一本目・滝谷と橘(一)
当小説内に登場する『柔道』は、実在する『日本伝講道館柔道』様をモデルにさせて戴いておりますが、あくまで小説内の空想武道であります。
よって現実の武道『柔道』とはルール上等の多少の違いや、筆者の脚色がある場合が御座います。
その点をご了承の上、お読み下さいませ。
父は俺が知る男の中で最も強く、最も偉大で、そして最も尊敬できる柔道家だった。
「青空の様に真っ青で、でかい男になれ。」
それがあの人の口癖だった。
そんな男の背中を、物心付いた時から見て育った俺が柔道を歩むのは至極当然、実に自然なこと。
周りもそう思っただろう。
何より自分自身、何の疑いも無く唯真っ直ぐに突き進めた。
「この道の先に、あの人が居る。」
俺にとって、父は誇りだった。
強い男。
だけど、世界で一番優しい男。
誇りだった。
尊敬等という言葉ですらその気持ちは片付けられない程、俺はあの男に陶酔していた。
だから、あの人が大好きだった柔道が、俺も大好きだった。
あの日までは。
ある晩、家の電話が鳴った。
父が警察に捕まったという。
応対した母の動揺が、まだ中坊だった俺に事の重大さを伝えた。
その日、父は自身の後援会メンバーと居酒屋で気持ち良く飲んでいたらしい。
そこに悪酔いしたサラリーマンが二人、後援会の女性に絡んで来た。
父は軽く諌めようと間に起った。
しかし男達は収まるどころか更に興奮し、居酒屋の台所へ押し入り包丁を振り回しだした。
そして父に襲い掛かった。
打ち所が悪かった――
長年、修練した武道家というものは自らの技を知り尽くしている。
まして父ほどの実力者の放つ投げは、素人のそれ等とは比べ物にならないほど洗練されており、相手に致命傷を与えるのも、ただ取り押さえるのも自在なはずだった。
しかし、酒が父の冴えを奪った――
事件は正当防衛が認められ刑罰は間逃れたが、素人に柔道の技を使ったとして既に内定していた公式試合への出場は全て取り消され、年齢的にも最後のチャンスであった五輪の夢も潰えた。
あの人にとって、柔道は全てだった。
文字通り、『全て』だったのだ。
人とは生き甲斐を失くしただけで、ああも変わってしまうものなのだろうか。
俺の目指した、尊敬した偉大な男はもうそこには居なかった。
そして――
中学卒業の日、俺は『父』すら失ってしまった。
彼は自ら命を絶ったのだ。
柔道は俺から目標を奪った。
「俺は、柔道が大嫌いだ。」
一、
「なぁ宮石。お前さぁ、もう部活決めた?」
小春日和の陽気が漂う駅のホームで、学生服姿の三人組が話をしている。
「いや、まだやなぁ。」
「そやったら明日テニス部見学に行くん付き合ってくれへん?一人やと行き難くくて。」
「ええけど、俺お前と違ってテニスしたこと無いで?」
「わかってるわかってる、見学だけやから気軽に行こうや。」
その制服から察するに、この駅を最寄り駅としている私立校「太陽高校」の生徒であろう。
会話の内容からして今年の新入生といったところか。
彼らの話は更に続く。
「そういや、滝谷はどうなん?決まってないんやったら一緒に・・・」
「あぁ、天人はあかん。こいつは高校入る前から決めとる部活あるもん。」
問われた当人が答える前に宮石が返答する。
「へえ、そうなんや。そういやお前らオナチュウやもんな。」
「中学どころか天人とは幼稚園からずっと一緒やねん。」
「そやったっけ?」
無邪気な笑みを浮かべながら、まるで忘れていたかの様に滝谷が言う。
「おいおい。幼稚園の時、近所の餓鬼大将に苛められてたお前をいつも助けてやったん誰やったっけ?」
「冗談冗談、明ちゃんは僕のかけがえの無い大切な親友やで。」
一切の恥も無くさらっとそういう事を言う滝谷の無邪気さが、友人達曰く「恥ずかしい奴だけど可愛い奴なんだよなぁ」なのである。
「ま、ええけど。」
そう言いつつ眼鏡を独特の変わった上げ方で直す宮石の頬には、明らかな照れが見て取れた。
「そういや、滝谷の入りたい部活って何なん?」
「ん?柔道部。」
「お前が柔道!?え、何?いじめ対策とか?」
「失礼な。」
あからさまに彼が驚くのも無理は無い。
滝谷はお世辞にも体格の良い方ではないし、また筋骨隆々だという訳でもない。
どこにでも居る、普通の高校生。
しかし、そんな疑問を吹き飛ばす情報を宮石が与える。
「こいつの親父さん警察官でさぁ、しかも署の柔道師範やねん。だから小学生の頃からやってて、なんか黒帯ってやつらしいで?」
「へぇ、そうなんや。意外やな。」
「中学も柔道部やったもんな、お前。」
「せやねん。で、その時の先輩が一人この学校で柔道やってはるから俺も入れてもらおう思て。明ちゃんも知ってるやろ?藤堂先輩。」
「二年上の藤堂さん!?あの人も陽高やったんか。」
「昔、よく購買で明ちゃんとヤキソバパン取り合ってたもんね。」
クスクスと懐かしそうに滝谷が含み笑いをしながら言った。
「大人気無い人やったからなぁ。」
「よく言うよ、結局いつも最後の一つは明ちゃんに譲ってくれてたやん。」
「まっ、まぁな。」
「ふーん、ええなぁ。俺も先輩とかここ来てくれてたらよかったの・・・」
その時、三人の話を掻き消すかのような怒号が辺りに響き渡った。
「おい、向こうで高校生が喧嘩しとるみたいやぞ。」
「まじかよ、ちょっと言ってみようぜ。」
血気盛んそうな生徒や、怖いもの見たさのカップルなどが口々にそう言い、怒号が聞こえてくる方へ向かい出した。
「喧嘩やって、俺らも見に行こうや。」
「西田、お前ってほんま野次馬根性あるよな。前もなんか見に行って先生に注意されてたやなないか。」
「ええやんええやん。高校生言うてたし、うちの生徒やったらおもろいしさ。」
確かにな、と言いつつ既に足早に歩き出していた西田を追う様に宮石も動き出した。
(興味無い・・・)
そう滝谷は思ったが、この空気で自分だけ丁度到着した帰りの電車に飛び乗ることも出来ず、半ば強制的に二人の後を追随したのだった。
だが後に、この時・この行動が彼にとって最も素晴らしい出会いを与えるとは本人自身、いや誰が想像出来たであろうか。
そう・・・多勢に無勢な状況で、一切の弱みを目に宿さず、修羅の如き投げを打つ男。
そこに居る皆が彼に恐怖の情を献上したであろう程の荒々しき動き。
しかしながら、滝谷の心に宿った感情は他者のソレとは違っていた。
『美しさ』
滝谷はその男が行う一切の動きに、確かにそれを感じていた。
そして、呻き声と静寂が織り成す奇妙な空間に、凛として起つその男を――
滝谷は確かに知っていた。
今回、初投稿させて頂きました。
駄文でお目汚しになるやもしれませんが、どうか暖かい眼で見守ってやって下さいませ。
続きはいつになるかわかりませんが、のほほんと更新して行きたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願い致します。