第7話 一方通行の選択肢
人間というのは恐ろしいものである。まだ『女体化』現象の発生から、まだそんなに時間が経っていない。しかし、俺自身がこの生活に慣れてきていると思ってしまった。
だが、現実はあまり甘くない。俺の心の中には、やはり男の部分がある。そのために足の開き方や座り方が男っぽくなっているのだ。特に間違えそうになるのがトイレ。あれは本当に危ない。俺は今まで当たり前の様に男側へ行っていた。それが当然だったからである。しかし、今はそうじゃない。女側へ行かなくてはいけない。ただ、その中で思うことがある。もし俺が本当は男なのだとばれてしまったら場合、どうしようかと考えてしまうのだ。今のところ、まだばれたことはないが。
ただ、もしばれているとしても、そんなことを言うわけがないとも思った。
それに加えて、悩みが増えてしまった。今回は今までのような小さな悩みではない。今考えると、昔抱えていた悩みは、ほんの些細なものだったと思える。
昨日の俺の体調不良はあれからくるものではなかった。それに似た症状が出たのは、ホルモンバランスが乱れていたからだという。体は完全な女の体ではないのに、なんでこんな症状が出るのだろうと思った。それと同時に、体は中途半端な状態なのだということを改めて実感させられた。
早坂先生いわく、俺の今の体の状態は非常に危うい状況なのだそうだ。他人事のように話す理由はただ一つだけ。そんな実感がないからだ。『ホルモン投与』というものをしたほうがいいらしい。しかし、本当にいいのだろうか。また、それと同時に体に一度でも直接的なホルモン投与をしてしまうと、完全には元の体に戻れなくなるということも聞かされた。つまり、後戻りできない。不可逆的行為なのである。俺の今の体はほぼ中間のような状態のため、男性ホルモンか女性ホルモンを早く打たないといけないらしい。このままでは危ないと先生は言っていた。それがどれほど危ないものなのかはわからない。しかし、この選択は俺の将来を決めるものなのだろう。
これは急いで結論を出さないといけない問題なのである。
確かに何度か女になりたいと思ったことはある。ただ、もう元の体には戻れないという覚悟を持ってのことではなかった。軽い気持ちだけだった。つまり、あくまでもファンタジーの世界として考えていたのだ。
しかし、今は違う。これからの人生を男として生きたいのか女として生きたいのかというものである。このような選択肢が人生の中であってもいいのだろうか。出来れば、このような選択はしたくなかった。まだ子どもな俺には重過ぎる問題であった。俺がこの話を母にした時にこう言われた。『自分のことは自分で決める。でも、後悔だけはしないでね』と。それには俺も同感だった。たった一つの人生だ。その中で後悔はできるだけしたくない。もう、後悔はしたくない。だからこそ、慎重に考えたい。きちんと自分の中で結論を出したい。
早坂先生にはこのことを話して、とりあえず1日だけ待ってもらう事になった。たった1日ではあるが、真剣に考えることにした。自分自身と向き合うことにした。
こんな時間を作ったのは多分初めてのことだった。『自分がこれからどう生きるか』なんて考えたことがない。当然のことであるが、この問題に絶対的な正解は存在し得ない。もし、『私は完璧な人間だ。今までの人生の中で後悔はない。失敗もない。成功しか成し遂げてこなかった』という人物がいれば、ぜひ紹介してほしい。そのような人物がいるならば、その方は人造人間、もしくはロボットの可能性が高いだろう。
つまり、この世界には完璧などないのだろう。
結局、その日は眠ることができなかった。その状況はまるで『あの日』のようであった。立場こそ逆転しているものの、そっくりであった。あの時のことを今でもはっきりと思い出すことができる。もちろん自信は全くない。
朝起きて下に降りると、そこに七海の姿はなかった。もう学校へ向かったのだろうか。
「あなた、夜寝てないでしょ」
母はやはりエスパーか何かなのだろうか。心の中を見透かされているようで怖いのだ。他人にもこんなことをしているのだろうか。変人扱いされていないか心配である。
「一睡もしてない」
別に隠すようなことでもなかったので、そのまま答えた。母は予想が当たって、少し嬉しそうだった。そんな予想が当たっても、どうしようもないと思うのだが。もっと、当てるなら宝くじとかのほうが喜ぶと思うのだが。もしかして、人の心の中しか予想できませんとか言い出すのではないだろうか。下手な隠し事は出来るだけ避けよう。
「どっちを選んだの」
母はこの話に何故かノリノリであった。この人も武弥のような趣味を持っているのだろうか。二人きりで話をさせてみると、いい化学反応が起きるのではないだろうか。今度、機会があれば提案してみようと思う。
「女になるよ」
俺がそういうと、母は何かを悟ったような顔をしていた。母と俺を囲む空気が一変した。何かおかしいことを言ってしまっただろうか。その顔は苦しそうであった。あまり見たくない表情であった。
それまでのテンションの差が大きかった。一体、母の中で何が起きてしまったのだろう。
いつも通りに俺は学校へと向かった。ほんの少し前まではあり得なかった、女子高生としての登校だが。ちなみにだが、この高校は女子制服がブレザーである。男子制服も一緒だ。しかし、当然のことながら大きく違うところがある。ズボンではなくスカートであるということ。まだ恥ずかしさが無くせていない。だから、どうしても不自然な動きをしてしまうのである。自覚はあるが、直すことができない。いつかこの話も笑い話に変わるのだろうか。変えることができるのだろうか。
保健室に行くのは放課後にした。そのほうが時間的に余裕ができるからだ。
余裕ができるといっても、その間は集中することなんてできなかった。授業中も全く先生方の話を聞いていなかった。もちろん板書も写していない。そんなことを気にする余裕なんてなかった。
放課後が来るのはあっという間であった。終礼が終わると、俺はすぐに保健室へと向かった。早坂先生は俺が来るのを心待ちにしていたかのようだった。先生の準備は満タンであった。
「じゃあこれとこれね。四錠ずつでいいわ」
俺は変な汗をかいていた。緊張していたのである。ホルモンの投与と言っていたから、てっきり注射だと思っていた。しかし、錠剤らしい。ただ、不安は無くならなかった。これを飲むことによって、自分が自分でなくなるような感じがした。得体のしれない固形物を口にするのだ。しかし、俺は決心したんだ。
普通の女子高生になると。
風邪の時に飲む薬のように飲んだ。味はなかった。のどに引っかかるようなこともなかった。徐々に効果が出てくるらしい。俺は心のどこかで、『女の子に近づけるんだ』という気持ちがあった。そう思うと嬉しかった。何故うれしいのかはよくわからなかった。
終わったと感じたが、これは始まりだった。これからはずっとホルモン剤の摂取を継続しないといけない。死ぬまで毎日である。そして、体内の女性ホルモン濃度を急激に増やすため最初は体が慣れず、体調が悪くなりやすいといわれた。これも覚悟の上でしてもらった。ただ、俺の場合は元から女性ホルモン濃度が基準値より高いため、大丈夫でしょうと言われた。これからは『女体化』がさらに進むのだろう。
片道切符の生活がもうすでに始まっていたのである。