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あの日、君に送った未来のしおり

作者: 素ノ雨

 

 「ねぇ? 和宏(かずひろ)? この時、どう思った?」


 「いや、特に何も」


 彼女は先程からの優しい笑顔が徐々に不自然に引きつっていく。

 

 きっとこの表情は、悲しみと呼ぶのだろう。


 二十一歳の春、宇木和宏(うきかずひろ)は突然に感情を無くした。


 「なぁ? 詩織(しおり)? この時のこと、覚えてる?」


 「ごめん。何も思い出せない」


 彼の一生懸命さが痛々しく、かれこれこんなやり取りが一時間は続いていた。

 

 まるで誰かが消ゴムで消してしまったように、頭の中は真っ白なまま。


 二十三歳の春、美作詩織(みまさかしおり)は突然に記憶を無くした。



 誰かを好きになるなんて。

 

  和宏

   「思い出せないんだ……」

  詩織

   「思い出せないの……」



 季節は移ろい、行き交う人の(そで)が少し短くなる。

 

 そんな街をフラフラと歩く和宏。

 

 街路樹を揺らす風、排気ガスの匂い、女子高生の笑い声、子供を(しか)る母親の声、それら全てを無視して歩く。


 ──いや、無視されているのは僕だ。


 感情欠乏症(かんじょうけつぼうしょう)


 そんな病名を告げられてから、もう一年が経つ。

 

 いや、時間の経過に"もう"なんて感じなくなって、一年が経った。


 母は泣き、父は頭を抱え、妹は──どうしてお兄ちゃんが──なんてことを言いながら、医者に詰め寄っていた。

 


 その時の僕はと言えば機械のように存在しているだけ。

 


 目を閉じずとも、手に取るように思い出すあの春の光景。

 

 ()れ物に触るように接する周りの人達にも何も感じない。


 夕飯に大好物だった鶏の唐揚げを用意してもらっても、嬉しいなんて思わない。


 そんな僕を見て、涙を流す母を見ても、悲しいなんて思わない。


 生きたいとも、死にたいとも思わない。



 ──生きている実感もないけど。



 こうして、笑うこと、泣くこと、それらの感情を失った和宏に対して、家族や知人たちは──感情を失くした訳じゃない──と、期待を込めて思い込んだ。

 

 と言うのも、和宏は、よく喋る明るい人物だったらしい。


 秀才、スポーツ万能などではなかったが、ユニークな発言、行動で周りにいる人たちを和ませるような、いわゆる《癒し系》と言われるキャラクター。


 今は忘れてしまっているだけ、何かのきっかけで、そんな自分自身を思い出してくれるだろうと。


 しかし、時間の経過と共に、周りの人たちはそんな和宏に期待する感情を忘れてしまったようだ。


 変わってしまった彼を受け入れられる人は誰一人として、居なかった。


 いや、変わってしまったことを受け入れてしまった。


 ドライヤーで整えただけのボサボサ頭、黒の長袖のTシャツにブラックジーンズ、黒髪に上下真っ黒な(よそお)いは、まるでカラスのよう。

 

 昔の明るさは感情と共にすっかり無くなり、覇気(はき)のない真っ黒が街中(まちなか)異彩(いさい)を放つ。


 今日、こうして孤独と一緒に街を歩いているのも、もちろん和宏の意志ではない。


 様々なものを見て、何かを感じることを期待してのこと、つまりリハビリというやつだ。


 「痛っ」


 地面を踏みしめた足先に不意に痛みが走る。


 ──痛みだけは感じるんだな。


 感情がなくなっても、残っている感覚、感触。

 

 ベンチに座り靴を脱ぐと靴下越しの爪先に少しだけ赤い血が(にじ)んでいる。


 時計を見ると一六時半。


 かれこれもう五時間歩き続けており、四月に入ったばかり、まだ少し肌寒い中、歩き続けた和宏の額には汗が浮く。


 少し休もうかとそのままベンチに座り、行き交う人を眺めていた。


 楽しそうに手を繋ぐカップル。

 女性はブランドものの紙袋を下げていることから、彼氏からのプレゼントなのだろう、幸せそうに見える。


 携帯電話を耳に当てながら、頭を下げているスーツ姿の男性。

 恐らく仕事で何かミスをしてしまったのだろう。焦った表情、額に浮かんだ汗を拭うことも忘れているようだ。


 喜び、悲しみ、怒り、様々なものが行き交う中、僕だけが言うなれば無の状態。


 いくら血が流れた箇所が痛んでも、心が痛むなんてことはない。


 和宏は左胸に手を当てる。


 この中で、心臓は絶えず振動し、命を刻んでいる。


 誰に望まれなかったとしても。






 ──やっぱり、そうだよね……。



 詩織は左胸に手を当てる。


 確信的な予想は一字一句外れることはなく、ズキッと心が痛んだ。



 記憶喪失。



 自分の体に起きている状況をそんな風に表現するのは分かっていた。


 ただ、信じたくなかっただけ。


 覚悟はしていた。──それでも医者が時々、口にする記憶障害という言葉には深く傷付いた。

 

 だって、あなたは壊れたんです。──その言い方、何だか人間扱いされていない気がしない?


 それからすぐに、治療という名の辛く長い日々が始まった。


 記憶を失くした私に両親は、まず私の名前を教えてくれた。


 そんな二人に私は

 

 ──すみません。お二人の名前を教えてくれませんか?


 なんて、他人行儀な返事をしてさ……。



 それでも、そんな私を受け入れてくれた家族は、何とか記憶が戻るようにと力になってくれた。


 例えば、写真を一緒に見ながら、この時はここに行って、こんな事があって、あなたはこうだったのって、母は何百枚ある写真、一枚一枚を解説してくれた。


 幼い頃に行ったテーマパーク。おどけた表情でキャラクターグッズをたくさんぶら下げ、ピースサインのまだ幼い私。


 母も最初は懐かしそうな表情だったけど、首を(ひね)り黙り込む私を見て、目に涙をいっぱいに溜めている母を私は抱き締める。


それは二ヶ月ほどの間、毎日毎日続いた。

 

 ある時、そんな母と私の様子を見兼ねた父はおもむろに私の手を掴んだ。



 私は──やめて下さい──と振り払う。



 父はとても悲しそうな顔をして、その場を跡にした。


 後に母から聞いたところ、幼い頃、私は父が大好きで、よくおんぶさせては、散歩してもらっていたそうだ。


 父は何とか記憶が戻るようにと私を背に乗せようとしていたのだろう。



 父はただ純粋に私のためにと思っていてくれていただけだった……。



 不器用で寡黙(かもく)な父なりの愛情表現を私は拒否してしまったんだ。


 不器用で寡黙な父なんだと知るよりも先に……。



 それから、写真を見ながら母と思い出を振り返るという時間は徐々に少なくなり、思い出のアルバムはホコリを被り、父は露骨(ろこつ)に私と距離を取るようになり、ほとんど会話もなくなってしまっていた。


 父と母は毎晩のように喧嘩をし、仲裁(ちゅうさい)に入った私を見て、二人とも泣き崩れる。



 ほどなく、両親は離婚を選んだ。



 誰も言わなかったけど原因は私の存在のせいってことくらい分かってた。



 当時、付き合っていた彼氏は、私の病気を聞くなり()け付けてくれて──大丈夫? ──なんて、心配してくれたんだけどさ。



 ──えっと、あなたは誰ですか?



 そう。やっぱり一切覚えてなかった。


 名前も知らない彼は二人で撮ったプリクラや、過去のメールとかを見せてきては、必死で自分が私の恋人だということを伝えてくれた。


 思い出せない私には、その事実を受け入れるしかなかった。


 それから、その人も家族がしてくれたのと同じように私の記憶が戻るように試行錯誤(しこうさくご)して頑張ってくれたの。


 初めてのデートで行った映画館で、アイスティーとポップコーン片手に──ここら辺だったっけ? ──なんて言いながら、二人並んで座った席を探して。


 もちろん、初デートの時に上映してた映画はとっくに上映期間が終わってたから、DVDを借りて見てさ。


 ──この映画めっちゃ面白い。もっかい見たい。


 なんて、私が言うと、彼は涙を流しながら強く抱き締めてくれた。


 私が初めて見たと思っていたその映画は、もうしつこいくらいに何度も何度も見たことがあるって後から聞いて、私もとても悲しかったな。


 分かってたんだよ。初めて見た訳じゃないのは。だって、記憶を取り戻す為だもんね。



 でも、でも……初めてだったんだもん。



 あの小さく(さび)れた映画館も、ちょっと酸っぱいオレンジジュースも、湿気(しけ)ったポップコーンも、あの人が抱き締めてくれた感触も、あれが私だけの初デートだったんだよ。


 他にも、水族館、遊園地、思い出を辿(たど)るドライブ。

 


 ──でも、何一つ思い出せなかった。



 ある日──ごめんね。──と切り出した私に彼は土下座(どげざ)をして謝罪してきた。


 他に好きな人が出来たんだって……。


 そう、私の謝罪に便乗(びんじょう)して彼はその事実を告白してきた。


 ──俺はやるだけのことはやった。もうこれ以上何をすればいい? 俺はお前のために頑張ったよな?


