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……この人は鬼だ。
僕は肩で息をする。
「もう、夕方の五時ですよ。夕方には返してくれるって約束じゃないですか」
「ふむ、あと一時間あります。一時間あれば、まだまだ練習できますね、ではそろそろ今日の仕上げにとりかかりますか」
そう言うと、手を上げ二回叩いた。
その合図を機にドアが開き、次から次へと人が部屋へと流れ込む。
そして、それぞれが皿の前へと座る。
最後の一人が座り終えた時、料理が運ばれてきた。
それが目の前で華麗に盛り付けられていく。
「何なんですか、これは」僕は目を白黒させた。
「従業員たちをお嬢様のお友達に見立ててあります。当日のパーティーと同じように、料理を食べ、飲み物も飲んでもらいます。グラスの飲み物が少なくなった時、ナプキンなどを落としてしまった方に対しての対応、いかにそつなく迅速に動けるか。練習の成果を見せてもらいます、それではいきますよ」
そう言うと、手を高く上げもう一度叩いた。
目の前の人たちが機械のように一斉に動き出す。
異様な光景だ。
僕はその光景に目を奪われた。
「練習でここまでするのか」
身動き出来ずにいると「このままでは不合格ですよ」吉川さんが厳しい顔で言った。
この時のこの光景が、僕に執事としての覚悟を決めさせた。
僕は深呼吸した。
まず、全体を見る、そして一人一人に目をやる。
一番端のテーブル、もう飲み物がなくなりそうだ。
僕は飲み物を注ぎにそこへ向かう。
途中、手前の人がナプキンを落とす。慌てることなく新しいものと取り替える。
歩く時には肩を下げずに……。
目はつねに休むことはない。糸を張るように会場全体に気を配る。
その後、六時ちょうどになるまでこの大掛かりな練習は続いた。
吉川さんが手を叩く。
「宜しい、ぎりぎりで合格ですな」
僕はその瞬間、緊張の糸が切れて床に倒れ込みそうになった。
「まぁ、合格といってもぎりぎりですから。これでしっかりと復習してください」
そう言うと、どこからか山積みになった冊子をもってきた。
表紙には『執事の心得』と書かれ、㊙と記されている。
「ここには、今日練習したこと、また今後学ぶべきことが載っています。来週までに、頭に叩きこんでくること。良いですね?」
するどく吉川さんの目が光る。
「はい……」
僕は、ガックリと肩を落とした。
「あら、吉川と練習してたのね」
彼女がメイを伴い現れた。その手をメイが舐める。
「厳しかったでしょう、実は『鬼の吉川』って密かに呼ばれてるのよ」
耳元で彼女が囁く。
僕は耳が熱くなった。
近くで感じた彼女の髪からは、シャンプーの香りがした。
「では、家まで送りましょうか」
その一言で、僕の長い一日は終わった。
家に帰って布団に倒れ込んだのは、言うまでもない。




