一
『哀れな子執事に愛の手を』の続編です。
ほかの話でも少し出てきた直貴と女子三人組のエピソードですが、今回は彼らを主役にして書いてみました。
雑貨屋さんのハロウィンコーナーで、宮原直貴は考え込んでいた。
今度こそ執事職を投げ出してやる。気の弱い羊をやめて、ワガママなお嬢様たちに反旗を翻してやるんだ。
「よし、決めたっ」
直貴は仮装パーティーの衣装が並んだ陳列棚から、狼男のゴムマスクを手にした。ハロウィンの夜、直貴のマスクを見ておびえる女子三人組の顔が目に浮かぶ。
「フッフッフッ。これまでのことを反省して謝罪するなら、許してやらないわけでもない」
直貴はレジでお金を払いながら、口元を緩ませていた。
そんなことを考え、今日も憂さ晴らしをする。午後からのバンド練習を無事に乗り切るためにも、この程度の空想は許してほしいものだ。
せっかくの日曜日だというのに、彼女たちに「バンド活動に立ち会え」と、無理やり呼び出された。夕方のバイトまでのんびり買い物でもしようと思っていたのに、完全に予定が狂った。スタジオ入りの前にせめて必要な文房具だけでも買おうと店に入ったところ、ハロウィングッズのコーナーで、狼男のマスクを見つけたのだった。
直貴は買い物を終えると、指定された貸しスタジオに入った。バイトまではそこで練習のお付き合いだ。幸か不幸か、このスタジオは直貴がバイトしている楽器店にある。なので早めに抜け出すこともできない。
「ナオくぅん、遅ぉい。あたしたち、もう待ちくたびれちゃったぁ」
鼻にかかったアニメ声で不平を言うのは、ツインテールの優香だ。初めて会ったときは甘えた感じがかわいいと思ったが、見かけと実態に隔たりのあることに気がつくまでそんなに時間はかからなかった。
「そうだよ、いつまでも来ないから、練習が始められなかったんだぞ」
ショートカットを栗色に染めた千絵里は、部屋の真ん中に立ち、腕組みをして直貴をにらんだ。たじろいでしまいそうになるが、弱気なところは見せられない。『ぼくは狼男だ!』と直貴は心の中で叫ぶ。
「早くセッティングして」
肩まで伸ばしたストレートの髪を指先で弄びながら、薫がつぶやくように言った。三人は直貴だけに準備をさせるつもりらしい。
「アンプもスピーカーもいらないエアバンドに、準備が必要なもんか」
今までは直貴が打ち込んだ音源に合わせて、それらしく演奏のふりをしてきたが、最近になって一人前にスタジオで練習したいと言い始めた。前回セッティングを教えたのに、ろくに手順を聞いていなかったようだ。
――おまえら、いい加減にしやがれっ!
と雷のひとつでも落としたいが、十倍返しで口撃されそうなのでやめた。怒鳴ったところで仕事がなくなるわけではない。時間の無駄だ。
直貴が不貞腐れながら準備をしているあいだ、三人は楽しそうにおしゃべりしている。終わったと告げると、「あとはあたしたちだけでやるから」とスタジオを追い出された。
「なんだよっ! アドバイスじゃなくて、雑用係がほしかったのか?」
扉の外で文句を言っても、スタジオ内の三人組には聞こえない。面と向かって言えない自分が嫌になる。
スタジオを出た直貴は、バイト開始まで行くところもないので、店に展示しているキーボードの前に座った。気分転換には演奏が一番だ。有名どころの曲もいいが、自分たちのオリジナルを弾いて、気持ちだけでも三人組のエアバンドに優越感を抱きたかった。
一曲弾き終えたそのとき、「宮原さん」と名前を呼ばれた。顔を上げると、そこには白いワンピースをまとった女子大生の奏音が立っていた。
☆ ☆ ☆
「今日は店のエプロンをしていないんですね」
「え? あ、ああ。バイトが始まるまで、まだ時間があるから」
直貴はキーボードの電源を切り、立ち上がった。バイト前とはいえ、お馴染みさんに声をかけられたら対応しないわけにはいかない。
「じゃあ、おしゃべりしていても店長さんに叱られませんね」
口元に小さな笑みを浮かべ、奏音は右ほおにえくぼを作った。チャームポイントに見とれていると、奏音はバッグから封筒を取り出した。音大生らしく、パステルブルーの地にト音記号や八分音符がデザインされている。
「これ……急で申し訳ないんですけど、よかったら一緒に行きませんか?」