 彼の謝罪は、私という重荷からの解放を望んでのことだと理解した。


 「そうか。じゃあ、さよならだね」


 私からさよならを言うのが彼へのせめてもの感謝の気持ちで、こうしてあっさりと私は一人ぼっちになったんだ。


 でも、これだけは分かっていて欲しかったの。


 ママやパパと一緒に写真を(なが)めてた時の二人の幸せそうな顔、彼と思い出の地を(めぐ)った時、ふいに私の笑顔が好きだって言ってくれたこと、何も覚えてない私には全てが新鮮で嬉しかったんだ。


 その全部が私の思い出だったの。


 記憶が戻って欲しいなんて、全然思ってなかったんだよ。


 伝えたかったな。


 分かって欲しかったな。



 一人きりになった私は顔の見えないネット上に優しさを求めてさ。

 


 とにかく誰かに優しくして欲しかった。


 過去の私じゃない、今の私を見て欲しかったの。


 でも、過去を知らない同士でいくら言葉を交わしても、体を重ねても、寂しさは埋まらなかったんだ。


 それでも一時(いっとき)だとしても何も考えなくて済むから、私は誰かを求めた。


 抱かれた男の人の数はもう覚えていない。


 いや、本当は覚えてるよ。思い出したくないだけ……。


 ただ、ベッドで背を向けられるのが怖くなって、タバコの匂いが嫌いになった。


 記憶を思い出したいはずの私には思い出したくない記憶だけが増えていったの。


 ──もう死んじゃおうかな。


 私を買った男から代価として、もらった二万円を病院で支払いに使ったとき、もう本当に全てが嫌になったんだ。


 週に一回のカウンセリングを終え、駅へと向かう詩織。


 長く延びた自慢の黒い髪は、明るい茶髪に代わり、パステルカラーが好きでよく着ていたワンピースは赤いチューブトップに黒いシースルーのストール、そしてショートパンツからはスラッと延びた足を高めのピンヒールが支え、コツコツと音を立てながら駅のホームへと続く階段を進む。

 

 可愛い色、服装が好きだったのに、こんな風になってしまったのは、きっと好奇(こうき)な視線が欲しかったからだろうな。


 詩織はホームのベンチで何本も電車を見送りながら、自分がこの世からいなくなるイメージを(ふく)らませていた。


 あの等間隔に並んだ黄色い小さな凸凹の正方形を越えて、大きな音を立てて迫り来る電車に当たると体がバラバラになる。


 赤い血が飛沫(しぶき)となり、体は肉の(かたまり)になって飛び散る。


 きっとこういう時には走馬灯(そうまとう)ってのが浮かぶんだよね。



 浮かんでくれるかな。


 浮かべばいいな。



 もういいや。──と首を横に降り、詩織は立ち上がり、目を閉じたまま一歩ずつ足を線路へ向ける。



 誰でもいいから私のこと、覚えていて欲しいな。


 忘れないでいて欲しいな。



 一歩、また一歩、そしてホームには電車の到着を告げるアナウンスが流れ始め、三歩目を踏み出した時


 「あの、すみません」


 肩を叩かれ、振り返ると男の人と目が合う。その人は今まで出会った誰よりも冷たい目をしていた。


 「これ、あなたのでしょ?」


 男が差し出したのはベンチに置いたままの(かばん)


 「え、あの、ありがとうございます」


 鞄を受け取ったのを確認すると男は何も言わず、そそくさとその場を立ち去ろうとする。


 「あ、あの、待って」


 その声に男は振り返り、首を(ひね)っている。


 「え、えっと、あの……」


 言葉にならない言葉を発しながら、詩織の目からは大粒の涙が(あふ)れ始め、それを不思議そうに見ているすれ違う人たち。


 帰宅時間、混雑したホームで、いい年した女が泣いているのだから、不審でしかない。


 ただ、目の前の男は冷たい目のまま、それら全てを無視して、詩織を見つめる。


 「あ、あの、大丈夫ですか?」


 その言葉をきっかけに詩織は大きな声をあげて泣き始めた。


 若いカップルは指差し笑い、仕事帰りの中年サラリーマンは迷惑そうにわざと咳払(せきばら)いをして通りすぎる。


 そんな心ない視線の中、その男の人は周りの景色に流されることなく、特別に心ない視線を私に向けていた。



 こんなに冷たいのに、私は初めて安心したんだ。



 ──私だけを見てくれている。



 不意に力が抜けてしまった詩織は、その場にしゃがみこんでしまい、異変に気付いた駅員に抱えられ、事務所に連れて行かれた。


 もちろん、たまたま居合わせただけの和宏と共に。


 「あの、ご迷惑お掛けしてすみませんでした」


 「いえ、大丈夫ですよ。ただ、一体何があったんですか?」


 「それは……」


 まさか、あのとき、自殺しようとしていたなんて言えるはずもない。

 だからと言って、代わりになる言い訳なんて思い付かない。

 

 そんな詩織の態度から、駅員は言えない事情なんだと察したようで


 「えっと……宇木さんは、何をされていたのですか?」


 受け取った運転免許証を確認しながら、問いかけた。


 「僕はこの人に鞄を渡しただけです。あとは、この人が急に泣き出して、あなたたちに連れられてここにいるだけです」


 ──うわぁ。キツい言い方する人だな。


 「では、宇木さんと美作さんは、お知り合いではないのですね?」


 「はい。そうです」


 返事をした和宏の隣で、詩織も首を縦に振った。


 「そうですか。では、美作さん?」


 「は、はい」


 「駅のホームは公共の場ですし、些細(ささい)なことが大事故に繋がる可能性もあります。それを忘れないようにして下さいね」


 思ったよりもあっさりと解放されたこと、駅員の手慣れた対応から──こんなアクシデントは日常茶飯事(にちじょうさはんじ)なんだろうな──と詩織は思い、事務所を出た。


 帰宅ラッシュを乗り越えたホームは先程より少し落ち着いた様子で、ホームの混雑具合は歩くのには不自由しない程度になっていた。


 「本当にすみませんでした」


 詩織はすぐに和宏に深く頭を下げる。


 「いえ、構いませんよ」


 怒っていないかを確認するように、詩織が顔色を(うかが)うと、和宏は無表情に冷たい視線。


 ──この人、何を考えてるか全然分からないな。


 「では、失礼します」


 会話を続ける気がこれっぽっちもなく、その場を立ち去ろうとした和宏に


 「あの、これから用事はあります? 良かったら食事でもどうでしょうか?」

 

 初対面の相手から食事に誘われることはあったが、自分から誘うなんて初めてのこと。


 しかも、大変に迷惑をかけた相手に対して。


 もちろん、謝罪や感謝の気持ちもあったが、それよりも和宏の冷たい視線、態度が気になって仕方がなかった。


 「いえ、今から帰るとこなので、用事はないです。でも、お腹が空いていないので」


 そう言って振り返り、その場を後にする和宏。


 その後ろ姿に、詩織は言い知れぬ孤独感に襲われ、思わず和宏の手を掴んでしまった。


 「あ、あの、一人にしないで」


 「どうしてですか?」


 詩織が(しぼ)り出した言葉に抑揚(よくよう)のない返事。


 「ごめんなさい。寂しくて」


 「寂しい……?」


 和宏は何かを思い出したように、ポケットから一枚の小さな紙を取りだし、詩織に差し出す。


 「 感情欠乏症……?」


 そこには 感情欠乏症という文字と病院の連絡先が明記してあった。


 「はい。僕には感情がありません。そういう病気らしいです。なので、あなたの寂しいが僕には理解できない」


 詩織はその病名を聞いたのは初めてで、言葉が出なかった。


 ただ、この冷たい視線の理由は理解した。


 ──この人、感情がないんだ。


 「そうだったんですね」


 「はい。なので、もう帰ってもいいですか?」


 「え、あの、一人になりたくないんです。一緒にいてもらえませんか?」


 和宏にとってもこんな風に人から一緒に居て欲しいと懇願(こんがん)されるのは、かなり久々なことだったが、当然のように何も感じることはない。


 「構いませんよ」


 ──え? 嘘でしょ? いいの?


 「ありがとうございます」


 詩織は驚いた。まさか感情がないのに、自分の気持ちを理解してくれるなんて思っていなかったからだ。


 ただすぐに気付いた。


 ──あ、この人にとってはどっちでもいいことなんだ。私が言ったから、それに従ってくれただけなんだ。


 何一つ表情を変えることなく、詩織の言葉を受け入れた和宏はスッと振り返り、歩き始めた。


 「あ、あの……」


 「何ですか?」


 「どこに行くんですか?」


 「僕の家です」


 「えっと……。着いていっていいんですか?」


 「一人になりたくないんでしょ?」


 「あ……。は、はい」


 「では、着いて来て下さい」


 歩き出した和宏の隣で足並みを合わせる詩織。

 

 男の人に連れられて、家に行くのは今までにも何度もあった。


 冴えない真面目な大学生

 いかにも遊んでそうなチャラ男

 プライドの高い青年実業家

 バツイチの寂しいおじさん


 いくら何を言おうが男性の家で二人っきりになるという目的は一つ。


 でも、この人は何か違う気がする。


 自分を女として見ていないのは分かっていたし、もちろん私の過去も、今の私も見ていないだろう。


 ただ、私の言葉を受け入れ、何も言わず、何も聞かず、居場所をくれた。


 部屋に向かう道中、そしてこの殺風景(さっぷうけい)な部屋に着いてからも、詩織が会話を始めて、和宏で終わる。


 やがてネタが切れた詩織が会話を始めることを断念すると、始まる沈黙。


 和宏は部屋の中央の机の前に座り、何をすることもなく、ボーッとしている。


 詩織は部屋の隅で小さくなっている。


 沈黙に耐えかねて、話題を作ろうとしても素っ気ない返事しかない。


 それは、病気のせいだと分かっていた。


 ──でも、何か居心地いいな。


 何もしなくていい。ということがここまで気が楽だとは詩織は知らなかった。


 お願いされること、お願いすること、優しくされること、優しくすることを考えなくてもいい。


 そして、それら全てが嘘だったんだと気付かされることもない。


 「あ、あの、実は私、記憶喪失なんです」


 「そうですか」


 「はい。ある日、突然なんです。昔の事、思い出せなくなってしまって」


 「はい」


 視線を詩織に向けることもなく、和宏は心ない返事を繰り返した。


 それでも詩織は喋り続けた。涙を流し、喋り続けた。


 やがて、日が落ち、詩織の涙を気遣うことなく、部屋の明かりを灯し、和宏は元の位置に戻る。そんな行動にも間髪入れず詩織は喋り続ける。



 それでも詩織は良かった。

 


 今まで自分から話すことなんてなかった。


 自分には記憶がないから、詮索されるのが怖くなって、だから初対面の人には相手のことを聞くようにした。


 年はいくつ?

 お仕事は?

 好きな食べ物は?

 嫌いな食べ物は?

 好きなタイプは?

 嫌いなタイプは?


