を保ち、まるで悪を倒すヒーローのごとく笑って見せると、少女は力いっばい頷いてくれた。
「ほら、振り返らずに思いっきり走って!」
少女をそっと地へ下ろし、優しい笑顔で送り出す。
──これでいい。これで、良かったのだ。
少女は、私の発言をちゃんと守り、本当は怖いであろう森の中に、たった一人きりで飛び出していってくれた。
あの歳の子なら、‘’一人じゃ帰れないよぉ…‘’とだだをこねて嫌がるかもしれないと考えていたが、その心配は無用だったようだ。
どうかあの子が、無事に家まで辿り着けますように…
少なくとも、もうこの近くに他の人狼が現れる事は多分ないだろう。
なにせ、人狼は群れで生活する事をとても嫌うと聞くし、それに、縄張り意識が極度に強いという事も、何度か耳にしたことのある事実だった。
しかしながら、森に潜む脅威は…あいにく人狼だけではない。
ここにはまだ、たくさんの危険がその身を隠し、森に迷い混んだその者の行く手を──静かに阻んでくる。
でも、ここで黙って殺られるよりはきっと────。
この人狼から少しでも引き離した方が、彼女が生きて帰れる確率が高くなるんじゃないか──と、私はそう信じて少女を森の中へ放り出したのだった。
「そんなナイフ一本で、俺に勝てると思ってんの?」
相変わらず、その精巧な鼻が私の所持品を見事に言い当て、自慢げに笑ってみせる。
もちろん、無謀…なのはよく分かっていた。
でも、少しでもあの子が遠くに逃げるまでの時間稼ぎもしたかったし、何せ、憎むべき仇なんぞにそうそう容易く殺られてやる気もない。
それに──例え腐っても、一狩人。
ベストに忍ばせた最後の武器を、私は潔く抜き取ってみせた。
「伊達に十二年も、この仕事をやっていないんでね」
そうだ。今殺られれば、残された家族はどうなる?
私の死を心から悔やんではくれるだろうし、家の近くに墓の一つくらい建ててもくれる事だろう。
しかし、今家族を養っているのは、私のこの狩猟が主だ。
だったら、今ここで殺られるのは──
もちろんのこと、本望ではなかった。
「次こそ仕留めてやらぁぁぁぁ!!!」
再び、人狼の鋭い刃が頭上から襲いかかってくる。
私は、さっと身構え、手にした刃で対抗しようとしたのだが、やはり…
運命というものには、どう頑張っても抗えるわけがなかった。
「ぐっ……はっ!」
何とかその攻撃事態は避けれたものの、すぐさま人狼は私の上に馬乗りになり、最後の一撃とばかりに、その鋭い爪を大きく振りかぶってみせた。
───殺られる。
決して諦めたわけじゃないが、勝敗はもう目に見えていた。
そっと目を閉じ、最期の時を黙って受け入れる。
『オラァァァァァァ────』
心なしか、人狼の声も遠くに聞こえるようになり…
自分が死んでしまったことを改めて実感し────
───ドンッッ!!!
『グハッっっ!!!!!』
身が、軽くなった。
「お前ごときの人狼が、
人間にちょっかい出してんじゃねぇ……っ…!」
んっ……?
