七夕の雨
『離してしまったら、もう、会えないんだよ』
そう。会えないんだ。
わかっているよ、そんなことは。
だからもう、離さないって決めたんだ。
初出:taskey様(現在サイト閉鎖)
STORIE様にアレンジ版があります。
動く「七夕の雨」はこちら(https://storie.jp/creator/story/13725)でどうぞ。
※挿絵があります。
雨が降る。
雨が降る。
見上げれば一面の薄灰色。
もうそれが空を遮る雲なのか、それとも空自身の色なのかもわからない。
街のあるほうを眺めれば、小さな行燈を手に歩いて行く子供たちの姿。
願いを込めて川に流すのだと言う。
おひとつ、と差し出された灯りは、無垢なまま手元を照らしている。
風が吹く。
こんな天気だからだろうか、初夏と言うには肌寒く感じる。
むき出しになった腕に触れると、ひやりと冷たい。
氷になったようだ、なんて考えがよぎり、そんなことを思ってしまった自分に小さく笑う。
さらさらと聞こえる音は笹の葉擦れだろうか。
色とりどりの紙片が願いを紡ぐ声だろうか。
それとも、星々が作り上げた川のせせらぎだろうか。
音が大きくなった気がして目を開けた。
目の前の川はごうごうと音を立てて流れている。
さっきまで白かった空は闇に包まれ、そこに月だけが浮かんでいる。
月が放つ銀色の煌めきが水面を撫でる。
撫でた端からきらきらと小さな光が零れ、それがあっという間に流されていく。
後ろを振り返った。
誰もいない。街も、祭りの喧騒も聞こえない。
たったひとり。
手にしている行燈の灯りだけがゆらゆらと揺れている。
――ここにいます。
どれだけ待ったことだろう。
会いたいと想う気持ちも、会えないと流す涙も奪われて、もうそれが自分のものだったかすらわからなくなってしまった。
諦めてしまえば楽なんだよ、と囁く声に呑み込まれてしまいそうになる。
早く。
早く。
ここに来て。
自分が、自分でなくなってしまう前に。
震える手で行燈を抱える。
気づくだろうか。見えるだろうか。
辿りついてくれるだろうか。
この流れを越えて。
雨が降る。
雨が降る。
雨粒と傘が速いリズムを刻む。
その音に急かされるように、歩む速度も速くなる。
小さな行燈を持った子供たちとすれ違った。
片手に行燈を、そしてもう片手はしっかりとつないで。
「だって、つないでいないと離れ離れになってしまうもの」
月の色の髪をした少年は生真面目な顔でそう言った。
「離してしまったら、もう、会えないんだよ」
しっかりと手を握り直し、身を翻す。
引かれて行くもうひとりの藍玉のような瞳の色に、昔、失いかけたものを思い出す。
手を離してしまった。
簡単に取り返せると思ったのが間違いだと気づくのに、そんなに時間はかからなかった。
今日は七夕。
この星の向こうには、たった一度の逢瀬を待ち望む者がいると言う。
年に一度でも会える機会があるのなら、彼らは幸せだろう。
会えなくてもまた翌年に望みを託すことができる。
それに比べて自分はどうだ。
何年も何十年も、会える望みすら奪われて。
会いたいと想う気持ちも、会えないと流す涙も枯れ果てて。
諦めてしまえと囁く声に呑み込まれて、それなのにこうして一縷の望みをつなぎ続けて。
さぞ滑稽に見えたことだろう。
『離してしまったら、もう、会えないんだよ』
そう。会えないんだ。
わかっているよ、そんなことは。
だからもう、離さないって決めたんだ。
雲の切れ間から銀色の光が射す。
ああ、あれは月。
見ればもう半分ほど速い流れに溶けかかっている。
ごうごうと音を立てる流れに、月は銀色の光の粒を放ちながら崩れていく。
遠くに灯りが見える。
ゆらゆらと揺らめいている。
凍てつく風に、今にも消えそうになりながら。
その光に、知らずと笑みが零れた。
流れに足を踏み入れると、小石が金色の耳飾りのように揺れた。
待っていて。
きっと、そこへ行くから。
「……待ちました?」
行燈を手に立ち尽くしている人に、傘を差しかける。
またこんなに濡れて。この人は傘を差すとか雨を避けるとか、そう言うことは考えないのだろうか。
頬を伝う滴は雨なのか、それとも違うものなのか。
手を伸ばすとそれを避けるようにして、濡れ羽色の髪が肩に当たった。
「待った」
見上げてくる藍玉の瞳。
「待ったよ。何年待ったと思う」
「二十五年。……そうですね、お待たせしてすみません」
ゆっくりと手を絡め取る。
離れないように。
もう、離さなくてもいいように。
喧騒が遠くなっていく。
足元で行燈が
ジジ、と小さく鳴って
消えていった。
あの子供たちはちゃんと帰っていけただろうか。
迷うことなく。
手を、離すことなく。