 こんなありきたりな質問を投げ掛ければ、そのままの返事が返ってくる。


 でも、それ以上、興味を持ってくれる人なんていなかった。


 (ちかし)い人は、私の事を知ろうと必死になる。

 ──覚えてないから、分からないのに。


 初対面の人は、私の事なんて興味がない。

 ──覚えて欲しいから、伝えたいのに。


 ──この人は、何も言わずに聞いていてくれてる。


 感情がないなど、詩織にとってはどうでも良かった。



 ──今までの人と違う。



 そんな事実だけで充分満たされ、そのまま朝まで話続けた。


 そして、そのまま疲れたのか、安心したのか、詩織は眠りにつく。


 和宏は寝息を立てている詩織を他所(よそ)にノートを開き、ペンを走らせる。


 宇木和宏が感情を、美作詩織が記憶を、突然に無くしてしまってから一年後の春。


 この出会いと別れの季節に二人は同棲を始めることになった。


 そして、ちょうど同じ頃……。





 里美(さとみ)アリスは焦っていた。


 ──どうしよう……。私のせいだ。あんなことが起きたからって、それを言い訳になんか出来ない。


 「あの人、絶対苦しんでるはず……」


 だからと言って、どこに向かえばいいのか思い浮かぶ場所には全て行った。


 ──手掛かりはこれだけだもんな。


 アリスが取り出したスマホの画面には一人の女性。


 「よしっ」


 キャップを深めに被り、白いTシャツは汗で滲み、下着が少し透けて見える。


 アリスという可愛らしい名前と違い、ボーイッシュな性格はそれくらいのことは普段から気にしてはいなかった。


 ──あの人にこれを渡さないと。


 しかし、状況はさらにそんなことを全く意に介さない程にアリスを追い込み、行く宛ない道に足を踏み出す。


 それは、行き場のない詩織が転がり込んだ和宏の家がある同じ街での事だった。





 「今日もリハビリ?」


 「はい。この病気のせいで、僕は国からお金をもらって生きてるんで、リハビリをしないといけないんです」


 「そうだよね。あの……今日も一緒に行っていいかな?」


 「あの……それ、毎日聞いてきますけど」


 「もし嫌だったら、言って欲しいから」


 「僕は病気なんで、そんな感情ないので」


 そう言って、靴を履きドアを開ける和宏。


 ──あぁ。やっぱり安心するな。


 その後を追って家を出る詩織。


 ただただ歩き回るだけという日々がもう二週間は続いている。

 

 詩織も和宏と同じく国から生活を保証されている、言わば障害を抱えた人間。自立できるまでの間、病院に通い病気の完治を目指す生活。


 しかし、二人とも病状に一切の改善は見られぬまま、時だけが(すで)に一年以上が経過した。


 病院を変えようと思ったこともあったし、医者から違う病院を(すす)められたこともあった。


 何をしようがこの現状が変わることはないのではないだろうか。


 そんな疑心暗鬼(ぎしんあんき)を抱え、徐々に病院へ行くという行為さえ、鬱陶(うっとう)しく感じ、それでも不安は拭えるはずもなく。


 もちろん、そんな感情を抱いていたのは詩織だけで、和宏は何も疑問を持つこともなく、リハビリを続けている。


 未来という名の目標を失った詩織と、はなから目標など存在しない和宏。


 それでも、二人は今日も街を行く。


 本格的に春を迎え、空を舞う蝶や鳥と同じく人間も活動的になり、すっかり人通りの増えた公園のベンチに二人は腰を降ろした。


 「あの、詩織さん。もしかして楽しいんですか?」


 「え? う、うん。楽しいよ」


 和宏がこんな質問することは稀で、さらに詩織に興味を示したのは始めてのことだった。


 「そうでしたか」


 「うん。でも、どうして??」


 「あれと同じ顔をしてるから」


 和宏が指差した先にはカップルが四人は並んで座れるベンチで体を寄せ合い、仲睦(なかむつ)まじく会話をしていた。


 「え、ちょっと違うってば」


 カップルの女の子と同じと言われたことが恥ずかしく、(うつむ)く詩織。


 「ん?」


 首を捻り、その様子を理解できない和宏。


 「あ、あの、和宏さん? 笑顔の練習をしませんか?」


 「笑顔の練習……ですか?」


 「うん。笑顔って大事だもん。出会ってから、一度も見たことないし……」


 そう言って詩織はハッとした。

 

 この人には感情がないのは知っていたはずなのに、自分の気持ちをぶつけてしまってる。


 そうして、記憶をなくしてから、すぐに感情的になっては、たくさんの人を傷付けてきたのに。


 「僕は感情がありませんから、楽しいってのが分からないんです」


 「う、うん。ごめんね。わたし……」


 「どうして謝るんですか?」


 「いや、だって……」


 目に涙を浮かべる詩織。


 無視して和宏は事も無げに言い放つ。


 「で、しないんですか? 笑顔の練習?」


 そんな和宏の言動は詩織にとって、この上ない癒しとなった。




 この人は自分のせいで傷付いたりしない。



 それは



 この人といれば傷付いたりしない。




 (ほほ)を引っ張ったり、唇を上下させたり、時に笑顔の見本を見せながら、始まった笑顔の練習。


 そんな二人の様子を、先程和宏が指差した斜向(はすむ)かいのベンチに座ったカップルが見つめる。


 「ねぇ見て? あのカップル、幸せそうだね」



 一緒に桜を見たり、海水浴に行ったり、紅葉を見たり、それこそ普通のカップルのように二人は過ごしてた。


 そうして思い出が増えていくのが詩織はとても幸せだった。

 

 「ねぇ? 和宏さん?」


 相変わらず詩織が何かをこうして質問しないと始まらない会話。


 「何ですか?」

 

 「和宏さんが感情欠乏症になったのっていつ頃なんですか?」


 聞きにくいとこも、和宏には気を遣わず聞いていいという事にもすっかり慣れた。 


 「去年の四月二十九日です」


 「そうなんだ。私もちょうどその頃だよ。日にちまでは覚えてないけど……」


 「何だか嬉しそうですね?」


 「え? それは嬉しいよ」

 

 出会った頃と何一つ変わらず冷たい目で見つめる和宏に


 「えっとね、同じって嬉しいんだよ。どんな事でもいい。一緒って嬉しいんだよ」

 

 そう言って笑った詩織は自分の目を疑った。


 ──え???

 

 自分の目に映る和宏が笑顔を見せている。


 「え? 和宏さん。笑ってるの?」


 「はい。詩織さんが笑っているから。同じにしました」


 ずっとこうして傍にいると──この人には感情があるんじゃないか? ──と錯覚することが時々あった。


 それが嬉しくもあり、怖くもあった。


 もし、感情が戻ったとしたら、一緒にいれなくなるかもしれない。


 今は私が傍に居て欲しいと言ったから、和宏さんの(そば)にいれている。


 不意に目から涙が(こぼ)れる。


 「詩織さん。それはどうするのですか?」


 「ううん。和宏さんは泣くことなんて、知らなくていい」


 ──あなただけは、悲しませたくない。悲しみを知って欲しくない。とても怖いから……。



 このままでいい。今のままでいい。



 そんな風に思うのは、真逆な感情が段々と心の中で大きくなりつつあることを詩織自身が気付いていたから。



 ある秋の昼下がり。


 家で机に向かう和宏。手には一冊の茶色の革製のノート。


 「和宏さんって本を読むのが好きなの?」


 「いえ」


 一見ノートには見えない豪華な外装に詩織は和宏が本を読んでいると勘違いした。


 「え? そうなの?」


 「これは日記です」


 「そうだったんだ。ごめんなさい」


 「どうして謝るんですか?」


 「いや、何となく……」


 「読みますか?」


 「ううん。遠慮しとく」


 詩織にとって過去に触れるということは恐ろしい事だった。

 

 ──今だけでいい。これからだけでいい。


 「そうですか」


 「あ、そうだ。私、本を読むのが好きでさ。でもね、私忘れっぽいから、これがないとダメでさ」



 記憶喪失の自分が忘れっぽい?



 普通の人のように話してしまう自分に少し嫌気が差す。

 

 そんな感情を振り切り、詩織は和宏に長方形の少し古びた紙を差し出した。

 

 「これは何ですか?」


 「これはね、(しおり)って言うの」


 和宏は興味深そうに──詩織にはそう写った──手渡した栞を眺めている。


 それは、真っ白な背景に猫の影が描かれており、白黒のモノトーンカラーのシンプルなデザインだった。


 「栞ですか」


 「そうそう。私の名前と同じ」


 「そうなんですか」


 「栞ってのはね、こうして本に挟んで、ここまで読みました。って目印に使うの。ほら、こうしたら、本を閉じてても分かるでしょ?」

 

 栞を和宏の日記に挟んで使い方を見せる。


 「そうですね」



 栞は忘れないように使うもの。



 詩織と栞、同じ名前の私が記憶喪失なんて、とんだお笑い草だよ。

 


 「詩織さんは嬉しいですか?」


 「え?」


 「同じだから」


 「いや、これはね同じじゃないの……」


 そう言って、目を伏せた詩織は何か言葉が欲しかった。


 ただ、和宏には『同じじゃない』という意味が分からなかった。

 

 こんなちょっとしたすれ違いを埋める(すべ)さえ知らない二人。

 




 順調に進んでいた日々も徐々に歯車は狂い、出会ってから初めての冬を迎えたある日のこと。



 「ねぇ? 和宏さん?」


 「はい。どうしました?」


 「こうして一緒に寝てて、私に欲情しないの?」


 「しませんよ。僕には感情がありませんから」


 「もう!そればっかり!私が何か言えば感情がない!感情がない!って!そんなの分かってるよ。分かってるけど……」


 突然の詩織の叫び声にも和宏は表情一つ変えることはない。


 「寂しいよ。寂しいんだよ……。嘘でもいいから、好きって言ってよ……」


 詩織は口にしてハッとした。



 ──嘘でもいい?