誰か知らない、第三者の声…。
そんな、はずは…………
「………っ!?」
目を開けて、私は再び驚いた。
なぜなら──先ほどの人狼を制し、さっきの言葉を投げかけたのは………
まさかの、別の人狼だったのだ。
「放っせ、テメェ……!」
「…っ…っハァ……こ、断る。」
その人狼は、随分と辛そうに言葉を発していた。
けれど、まだ気を緩めることは出来ない。
だって、私を助けたのは……
狩人でもハンターでもなく、一人の─人狼だ。
つまり、そのことが意味するのは───
『二人まとめて、始末してやる──。』
そう。
人狼が善意から人間を救うだなんて、絶対にあり得るはずがない。
これはきっと、‘’私‘’という獲物を巡っての、同族同士の争い。
どちらが勝っても──私は、必ず喰われる。
落ちていた弓矢を即座に拾い、狙いを定めて構えを取った。
なのに、最後の最後まで意気地無しの自分は、人狼二体という恐怖に視界が滲み、上手く矢を引くことが出来ない。
「っ…ざけんな、こんなとこで死んでたまるか!」
少女を襲った方の人狼は、もう一方の人狼を押しのけ、森の奥深くへと消えていく。
「ま、待て!逃げるなっ─、
────────っ!!!!」
目の前に、大きな影が立ちはだかった。
もう一人の、人狼──。
「ち、近づ、づ、くぅっ…な……」
怖さのあまり、上手く言葉にならない。
また、私は死に目を見るのか。
狩人だなんだほざいておいて、結局私は、何にも出来ないただの女ではないか。
自分の不甲斐なさも相まって、今はそんなことを考えてる場合ではないというのに、目から涙が溢れて止まらなかった。
己の覚悟の弱さを知り、今まで人狼に出会わなかった運の良さに甘えて、私は、私は──。
──ゴシ、ゴシ、ゴシ。
「………っ!?」
「あなたを食べたりなんか、絶対にしませんよ。」
気づけば、目の前の人狼は自身の服の袖で私の涙を拭い、申し訳なさそうに私を見つめていた。
でも、信じることなんて─出来ない。
「……どうせそんなこと言って、次の瞬間に私はお陀仏なんでしょ?」
「………。」
案の定、人狼は黙ってしまった。
やはり…図星だったようだ。
でも─その人狼の目は優しく垂れ下がり、さっきの人狼のような殺気が感じられないことに、私は少しだけ戸惑っていた。
「…信じてもらえないことは、分かっています。」
数秒の沈黙の後、先に口を開いたのは人狼の方だった。
「でも、それでも…
あなたがご無事で、本当に、本当に良かっ…………」
バタンッ───。
「………っ!!!!!」
発言の内容もそうだが、人狼は私にもたれるように倒れ込み、そのまま意識を失って……
「ちょ、ちょっと!!」
やはり、他の町娘より屈強な体つきをしているとはいえ、男性─それも、他と比べて筋肉質な人狼を支えて立てるほど、私も頑丈ではなかった。
「こ、これじゃ……別の意味で死んじゃう……っ!!!」
なんとか持ちこたえてはいるものの、このままでは押し潰されてしまう。
「どい……って……っ!」
少々手荒いとは思ったが、なんとか人狼を自分の上から追い出すと、私は乱れた息をゆっくりと整えた。
その時。
「パパぁーー!!」
遠くの方で、先ほどの少女の声がした。
それは、悲鳴でも絶叫でもなく、確かに…歓喜の声だった。
「助かったんだ…」
大人の、しかもこんな山奥に現れたというのだから、きっと彼女の父親は私と同じ狩人なのだろう。
これで…少女の件は、とりあえず一安心だ。
「次は、こっちを処理しなきゃ……」
逃げるなら今のうち…という事は理解していたが、目の前で苦しそうに唸っている人狼の顔を見ていると、どうしてもそのままにしておくことが出来なかった。
恐る恐る人狼の顔を覗き込み、その額にそっと手を当てる。
熱い。それも、結構な高熱。
「どうしたら……」
疲労故に倒れてしまったのなら、そのまま寝かせておけばいいとくらいに考えていたのだが、これだけ熱があれば…
せめて、雨風をしのげる家くらいは…必要になってくるだろう。
しかし、まだ完全に信用したわけではない相手を、我が家にあげることはできない。
自分だけならともかく、戦う術を持たない妹や母にまで、この男を近づけたくはなかった。
「もう、そうなったら……」
なぜ、憎き人狼にここまでしているのかは自分でも分からなかったが、私は、苦しそうに喘ぐ人狼を叩き起こし、肩を貸しながら──
以前、祖母が住んでいた家へと、その足を向かわせたのだった。
各キャラの挿し絵がまだ描けていないので、「登場人物紹介」より先に1話目を投稿させて頂きましたm(__)m
分かりにくい部分も多々あったと存じますが、今月中にはそちらの方も投稿できるかと思いますので、合わせてお読み頂ければ幸いです(*^-^*)