色白の頬をわずかに紅潮させ、奏音は直貴に封筒を手渡す。些細なしぐさにドキッとしながら、それを悟られないように封筒の中身を確認した。
「ピアノコンサート? 明日の夜なんだね」
「大学の先輩たちのコンサートなんです。クラシックだけじゃなくて、ジャズやポップスも弾くって言ってましたから、宮原さんも楽しめるかと思って」
頼み込まれてチケットを買ったんですよ、とまた微笑む。そして直貴はえくぼに見とれた。
「それからこれが、携帯番号とメルアドです。何かあったら連絡してくださいね」
流れるようにきれいな筆跡で、封筒とおそろいの便せんに書かれていた。
「あ、ありがとう」
「お時間取れそうですか?」
「うん。月曜日はバイトが休みだから」
「よかった。じゃあ明日、駅前の広場で六時に待ってます」
奏音は軽く頭を下げると、優雅な足取りで店を出て行った。後にはわずかにラベンダーの香りが残った。
「直貴くうん、デートに誘われたのかい?」
にじみ出る棘を隠そうともしない口調で、いきなり背後から声をかけられた。恐る恐る振り向くと、バイト仲間の浩太が腕組みして仁王立ちしている。
「デート……やっぱりそうなるのかな」
「なんだって? デート以外の何物でもないだろっ」
浩太は直貴の襟をつかむと、店の隅に設けられた楽譜コーナーまで引きずっていった。
「あれはどう見ても、デートの誘いだ。なんだよ、直貴は。おれの気持ち知ってるくせに」
「あ、そうだった……ごめん」
音大生でピアニスト志望の奏音は、この店の常連だ。ロックバンドでキーボードを弾いている直貴は、その縁で対応することが多い。奏音に想いを寄せているギタリストの浩太は、それをいつも羨ましがっていた。接客と称して話をしたがっているのだが、ピアノについては説明するほどの知識がない。
「そうか、奏音ちゃんは直貴が好きなんだな」
「まさか」
「いや、奏音ちゃんの目を見ればわかる。あの子は直貴に惚れている」
奏音が自分に? まさかという気持ちが先に出てくるが、もしそうならこれ以上に嬉しいことはない。
「でもぼくは、あの子のことをそんな目で見たことないんだ」
「ちぇっ、余裕のセリフが恨めしいぜ。相手が直貴じゃなかったら、決闘を申し込んでいるところだぜ。そんなことより、いいか。彼女を泣かせるようなことをするなよ。頼んだぞ」
実のところ、直貴にとっても奏音は気になる存在だ。浩太の手前、ぼくも好きなんだ、と大っぴらに言えないのが悩みの種だった。
それがこんな思わぬ形で進展する機会に恵まれるとは。
しかし、友情と恋愛、どちらを取るべきだろうか。いつまでも気持ちをうやむやにしてはいけない。直貴は真剣に考えなくてはならない時期にきたようだ。
☆ ☆ ☆
バイトから帰った直貴は、ノートに挟んだメモを取り出した。部屋の中にラベンダーの香りが広がる。店で奏音に渡された携帯番号とメールアドレスだ。ふと、わずかに頬を赤らめた顔が脳裏に浮かんだ。
三人組には絶対にない清楚で物静かなところが、古風な印象を与える。今どき珍しいタイプの女性だ。
「奏音ちゃんがぼくのことを? まだ信じられないよ」
机の上に置かれたメモは、きれいな文字が並んでいる。直貴はおもむろにそれを手にし、机の前のコルクボードに画鋲で止めた。作詞用に浮かんだ言葉を殴り書きし、忘れないように張り付けているものだ。ノートの切れ端やチラシの裏に書かれた悪筆のメモの中で、きれいな用紙に書かれた達筆がひときわ目だった。
「本当にデートかな? うーむ、いや、でもやっぱりデートだ、これは」
直貴にとってデートと呼べるようなものは高校以来だ。大学では大半が男で占められる学科にいるためか、女子との出会いはない。唯一あったのが、例の三人組だ。こちらを執事扱いする彼女たちには、恨みこそあれ恋愛感情はわいてこない。
三人組の横柄さに比べたら、奏音は天使だ。そんな女子からデートに誘われたかと思うと、嬉しさもひとしおだ。
「コンサートのあとは、遅めの食事にすべきだな。バイト代も入ったばかりだし、ちょっとおしゃれな店に誘ってみようかな。いや、ジャスティでもいいか? ああ、どこかいい店ないかな」
夜も更けてきたというのに、明日のことを考えるだけで、直貴は興奮してしまった。翌日に遠足を控えた子供のごとく、今夜は少しも眠れそうになかった。