 私、何て自分勝手なんだろう。




 次の日の朝、詩織は部屋を出ていった。





 「確か、こうするんだっけ……」


 詩織と過ごした一年足らずで、和宏は少しだけ笑顔が上手になったのだった。




 記憶がない。


 それは「こんなことをした」という、言わば過去がないということ。



 感情がない。


 それは「こんなことをしたい」という、言わば未来がないということ。




 過去がない詩織、未来がない和宏、そんな二人が紡いだ今は別れという結末を迎えた。


 それでも、今は続いていく。





 「ご迷惑おかけして、申し訳ありませんでした」


 深々と頭を下げる向井聡(むかいさとし)の隣で同じ体勢の詩織。


 「いえいえ、大丈夫ですよ。そんなに謝らないで下さい」


 見るからに優しそうな中年女性は、見た目通りに柔らかな笑顔のまま店を出て行った。


 和宏の部屋を出た後、詩織はずっと放置していたマンションの部屋に戻ると、知らない人がすでに入居済みだった。


 現実逃避をしていた間に家族が解約の手続きを済ませたのだろう。


 詩織は行く宛を失った。


 頭に過ったのは実家を出てからの日々。


 それは孤独との戦いで、最終的には死を選ぼうとさえしたが、そんな詩織を救ったのは和宏の存在。


 ただ、それからも詩織は逃げてしまった。


 幸い、記憶喪失という難病のお陰で、生活資金はギリギリだが残っている。

 

 ──負けちゃダメだ。


 もう自分を傷付けて、その傷を癒やすために、誰かを求めたり……そんなことしない。


 詩織はそんな強い決意のもと


 「お願いです。私を働かせて下さい」


 店長の向井はその時のことを今でも冗談交じりにスタッフの前で話す。


 あんなにも強烈なインパクトのある人と出会ったのは初めてだった。と。

 

 「あの、店長。すみませんでした」


 「いや、良かったね。お客様が怒ってなくて」


 「はい……」


 ばつが悪そうな詩織。


 「詩織ちゃん? 分かってるよね?」


 「はい」


 「お客様に似合う服を一生懸命探すのは悪いことじゃないんだよ? でもね……」


 向井は(たくわ)えた口ひげを右手で触りながら、時計を見た。


 「さすがに一時間は長いよね……」


 詩織の新しく選んだ居場所、それは自分を変えるため、まずは服装を変えようと入ったセレクトショップだった。


 店長の向井の好意で働かせてもらえることになった詩織は自分が記憶喪失であることも告げ、向井はそれを分かった上で詩織をスタッフとして受け入れた。


 つい、お客さんやスタッフに対して、感情的になってしまい、迷惑をかけることはあったが、店長の向井はもちろん、スタッフの理解、協力、そして何より本人の努力の甲斐もあり、何とか日々を懸命に生きていたのだ。


 ただ、和宏の家を出て半年が経った今も記憶喪失は一向に改善の気配はないまま。


 「お疲れ様でーす!」


 一人ぼっちだった詩織にも仕事仲間という名の存在ができ、中でも仲の良い桑島舞(くわしままい)と仕事後に居酒屋で食事をするのは恒例行事になっていた。


 「詩織ちゃん? もう仕事には慣れた?」


 「うん。でも、まだまだ迷惑かけまくってるし」


 「最初は誰だってそうだよ。気にしないで大丈夫だってば」


 記憶喪失だから──舞は決してそんなことは言わない。それに安心はする。

 

 でも、信じるなんて感情は持てなかった。

 

 それは舞に対してだけではなく、誰に対しても平等。


 一人だけ例外を除いて。


 「ねぇ? 詩織ちゃんって彼氏はいないの?」


 ──あの人、どうしてるんだろう。


 「いないよ」


 ──彼氏なんて、作れるわけないよ。


 話は仕事のことから、恋愛のこと、そして今は舞の初恋の人と再会したというエピソードで盛り上がっている。

 

 詩織は舞の話を笑顔で聞きながら……。


 こうして頭に浮かぶのは、あの人の事を好きだったとか、そんな感情のせいじゃない。


 離れることを選んだのは自分自身。それはもう受け入れた。


 和宏の元を去ってから半年。


 とにかく何も考えなくていいように、懸命に働いた。

 



 ──でも、それでも、忘れられないの……。記憶からいなくなってくれないの。




 

 詩織が去った日の夜、和宏はペンを握り、挟んだ栞を頼りに日記を開く。

 



 詩織さんがいなくなった。




 それだけ書いて、ペンは動きを止めてしまう。


 固まっている和宏を余所(よそ)に、吹き込んだ風が日記のページをめくる。


 パラパラと数枚の紙が倒れた先は、詩織と出会ってから三ヶ月ほどが経った日。



 そこには、所狭しと文字が並んでいる。



 和宏は改めて、今日に戻そうと日記を手に取ったとき、床に栞がヒラヒラと落ちる。


 目印を失った日記。


 詩織がいない今日にはすぐには辿り着けなかった……。






 和宏の日常は詩織と出会う前へと戻った。


 朝、目覚めてはリハビリに街に出掛ける。

 それの繰り返しの日々。

 

 詩織が去ってから三週間ほどが経ったある日、同じように出掛ける準備をしていると玄関のチャイムが鳴った。

  

 扉を開けると、そこにはキャップのつばを後ろ向きに垂らし、白のTシャツにリュックを背負い、ジーパンにスニーカーというラフなスタイルの小柄な女の子がいた。


 「あの、すみません。この人、知りませんか?」


 その女の子が和宏に向けたスマホの画面に写っていたのは、詩織だった。


 「知っています」


 「え!?」


 どうせここもダメだろうと、諦めていた里美アリスは目の前の男の返事に驚き、畳み掛けるように


 「知ってるんですか? どこにいてるんですか? この人を探しているんです!」


 「知ってますけど、どこにいるかは分からないです。すみません」


 そう言って和宏が閉めようとした扉にアリスは片足を突っ込んだ。


 「お願い、力を貸して欲しいの。この人のためにも」


 アリスはスマホの画面を和宏の眼前へと突き出し、この人、つまり詩織のためと和宏に懇願した。


 「分かりました。僕にできることなら」


 「ありがとうございます。ありがとうございます」


 アリスは何度も何度も頭を下げた。


 「え!? 一年も一緒に暮らしてたのに連絡先も知らないの? あんたそれでも男?」


 「あ、あの、はい」


 和宏の殺風景な部屋に上がり込んだ途端にアリスの態度は急変した。


 ドカッと腰を下ろし、和宏が出したお茶をゴクゴクと一気に飲み干す。


 「せっかく有力な手掛かりに辿り着いたと思ったのに。ってかさ、どこに行くとか、誰に会いに行くとか、何でもいいから覚えてないの?」


 「特にないです」


 「そうか……」


 「とりあえず、美作詩織さんのことを教えてくれない?」


 和宏は記憶の限り、詩織との日々を話した。


 聞き終えたアリスは腕を組み、深い溜息(ためいき)()き、何やら考えている様子。 


 「って言うか、あんたさ、年下の私の態度にムカついたりしないの?」


 突然、思い出したようにアリスは和宏に投げ掛けた。


 「あの、これ」


 「ん?  感情欠乏症 ?」


 和宏が差し出した小さな紙を受け取り、そこにある文字を声に出した。


 いつか、詩織にしたように。


 「僕は感情がありません。なので、ムカつくとか感じないんです」


 和宏のそんな告白は、すでにアリスには届いていなかった。


 ── 感情欠乏症。なるほど、そういうことか……。


 「あんたさ、その病院からこんな紹介状もらってない?」


 アリスはリュックから一枚の紙を取り出し、和宏に手渡した。


 「見覚えはあります」


 「見覚え?」


 「はい。その時、家族が反対したので、そのままにしてました。治療費が上がるかもしれないからやめておけとも言われました」


 ──何よそれ、やっぱりこんなやり方じゃダメじゃん。


 「そか。あんた、今から出れる?」


 「はい」


 「じゃあ、着いてきて」


 「どこに行くのですか?」


 「私の職場」


 出掛ける準備が出来ていた和宏はアリスの後を追って家を出た。

 

 電車を乗り継ぎ、三十分ほどで目的地に着いた。


 その間、ずっとアリスは何やら考え込んでいる様子で二人には一切の会話はなかった。


 「里美メンタルクリニック?」


 「そうそう。私、医者なの。と言っても診療はまだ出来ないんだよね。まだ二十二歳だし」


 アリスはアメリカの医大を二十一歳で卒業した、いわゆる天才だった。


 「何か経験がないからってだけで、医者として認めてもらえないの。それなら早く経験積ませろっての。能力があるのに認めないのが私には理解できない」


 愚直っているアリスは、ただの二十歳そこそこの口の悪い女性で、それは白衣を身にまとったとしても、印象は変わることはなかった。


 「ま、ここでは一応、研修医ってことで働かせてもらってるの。父の病院だしね」


 「そうですか」


 アリスは和宏を応接室へと案内した。


 実の父の病院だということもあり、かなり顔が利くのだろう、院内を闊歩する姿は一回り以上年上のベテランの医者よりもよっぽど偉そうだった。


 「あんたさ、感情がないんだよね?」


 「はい。そう言われました」


 「それって、何を言われても何も感じないんだよね?」


 「はい」


 「感情を無くす病気ってのはね、かなり珍しい病気なんだけど、それは病気として認められているケースが少ないってことなの。結局、どっかの誰かが原因、症状、病名を決めたら病気って認定されるってこと」


 「はい」


 「何かリアクションないの? あんたと話してると調子狂うわ……。ま、仕方ないか」


 「……」


 「いいや。でね、はっきり言うけど、あんたのその感情欠乏症って病名は、この世には存在してないの」


 「はい」


 「医学会では暗黙(あんもく)のルールがあって、存在しない病名を患者に宣告するってことは……」


 アリスが用意してくれた珈琲(コーヒー)がすっかり冷めてしまい、応接室の外では患者の容態(ようだい)が急変したのか、バタバタと廊下を走る音が聞こえる。


 「宇木和宏さん。単刀直入に言うわね」


 アリスの真剣な表情はまるで医者のようで、先程までの無神経な様子はなく、その口から大切なことが伝えられるというのは、和宏にさえ分かった。


 「あなたは、人間じゃない」


 「はい。そうですか」


 アリスの口から衝撃的な事実が発せられたとは思えない和宏の反応。


 それを無視してアリスは続けた。


 「あなたの心と脳は機械。つまり、ロボットなのよ」


 「そうですか」


 「ちなみに、美作詩織さんの病名って何か聞いてない?」


 感情を無くしてからというもの、和宏の記憶力は人と比べると異常なほどで、詩織が何気なく(こぼ)した病名も一字一句覚えていた。



 それも今なら納得がいく。何故ならば僕は人間ではないのだから。



 その病名を聞いたアリスは何も言わず、考え込んでいる様子。


 その目は(うる)み、やがて臨界点を越えたとき、涙が頬を伝った。


 「あ、ごめんね。これに別に深い意味はないから。最近、涙脆くてさ」


 露骨に何かを隠している様子のアリス。


 和宏にはそれら全ての理由に理解など出来ない。



 僕は感情のないロボットだから。





 それは、もうすぐ今年が終わる冬の日、クリスマス直前のこと。


 イルミネーションが街を彩る中、男性が一人、詩織に向かって、頭を下げる。


 「詩織さん、僕とお付き合いしてくれませんか?」


 「あの、ごめんなさい」


 「そうですか。すみません」


 「いえ、こちらこそ、すみません」 


 詩織がこうして愛の告白を断ったのは、和宏の家を出てから初めてのこと。


 相手は優しくて、見た目も良くて、仕事も詩織のことも大切にしてくれそうな、とてもいい人だった。

 

「詩織さん。もし良かったら教えて欲しいんですが、好きな人がいるんでしょうか?」


「はい」


 詩織の心が動くことはなかった。



 ──この人は私のこと、受け入れられないだろうな。



 自分が記憶喪失だという事実を告げたのは仕事仲間の数人だけで、それはあくまでも仕事上で迷惑をかけるかもしれないという不安からという理由。


 そんな仕事仲間は、詩織の病気を受け入れ、付き合ってくれている。


 そんな状況に幸せを感じ、以前のように特別に寂しくなることも、誰かを必要以上に求めることもなくなっていた。


 新しい生活、新しい自分、未来を順調に歩み始める詩織。

 

 ただ、一つ気掛かりだったのは……。


 「ねえ? 詩織ちゃん? 記憶喪失になる前のことって全然覚えてないの?」


 「うん。本当にまるで別人になったみたいに、全く記憶にないの」


 「そうなんだね。ちなみに、詩織ちゃんの病名は何て言うの? 私の友達のお母さんは過度なストレスで嫌なことだけ忘れてしまう解離性健忘(かいりせいけんぼう)って病名でさ」


 ──病名、何だっけ……。


 「ごめん。忘れちゃった。何かとても難しい名前だったし、記憶喪失には変わりないからって、覚える気もなくてさ」


 そう言って笑顔を見せた詩織。


 「そか。病名が分かっても治療法が変わることもないもんね?」


 「そうなんだよ」


 「ところでさ、最近病院行ってるの? 朝から晩まで休みなく働いてるじゃん? 店長も気にしてたよ」


 「時間見つけて行ってるよ。でも、行っても同じカウンセリングばっかりだったから意味ないかなって」

 

 詩織は嘘をついた。


 実はもう随分と病院には行っていなかったのだ。

 

 一向に改善しない状況に嫌気がさし、さらには自分が記憶喪失だという事実からも逃げたかったから。


 「もう、ちゃんと治療は受けないとダメだよ。詩織ちゃんの大切な思い出なんだから」



 大切な思い出。



 詩織はとても大切な思い出を捨てた自分を悔やみ続けている。



 ──会いになんていけないよね。



 それでも、前に進もう。と、舞と別れたあと、鞄から一枚の紹介状と書かれた紙を取り出した。


 「里美メンタルクリニックか……」





 里美メンタルクリニックの院長の娘、里美アリスは幼少期から天才と持て囃され、アメリカにて十二歳で大学卒業、十八歳で博士号取得、そして二十一歳で医学部を卒業し、晴れて日本へと帰国。

 

 順風満帆な人生。


 輝かしい未来が約束されていた……はずだった。


 彼女には忘れたくても忘れられない過去がある。


 それはアメリカでの彼女を支え続けた恋人の死。


 スピード超過のトラックに跳ねられ即死。


 アリスが恋人の死を知ったのは、父の手伝いで人工知能、ICメモリーを人体へ装着する作業の直前。


 そして、その日はその恋人が来日する一日前のことだった。


 「そうだったんですか」


 アリスの過去の話を無表情のまま聞き続けている和宏。


 「あんたに話すのバカらしくなるわ。あ、ごめん。仕方ないのは分かってるんだけどね」


 「でさ、恋人を亡くした私はね、そのまま父の手伝いを続けたの。今思えば、ちゃんと父に伝えて、手を止めなきゃいけなかったのにね。あの頃の私はプライドだけで生きてた気がするわ」


 「そうですか」


 アリスは和宏という名のロボットに淡々と話続けた。


 「でね。あろうことか……。あ、その前に説明しないと分かんないよね」


 そう言ってアリスはホワイトボードに何やら書き始めた。


 「人間には、心と脳があるでしょ?」


 アリスは難しい言葉や、時々英語を織り交ぜながら和宏に何かを伝えている。


 しかし……。


 「里美さん? よく分からないです」


 「え? 嘘でしょ?」


 驚いた表情を見せたアリスは、その後何やら考え込み


 「ねぇ? これ見て?」


 拳を握り、和宏の方へ突き出している。


 「人間の心臓。つまり心の大きさって、だいたい握り拳くらいって言われてるの」


 「そうなんですか」


 「うん。体の中でたったこれだけの大きさの心で人間は動いているのよ」


 人間は心で感じ、脳でそれを整理し、生きている。

 

 心臓、つまり心は、体を『100』とすれば『1』にも満たない。


 そんな小さなスペースで喜怒哀楽を感じ、脳に伝達し、体で表現される。


 例えば、楽しければ笑顔になるし、悲しければ涙を流すといったように。


 「その心にあるのが感情って事ですか?」


 「そうよ。人間も、あんたのようなロボットも同じように心で感情をコントロールしてるの」


 「そうですか」


 「で、次はここね」


 そう言って、アリスは自分の頭を指差す。


 「脳ですか?」


 「イエス。脳ってのは、心が感じる場所だとすると、考えたり、整理したりする場所ね」

 

 「はい」


 「言い方をちょっと変えると、脳で人間は記憶をするのよ」


 「記憶ですか」


 「うん……。つまり、美作詩織さんは脳の部分に欠陥(けっかん)があるの」


 「だから、記憶喪失なんですね」


 アリスは少し黙ったあと、言葉を絞り出した。


 「美作詩織さんもあんたと同じロボットなの。そして、彼女の記憶を奪ったのは私よ……」


 そう言って、ポケットから小さな箱を取り出し、机に置いた。

 

 「これが美作詩織さんの記憶」

 

 そう言って、アリスは蓋を開ける。


 詩織の記憶は厚さ一ミリほど、一センチ四方ほどの大きさだった。 


 「そうなんですね」


 和宏の淡白(たんぱく)な反応にすっかり馴れたアリスは事も無げに話続ける。


 「あんたは知らないと思うけど、この世の中にロボットってたくさん生活してるのね。ま、ちなみにロボットって言っても、ベースは人間と何も変わらないのよね。普通の人と変わらず、笑うし、泣くし、お腹も空くし」


 「はい。知りませんでした」


 「人間とロボットの違いはね、ロボットには、脳には集積回路記憶装置(しゅうせきかいろきおくそうち)、通称ICメモリーが。心には人工知能(じんこうちのう)、通称AIが埋め込まれているの」


 「はい」


 「えっと、何かあんたと話してると、理解してるか、理解してないかの判断が出来ないのよね」


 「そうですか」


 「簡単に言うと、ロボットには脳と心に小さな機械が入ってるってことね」


 「はい」 


 「そして、今ここに詩織さんの記憶が入ったICメモリーがあるってことは……」

 

 そこまで言って、アリスはまた黙り混み俯いた。


 しばらく続く沈黙。


 「何か、詩織さんがあんたに甘えたのと、あんたの元を去った理由が分かった気がする」


 涙が溢れてしまうのを必死で(こら)えながら、アリスは言葉を絞り出した。


 「ずっとずっと、苦しかったの。これを持ってるせいで、詩織さんが辛い思いをしてるのは想像してたし、何よりも……あの人の事を思い出しちゃうの……」


 そこまで言った後、アリスの目からは大粒の涙が溢れた。


 「だってね、死んじゃうすぐ前にも電話で話したんだよ。日本に行くのが楽しみって行ってた。私に会うのが楽しみだって、言ってくれてたんだよ」


 和宏の目の前には天才と言われた女性の姿はなく、ただただ泣き崩れる一人の女の子がいた。


 「どうして死んじゃったの? ねぇ? 人間はどうして死んでしまうの?」


 「分からないです」



 「何が天才よ。もう一回でいいから、会いたいよ」



 和宏は何も言わない。


 アリスの悲しみ、苦悩、それを解決しようなどという感情は和宏には存在しない。


 ただただ、アリスの話を聞いている。



 それだけ。


 ただ、それだけの事。


 アリスの話を聞くという、それだけのことをした人物は今まで誰一人としていなかったのだ。



 アリスは恋人を突然に亡くした悲しみをずっと抱え込み生きてきた。



 誰にもそんな姿を見せずに。



 その後、少し落ち着きを取り戻したアリスは、恋人との思い出、天才と言われるがゆえの苦悩、はたまた好きな男性のタイプなどを休む間もなく話続けた。



 「あの、今日は色々と話を聞いてくれて、ありがとうね」


 すっかり夜も更けたころ、アリスは和宏にそう告げた。


 「いえ」


 「あんたさ、こういう時に出せる感情だけはあるんでしょ?」


 「ありますか?」


 「詩織さんが教えてくれたんじゃないの?」


 和宏が見せた笑顔はとにかく下手くそで、それがアリスにはおかしくて仕方なかった。



 ──ありがとう。




 和宏は里美メンタルクリニックを跡にし、自分の家へと歩いて向かう。




 詩織の記憶が戻る。




 部屋に着いたとき、既に深夜二時を過ぎており、外には雪がちらついている。


 和宏はカバンから日記を取り出し、何やら書き始めた。



 詩織さんがいなくなって195日目。

 詩織さんの記憶が戻る。

 嬉しいと言うはず。

 笑うはず。



 和宏は日記を閉じて、ベッドに寝転び目を閉じた。


 いつも通り、なかなか寝付けずに。





 次の日の夜、すっかり見知った顔が和宏の元を訪れる。


 「アリスさん、どうしましたか?」


 「ちょっと付き合って」


 「分かりました」


 「相変わらず話が早くて、本当に助かるわ。私、無駄って言葉が一番嫌いだからさ」

 

 「そうですか」


 アリスに連れられて辿り着いたのは里美メンタルクリニックだった。


 「今から、あんたの事、検査するわ。あんたが感情を失くした原因を究明(きゅうめい)する」


 本当は私一人でこんなことしたらダメなんだけどね。


 そう言いながらアリスは着々と準備を進める。


 「ここに寝転んでくれる?」


 「はい」


 人一人がちょうど寝転べるほどの大きさの楕円形(だえんけい)のカプセルの中で和宏は目を閉じた。


 小さな機械音が鳴り続けている。


 やがて、カプセルが開き


 「はい。お疲れ様。大丈夫? って聞く必要もないか」


 「はい」


 そして、改めて例の応接室にて


 「まず、やっぱりあんたはロボットだったわ。でね、感情が無い原因なんだけど」


 「はい」


 「あんたの心には、本来ならあるはずのAIがないのよ」


 「そうですか」


 「ごめんなさい。原因を究明するとか偉そうに言ってたのに……」


 「はい」


 和宏の返事を聞くなり、アリスは叫んだ。


 「あんたさ、何か言いなさいよ。分かってるの?」


 「……」


 首を捻る和宏。


 「あるはずのAIがないって事がどういう意味か分かる?」


 「分かりません」


 「あんたの感情は二度と戻ることはないのよ」


 「そうですか」


 「そして、それも私のせいなのよ……」


 アリスはカルテを見せた。

 

 「ここ見て、担当者のところ」


 『里美アリス』とあった。


 「ごめんなさい」


  そう言って肩を落とし、落ち込んでいる様子のアリス。


 「あの、アリスさん?」


 「何?」


 「僕のAIはもうないのですか?」


  「そうよ! そうよね。私ったら何をバカみたいに落ち込んでんだろ。ちょっとここで待っててね」


 何かを思い立った様子のアリスは部屋を慌てて出ていった。

 扉の向こうでバタバタと廊下を走る足音が聞こえる。



 残された和宏は窓際に立ち、外の景色を眺めていた。四階から見える夜景はとても綺麗で、点滅する灯りは命の(きら)めきのよう。


 六月も終わるというのに雨はほとんど降らず、いわゆる空梅雨(からつゆ)


 今日も空には大きな三日月が浮かぶ。


 詩織は記憶が戻るかもしれない。

 自分は感情が戻らないかもしれない。



 「ごめん。あんたのこと、忘れてた!」


 息を切らして戻ってきたアリスは舌をペロッと出して、おどけている。


 「そうでしたか」


 「あんたのAIの行方、調べたんだけど分からなかった。でもね、絶対に私が見つけ出して、あんたの感情を戻してあげるから」


 「はい」


 「それまでの間のことで、ちょっと提案というか、相談があるんだけど……」




 和宏が里美メンタルクリニックを出て、歩き始めて数分が経ったとき


 「ん?」


  和宏の脳天に水滴が落ちる。

 

 「雨か」


 ポツポツと降り出した雨はやがてザーザーという音に変わり、帰宅途中のサラリーマンやOL、学生、鞄やジャケットを傘代わりにしている人は足早に、ビニール傘を差す人は悠々(ゆうゆう)と()を進めていた。


 和宏はペースも変えず、雨も気にせず、歩く。


 例えば、記憶を失くしても、感情を失くしても、記憶が戻っても、感情が戻っても、和宏はきっとそのまま歩いていただろう。


 『あんたは雨の日が好きだったからね』


 母からそのことを聞かされたのは感情を失くしてからのこと。




 「あんたさ、ここで働く気はない?」


 「……?」


 「あ、ごめん、ごめん。私の仕事を手伝って欲しいの」


 アリスは和宏の感情を取り戻すため、詩織の記憶を取り戻すため、力を貸して欲しいと和宏に頭を下げた。


 和宏はきっと今も和宏のまま。


 変わってしまった。


 そんな風に人は言うけれど、きっと変わってしまったのは和宏だけではないだろう。


 感情を失くす前でも、アリスが頭を下げた願いは受け入れていたはずだ。


 雨が降るはずの梅雨が空梅雨だったり、あんなにも明るかった人が暗くなってしまったり。


 そんなことを受け入れ、認めることがきっと大切で。




 「分かりました」


 「ありがとう」




 もうすぐ季節は変わり、夏が来る。


 猛暑になるのだろうか、冷夏になるのだろうか、そんなそれぞれの思いを無視して、それでも季節は変わっていく。





 「暑いなぁ」


 詩織は化粧が落ちぬよう、慎重(しんちょう)に汗を(ぬぐ)う。


 「うわ。マジで」


 スマホの温度計を見ると38度。

 

 長期休暇を取り、詩織が訪れたのは実家のある街だった。


 今年は猛暑になるそうだ。


 記憶喪失は今の詩織には重荷ではなくなっていた。


 だって、頑張って働いてるし、友達も出来たし、もう立派に生きてるんだから。



 あの時の私とは違うの。



 病院へ行かなくなった理由は(あきら)めだったが、行かない理由は必要がないと感じているから、つまり自分自身の意志。



 もう私は大丈夫。



 そんな決意にも似た感情で、詩織は母に会いに行こうと、今ここにいる。



 二年近くが経った町の様子は、完全に様変わりしている場所もあれば、全く変わっていないとこもあり、新鮮な感動と、懐かしさが入り交じり、やがてその両方の感情を持って実家に辿り着いた。



 家出同然に家を飛び出して二年。

 父が家を出ていったのは覚えている。

 

 どんな顔で母に会えばいいのか。

 どんな顔で母は出迎えてくれるのか。



 きっと喜んでくれるよね。



 期待と不安を静めるように深呼吸してインターホンを押す。


 やがて、玄関の扉を開けて出てきた母は、すっかり老け込んでしまっており、知らずとも苦労のあとが滲み出ていた。


 「あ、あの、ただいま」


 絞り出した言葉への、母の返事は想像した不安を遥かに越えるものだった。


 「どちら様ですか?」



 え? どういうこと?



 「あ、あの、えっと……」


 不思議そうに詩織を見つめる目。

 その目も、顔も、声も聞き覚えがある。

 確かに詩織の記憶のなかで一緒に過ごした時間は一年ほどしかなかった。

 それでも、その間は少なくとも母親として察してくれていたその人が詩織を誰か認識出来ていない様子。



 そして

 

 ――この感覚も覚えてるよ……。

 

 ――私がママに言ったのと同じだ……。



 「あの、すみません。ご用は何でしょうか?」


 「いえ、何でもないです。すみませんでした」


 そう言って、逃げるようにその場を立ち去る。



 ――間違いない。あれは……記憶喪失だ。

 

 ――ママも私と同じ記憶喪失になってしまったんだ。


 ──どうして、ママが。



 無我夢中で走り続けた。

 頭に浮かぶのは、記憶が戻るように懸命に努力してくれていた母の姿。


 そして、そんな母に自分はどんな態度を取っていたか。


 心のどこかで自分は記憶がないんだから、仕方ないじゃない。と開き直っていた。


 心配してくれるのが鬱陶しくて、冷たく八つ当たりもした。



 すべては私は記憶喪失なんだから。



 そんなことを自分を守る盾にして、悲劇のヒロインを演じていた。


 分からない。なんて言ってたけど、分かっていたんだ。



 優しくしてくれていることは。



 「私、最低だ……」


 詩織は肩で息をし、膝に手を置き、ボロボロと大粒の涙を流す。


 「私、自分だけが寂しくて、辛いと思ってた。気付いてなかった。忘れてしまうことよりも、辛く悲しいことがあるって」



 それは、忘れられてしまうこと。



 「私、行かなきゃ……」


 詩織は何かを決意し、歩き出した。





 「あの、アリスさん? 僕は何をすればいいですか?」


 「あ、とりあえず私が何してるか見て覚えて。教えるの苦手なの」


 自分から手伝って欲しいとお願いしたにも関わらず、アリスは和宏に指示を出したりはしない。


 ただただ、アリスのそばで金魚のふんのように立ち尽くすだけ、そんな状況が早一週間。


 里美メンタルクリニックで働き初めてからの和宏の生活と言えば、日中はリハビリという名の街の徘徊(はいかい)、日が落ちてから出勤し、アリスの助手として病院を徘徊、帰宅は早朝。


 睡眠時間は??


 それは、アリスと和宏の両人に問い掛けたいところだが、等の本人たちはケロッとしていた。


 それもそのはず、和宏は感情を失くしてから、アリスは恋人を亡くしてから、ゆっくり寝れたことなど、ほとんどなくこんな生活を二年は続けていたのだ。


 仕事を終え、アリスはごくごく自然に語り始めた。


 「この世界にロボットって、たくさんいるんって前にも言ったよね?」


 「はい」


 「でね、そもそも何でロボットが必要かって話なんだけどね」


 「はい」


 「ここは元来はメンタルクリニック、要するに精神病院、精神を病んでしまった人の治療が目的なの。精神ってのは、心と脳ね」


 「はい」


 「人間の心ってこれぐらいの大きさってのも前に言ったよね?」


 アリスは握り拳を作って、差し出す。


 「はい。言いました」


 「この小さな中で日々色々な感情が動いて蓄積(ちくせき)される。言い方を変えればストレスってやつね。で、蓄積され続けると壊れてしまうって訳」


 「はい」


 「でもね、そう簡単に壊れてたら大変でしょ? 人間は壊れないために何をしてるかって言うと、忘れるの」


 「忘れる。ですか」


 「都合いいかもしれないけれど、嫌なことは忘れた方が前に進めることもあるじゃん?」


 そう言って笑顔を見せたアリスの真意など和宏には分かる訳はなかったが、反射的に得意の下手くそな笑顔を返した。


 「うん。それでね、人間の中には忘れるのが下手くそな人もいるのよ。あんたの笑顔みたいにね」


 「そうなんですか」


 「そんな人の治療をするのが、メンタルクリニック。そして、その中でも重症な人を助ける為に心と脳の機械化、つまりロボット医療が存在してる訳」


 和宏は重症という言葉が気になっていた。

 それは、自分と詩織が多大なストレスを感じていたということ。

 ただ、感情を失くした今、それが何かは思い出せなかった。


 そう、忘れてしまっていた。


 「でさ、ロボットになったからって、精神的なストレスから開放されるって事じゃないのね。定期的に心と脳の溜まったストレスを人為的にリフレッシュさせないと、結局人間と同じように心や脳は壊れてしまうのよ」


 和宏と詩織の、そのリフレッシュを担当していたのが、自分だったとアリスは言い、改めて頭を下げて謝った。


 「あんたもお金もらって仕事してるんだから、自分が何をしてるか知っときたいだろうなと思ってね」


 そう言って、アリスは今説明した訳を解説していたが、アリスが知らないはずない。


 ロボットの和宏がそんな感情を持っていないことは。


 「別にあんたの為に話したんじゃないから」


 と、強がって照れ隠しをしていたのは、何故だろうか。


 アリスは和宏との別れ際にこう言った。


 「これだけ、ロボットに触れている私でも、人間もロボットも別に見た目じゃ分かんないんだよね」



 里美メンタルクリニックを出ると、連日の雨が呼んできたのか、随分と風が冷たくなり、いよいよ秋が訪れようとしている。


 アリスからそんな話を聞いたからだろうか、和宏は詩織のことを思い出していた。


 ──今、何をしているのだろう。





 セレクトショップで働くようになって、詩織の服装は記憶を失う以前に戻っていた。


 もちろん、本人は気付いてはいないが。


 大きめのお団子の付いた黒のニット帽を被り、カーキのロンティーに淡いエンジ色のロングスカート、足元は派手目な柄のスニーカー。


 そして、コーディネートを写メで撮影。


 いつかまた記憶を失くしてしまうかもしれない。


 それは、ネガティブな感情ではなく、もしも、忘れてしまった時に自分で自分を思い出せるようにと始めたことだった。


 自分なりに記憶喪失と向き合い、何とか克服しようと努力を始めていた。


 そこには、記憶を失くしてしまった母の姿が影響していたのは言うまでもない。


 夏の間に詩織は母の病状を確かめるべく、病状を探し、辿り着いた担当している医者から自分が肉親であるということ、記憶喪失であることも説明した上で、病状を聞いた。



 解離性健忘症。


 過度なストレスなどで大切な物、人だけの記憶を失くしてしまう。



 いつか、同僚の桑島舞の友人の母親と同じ。


 舞に確認したところ、今は記憶を取り戻しているそうで、それは詩織の希望にもなっている。


 「詩織ちゃん。前に聞いてたの分かったよ」


 「え? ほんとに? 舞ちゃん、ありがとう」


 「ううん。気にしないで。詩織ちゃんのお母さんもその病院に行けばきっと良くなるよ」


 「ありがとうね」


 「そんなお礼とかいいってば。あ!でね、病院の名前だけど……」


 詩織は出掛ける準備を終え、家を出た。


「里美メンタルクリニックって病院だよ」


 手にしっかりと紹介状を握り締めて。





 午前中の回診を終え、昼食を採ろうとロビーを歩いていると、自分が探し続けていた人物が目の前でキョロキョロと辺りを見回していている。


 アリスは自分の目を疑った。


 それは、まるで自分を探しているのではと錯覚してしまうほど。


 「あのどうされました?」


 アリスは心を静め、つとめて冷静に話し掛ける。


 「あ、あの、これ」


 詩織は紹介状を目の前の若い白衣の女性に手渡す。


 ──よし、間違いない。


 「あ、こちらへどうぞ」


 アリスは詩織を診察室へと案内した。


 「あの、受付はいいんですか?」


 「その紹介状を持参された方には優先的に診察させて頂いてるんです」


 それは嘘だった。

 この状況でこんな嘘を気にするアリスではない。 


 「本日はどうされました?」


 改めて、医者らしく毅然とした態度で詩織に向き合う。


 「あの、これを見て来たんです」


 「紹介状ですね。はい。間違いなく当院です。ご紹介が遅れました、私、里美メンタルクリニックの里美アリスと申します」


 「え? 里美……って……」


 「あ、当院の院長が私の父なんです」


 「そうなんですね。ビックリしました。そんなお若いのに院長さんなのかと思いました」


 アリスは笑いそうになるのを必死で堪えた。


 ――普通、娘だって想像するでしょ?


 美作詩織さんだ。あいつから聞いてたとおり、ちょっと抜けてるけど、可愛い人だなぁ。


 「親の七光りですよ」


 「そんな謙遜(けんそん)しないで下さい。そんなにも若いのにお医者さんなんて……。すごいです」


 ――実際は研修医なんだけどね。


 もちろん、その事は言わないアリス。


 「ありがとうございます。では、お名前を伺ってもよろしいですか?」


 「はい。美作詩織と言います。美しいに作る、言偏(ごんべん)に寺で詩、織物の織で、詩織です」


 ──やっぱり詩織さんだ。ようやく会えた。


 「早速なんですが、美作さんは意識障害健忘症(いしきしょうがいけんぼうしょう)という名前で、かなり珍しい病気になります」


 「はい。確か、前の病院でもそう診察された記憶があります」


 そう言って、俯く詩織。

 その様子から全てを察したアリスは


 「ご安心下さい。記憶は戻りますよ」


 「え?」


 期待はしていた。覚悟もしていた。でも、正直、不安だった。


  もう記憶は戻らないかもしれないって。


 「先生、それって嘘じゃないですよね? 信じていいんですよね? 私を安心させようと言ってるだけじゃないですよね?」


 詩織は必死だった。今まで信じては裏切られ、信じることをやめても、傷付き続けてきた。


 「はい。私に任せて下さい。美作さんの記憶は戻ります」


 その言葉に再度黙り混み、俯く。

 やがて、(せき)を切ったように溢れ出す感情。


 「何で……何で今なんですか……。今まで辛かったよ。寂しかったし、悲しかった。もう死んじゃおうと思った日もあったんです。駅のホームに立って、そのまま飛び込んでしまうと思って……」


 とめどなく溢れる詩織の心。


 「でも、その時にあの人と出会って……。それから何とか生きようと頑張ってたのに、逃げちゃって……。で、今度は母が記憶喪失になってしまって。もう、ここしかないと思ってたんです。でも、でも……不安だった」


 詩織が大粒の涙を長し、その姿を見て、アリスも感情を堪えることが出来なかった。


 「でも、私は生きてる。生きてますよね?」


 「はい」


 「生きてて良かった。あの時、死んだりしなくて良かった……。先生、ありがとうございます」


 アリスは自分のせいで、ここまで苦しめていたことを告げることは出来なかった。

 それは、実は自分が本物の医者ではないと告げることなどが小さなことだと思わせるくらいに。


 詩織は自分の記憶が戻ることを喜ぶと共に和宏のことを思い出していた。


 ──記憶が戻ったら、あの人に会いに行こう。


 「あの、先生?」


 涙を拭いながら、詩織はアリスに告げた。


 「私、記憶が戻ったら会いたい人がいるんです」


 「そうなんですか」


 その時の詩織の笑顔はアリスは一生忘れないだろう。


 「はい。私の初恋の人なんです」


 「そうですか。きっと会えますよ」


 あまりにも悲しい事実を知るアリスの心は張り裂けそうだった。

 詩織の笑顔が眩しければ眩しいほどに。


 そこから、アリスは記憶を取り戻すための説明をした。

 

 三日後に簡単なオペをし、そこからは膨大な記憶への拒否反応が出ないようにリハビリをする。と。


 三日後のオペ以外は嘘だった。


 脳のICメモリーを取り付けるだけの簡単なオペ。

 時間にしても三十分ほどで完了し、詩織は記憶を失くす前に戻る。


 つまり、この説明はあくまでも詩織を安心させるため。

 

 現在の詩織のICメモリーと、アリスが持っている記憶を失くす前のICメモリーとを入れ替えるのだから、この説明も覚えてはいない。


 記憶を失くしてから、今日までの事は全て忘れてしまう。


 アリスはこの事を告げることは出来なかった。


 「では、美作さん。三日後に手術をします。ご家族のかたに同意書を書いて頂きたいのですが」


 「すみません。母は記憶を失くしてて……。同意書がないと手術は出来ないんですか?」


 「そうでしたか。いえ、大丈夫です。ご自分のサインでも結構です。あと、美作さんの病気は難病指定されてますので、料金もほんとうに少額で済みますし、ご安心下さい」


 「ご丁寧にありがとうございます。記憶が戻るのが嬉しすぎて、お金のこととか考えてなかったです」


 「では、改めて手術について説明させて頂きますので、ご理解頂けましたら、この同意書にサインをお願いします」


 アリスは嘘の手術の説明をしている。

 その間も、脳裏には和宏のことが浮かんでいた。


 ──詩織さん、ごめんなさい。


 「とまぁ、こんな説明を聞いてもよく分からないですよね? ただ、手術自体はとても簡単なものですから」


 目を丸くして首を捻る詩織。


 「え? そうなんですか。何か逆に不安なんですけど、本当に大丈夫なんですかね?」


 「えぇ。医学は原因不明という言葉が一番の難点なんです。難病だからと言って、原因さえ分かれば治療法は簡単なものなんですよ」


 そう言ってアリスは嘘をつき、心からの笑顔を見せた。


 詩織は足取り軽く里美メンタルクリニックを跡にした。


 何度も何度もアリスに頭を下げてから。



 記憶が戻ったら、お母さんの記憶も戻るように頑張らなきゃ。

 舞ちゃんや、向井店長にも話そう。

 とても心配してくれてたから。


 そして……。


 和宏さんに会いに行こう。


 もしかしたら、彼も感情が戻ってて、彼女さんが居てるかもしれない。

 でも、それでもいい。


 会って直接伝えたい。


 ありがとう。って。




 和宏が街を歩いていると、アリスからメールが届く。

 文面を確認し、和宏は少し歩くスピードを早めた。


 「アリスさん、どうしました?」


 アリスが和宏を呼びつけ理由は一つしかない。


 「今日、詩織さんが来たの」


 「そうですか」


 「詩織さんの記憶は戻るわ」


 「はい。そうですね」


 「このICメモリーを詩織さんに取り付けたら、記憶は戻るの」


 「はい。分かってます」


 「そしたらね、詩織さん、とても喜んでたよ。嬉しそうに言ってた」


 「はい」


 「あんたに会いたいって言ってたよ……」


 そう言って、泣き崩れるアリス。


 「そうですか」


 「でも……でも、もう会えないじゃん」


 「会えますよ」


 「何言ってんの? バカじゃない? 詩織さんの記憶が戻るってことは、あんたの記憶が失くなってることって、分かってんでしょ!?」


 「はい」


 「私はね、二度も詩織さんの記憶を奪おうとしてるのよ。この気持ち、あんたに分かる?」


 「分かりません」


 「そうよね。あんたには感情がないんだから!!!!」


  「はい」


 机を叩き、感情的に大声をあげるアリス。


 「あ、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。あんたが悪いんじゃないのに、本当にごめんなさい」


 「いえ、謝らないで下さい」


 涙でグシャグシャになった顔でアリスは言う。


 「あんたもさ、ちょっとくらい辛いって言ってよ……。ねぇ? お願いだから」


 「ごめんなさい。僕には感情がないので、辛いとか分からないです」


 「分かってる……。分かってるよ。分かってるからって、納得出来ないこともあるの」


 アリスは和宏に近付き、顔に両手で触れる。


 「どっからどう見ても人間と変わらないのに、ロボットなんだもんね。どっからどう見ても、人間と変わらないのに、感情がないんだもんね」


 「はい」


 「意味のないことかもしれないけれど、最後の確認ね。私、詩織さんの記憶を戻すわ。それでいいの?」


 「はい。詩織さんもそれを望んでいたので」


 和宏はそう言って笑った。


 「分かった」





 三日後、詩織は手術台の上で横になっている。


 アリスはいつもの白衣から手術着に装いを変え、(かたわ)らには父の姿。



 記憶が戻ったら、あの人に色々話そう。

 でも、きっとあの人は、素っ気ない返事しかしないんだろうな。


 それでもいい。


 で、次はあの人の病気が治るように頑張ろう。

 でも、もしかしたら、もう治ってるかもしれないよね。

 で、やっぱり彼女が出来てるかも……。

 彼、ルックスはいいもんね……。


 いや、今はそんなこと、考えないでおこう。


 やっと記憶が戻るんだから……。



 全身麻酔が効いてくると共に徐々に弱まっていく意識、頭の中に浮かぶ色んな景色。


 それはまるで死ぬ前に見える走馬灯のようだった。




 「では、これより美作詩織さんのオペを始めます」




 詩織はゆっくりと目を開けた。

 そこには見慣れない景色。


 「え? ここは、病室……何で?」


 「あ、目を覚まされましたか?」


 「えっと……私、何でこんなとこに?」


 アリスは事の成り行きをゆっくりと丁寧にショックを与えないように詩織に伝えた。


 「そうだったんですか」


 もちろん和宏の存在は伝えることなく……。


 「あの、何というか、ありがとうございます。まさか、自分が記憶を無くしてたなんて……。ちなみにどれくらいの期間なんですか?」


 「そうですね。詳しくは分からないのですが、三年ほどになると思います」


 「三年も……。その間、私はどうしてたんでしょうか?」


 「すみません。詳しくは分からないのですが……」


 事前に聞いていた詩織の話から、職場のこと、家族のこと、を伝えた。


「そうだったんですね……」


「急には受け入れられないですよね? どうです? 少し、外の空気にでも触れてみてはいかがですか?」


 アリスは優しい笑顔で気分転換を薦めた。


 「そうですね。三年も寝てたようなもんですもんね」


 「そうですね。私もご一緒させて頂きます」


 詩織とアリスは一緒に病室を出た。


 「わぁ。今は春なんですね。私が覚えてるのが春なんで、本当に記憶を二年も無くしてたのが嘘みたいです」



 詩織がオペを受けたのは十月のこと。


 記憶の入れ換えという事象は前例がなく、術後のリハビリは思った以上に困難を極め、その間、アリスは事の成り行きを父に改めて話し、こっぴどく怒られ、父、看護師、スタッフの協力のもと、ようやく半年間の眠りから目を覚まし、詩織の記憶は戻ったのだった。



 「そうでしたか。今年の春は暖かくなるそうですよ」


 「そうなんですね。私、読書が好きなんですよ。こんな日はベンチでゆっくり本でも読みたいな」


 詩織が辺りを見回すと、一人ベンチに座り読書をしている男性に目が留まる。


 「そうなんですね。読みます? 私ので良ければお貸ししますよ?」


 「え? でも、いいんですか?」


 「もちろんですよ。ちょっと待ってて下さいね。取ってくるので」


 「はい。わざわざ、ありがとうございます」


 「ちょっと! 宇木さん!」


 アリスは大きな声でベンチに座り本を読んでいた和宏を呼んだ。


 その声に反応した和宏は、ゆっくりと二人の元へと歩いてくる。


 「あれ、うちのスタッフなんですけど、ちょっと訳ありで……」


 「あ、そうなんですか……」


 ──ん? 訳あり?


 「あ、宇木さん、こちら美作詩織さん。記憶喪失で入院されてるの。分かるわよね?」


 「はい」


 「で、今から美作さんに本を取ってくるから、お願いね」

 

 「分かりました」



  アリスはそそくさとその場を立ち去った。

 残された和宏と詩織。



 「あ、あの、初めまして。美作詩織と言います」


 「宇木和宏です」


 そう言って、少し頭を下げた和宏。


 詩織は和宏が片手で抱えていた本を見て


「宇木さんは読書がお好きなんですか?」


 「いえ、これは本ではないんです」


 「え?」


 「これは、日記なんですよ」


 「日記……ですか……」


 ──何か、不思議な人だな。


 「とりあえず、座りましょうか?」


 和宏はベンチに視線を送り、詩織を促した。


  「あ、そうですね」


 二人、並んで座る、和宏と詩織。


 「記憶が戻ってどうですか?」


 「そうですね。何か、正直言うと実感がないんです。三年でしょ……。記憶が戻ったというより、三年間の記憶喪失になったみたいで……」


 「そうですか」


 「はい。その三年の間に何があったのか、里美先生から、職場のこと、家族のことは聞いたんですけど、それも信じられなくて。特に父と母が離婚をしていて、母も記憶喪失になっているなんて……」


 「そうだったんですね」


 「はい……。あ、ごめんなさい。私、初対面の方にこんな話してしまって」


 「いえ、大丈夫ですよ」


 そう言って、和宏は笑顔を見せた。




 そんな二人の様子を院内の窓から見つめるアリス。


 「もう。ちゃんとやりなさいよ。あいつ……大丈夫かな……」


 「アリスちゃん。何してんの?」


 「え?」


 後ろから不意に声をかけたのは、ベテランの女性看護師、奈良静江だった。


 「あ、あの……。すみません。すぐに業務に戻ります」


 「何ビビってんのよ。もうそんなにビクビクしないでよ」


 「いや、でも……。私、みんなに迷惑かけたし……」


 「まだそんなこと言ってんの? もう院長に怒られたんでしょ?」


 「そ、それはもう……。はい」


 「じゃあ、いいじゃない。アリスちゃんがしたことは許されないことだけど、もう過去の話。そうでしょ?」


 「はい。忘れません」


 「そうね」


 そう言って、アリスの頭を撫でた静江。


 「ありがとうございます。では、業務に戻りますね」


 歩き出そうとしたアリスを静江は呼び止めた。


 「向こうは院長がいるから、大丈夫。アリスちゃんが今しないといけないのは、あっちでしょ?」


 静江はベンチで話す和宏と詩織を指差した。


 「そうなんですよ。あいつのこと、心配で心配で……」


 「宇木くん、何かと言葉足らずと言うか、不器用と言うか……。だもんね」


 苦笑いの静江。


 「そうなんですよ。何か、自分のこと、癒し系とか言ってたけど、全然ですよ!」


 「意外と、今の宇木くんが本当の彼なのかもよ」


 「そうかもしれないですね。あいつも、色々あったんだろうな」


 「まぁ、想像だけどね。それよりも、宇木くん、よくアリスちゃんの言うこと、受け入れたわね」


 「え!? あ、ま、まぁ、そうですね」


 露骨に焦る様子のアリス。


 「もしかして、宇木くん、知らないの?」


 「えっと……ま、まぁ、そうですね」


 やれやれ、と言った様子の静江。


 「ま、今回はお咎めなしにしましょ」


 「え? いいんですか?」


 「だって、ほら。あれ見ちゃったら、アリスちゃんを責めれないもの」


 


 詩織はあまり口数の多くない和宏との空間から正直言うと、逃げ出したかった。


 ──里美先生、早く戻ってきてくれないかな……。


 「美作さん?」


 「え!? は、はい」


 和宏の突然の問い掛けに詩織は驚いた。 


 「僕は感情がない病気なんです」


 「え? 感情……ですか?」


 「はい。ここで治療を受けながら、里美先生のご厚意で仕事もさせてもらってるんです」


 ──確かに、訳ありだ。


 「そうだったんですね。あの……その病気は治るんですか?」


 「里美先生は治ると言ってました」


 「そうですか。良かったですね」


 「いや、僕には感情がないんで、そんなことも思えないんです」


 「あ、そうか。ごめんなさい」


 「いえ、大丈夫です。もう慣れてますから」


 ──そう言われても……。私が慣れないよ……。


 「あの、これ」


 和宏はおもむろに詩織に日記を差し出した。


 「え? あ、あの、どういうことですか?」


 詩織の方を見ずに和宏は言った。


 「この日記はあなたの日記なんです」


 詩織が目を落とすと、そこには「美作詩織へ」の文字が。


 「ごめんなさい。意味が分からなくて……」


  そう言いながらも、詩織はとりあえず和宏が差し出した日記を受け取る。


 「……」


 何も言わない和宏。

 詩織が恐る恐るページを開くと……。


 「え。嘘。何これ……」


 そこには、和宏と詩織が過ごした日々が詰まっていた。


 最初は目の前の無口で、無愛想な感情の見えない男が無造作に差し出した態度、そしてその日記に不審感を抱いていた詩織だったが……。


 「これ、私だ……」


 「もう、あなたは忘れたりしないから、大丈夫」


 和宏の言葉に詩織は言葉が出なかった。


 和宏と詩織が出会った二年前のあの日、自ら命を絶とうとした詩織を救った和宏。

 それから、和宏の家で詩織が話したこと。


 それら全てを和宏は記憶し、日記に書き留めていたのだ。


 「私、あなたに救われてたんですね」


 「そうみたいですね」


 肩を震わせ泣きじゃくる詩織は手を滑らせ日記を落としてしまう。

 すると、するりと日記から何かが抜け落ちた。


 「あれ。これは……」


 「はい。これは栞です。今を忘れないための栞です」


 両手で顔を覆い、泣き崩れる詩織。





 「あぁ。大丈夫かな」


 「きっと大丈夫よ。もう二人の心にはAIがあるんだから」


 そう言って笑う静江、黙って頷くアリス。


 「さ、アリスちゃん、院長のとこに行くわよ」


 「え? どうしてですか?」


 「決まってるじゃない。アリスちゃんが宇木くんに黙って、彼の心にAIを取り付けたことを報告しに行くのよ」


 「え? さっきはお咎め無しって……」


 「私からお咎めは無し。でも、院長にはしっかりと伝えさせてもらうわ」


 「えー」


 「えー。じゃないの。さ、行くわよ」


 「はい……」





 実は詩織の脳に取り付けられていたのは、和宏のAIだった。

 恋人の死で動揺したアリスは、リフレッシュ作業を終えた詩織のICメモリーと和宏のAIとを誤って取り付けてしまい、詩織の記憶を取り戻す際に取り出したAIを和宏には黙って、元に戻しておいたのだった。


 なぜ、黙っていたかと言うと。

 和宏にAIを取り付ける提案をすれば、こう返事したはずだから。


 「僕には感情がないので、アリスさんに任せます」


 二人のロボットはこれからゆっくりと思い出していく。一度は忘れてしまった、誰かを好きになるということを。


 でも、もう大丈夫。

 二人の心にはAI(愛)があるのだから。


 そうして、物語は続いていく、そっと開いた次のページ。


 これは、あの日、君に送った未来の栞。

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