第62話 雨はいつあがる?
六月といえば、私が思い浮かべるのは雨が多いということだ。ちょうど梅雨の時期なのだ。
それはただ雨が多いだけじゃない。湿気も多くなっている。つまり、朝の支度が大変なのだ。
「時間がないよ。どうしよう」
下から『もう8時過ぎてるよ』というお姉ちゃんの声が、かすかに聞こえているような気がした。時計を見ると、確かに過ぎていた。
髪の長い人なら分かると思うけれど、どうしても整えられない日がある。例えば、今日みたいな湿気の多い日。こんなに頑張って髪の毛に働きかけているのに、髪の毛は応えてはくれない。
「あら沙希。まだ髪整えているの? 遅刻しても私は知らないからね?」
いつの間にか、お姉ちゃんが二階に来ていた。この様子だと、今日は仕事が休みみたいだ。
「わかってるよ。でも、そろそろ出ないとさすがに遅刻しちゃう」
時計の針は、なぜ止まってくれないのか。そう思っていたこともある。だからといって、止まってしまうとそれは問題発生の合図である。なぜなら、それは故障を意味するから。
前日に用意していたおかげで、あとはかばんを持って家を出るだけだった。
「行ってきます!」
「はーい。気を付けてね」
お姉ちゃんに見送られるのは、なんだか久しぶりな気がした。
治療の副作用のことなんて忘れて、私はただ学校に向かって走っていた。もう間に合わない。頭の中では気付いていたけれど、諦めたくなかった。
「あれ、沙希だよな?」
「武弥?」
後ろから誰かが追いかけてきているとは思っていたけれど、まさか武弥だとは思っていなかった。
そこからしばらくは武弥について行くことにしていたけれど、途中から徐々に私の速度が落ちていることに気付いた。
「遅かったら置いていくぞ」
「いいよ、別に。先に行ってくれてもいいよ」
置いていくなんて言いながらも、武弥は最後まで一緒の速さで走ってくれた。教室に入ると、先生にすごく怒られたけど、そんなことはどうでもよかった。
やがて休み時間になり、教室がざわついていた。みんな友達同士で楽しく話しているのだ。だから、私も武弥に話しかけることにした。特に問題はないと思う。
「ねえ、武弥」
「どうした?」
「なんで今日の朝のとき、私に合わせて走ってくれたの? あの時間だと、武弥の走る速さなら遅刻せずに済んだよね?」
武弥は私よりもっと速く走れるはずだ。なら、私を置いていけばよかったのにと思っていたのである。
「あの状況で沙希のことを置いていけるわけがないだろう」
なんでこんなに武弥は優しいのだろう。こんなの誰だって、自分に好意を寄せてくれてるんじゃないかって思うよ。本人は、何も自覚していないのだと思う。
きっと、誰にだって優しいのだろう。私にだけ優しくしてくれているわけじゃないと思う。そう分かってはいるのだけれど。それでも、武弥は私を特別扱いしてくれている気がする。
「もうすぐだ。やっと、あの日の続きが出来るんだ」
放課後になり、私は誰もいなくなった教室にいた。家に帰りたくないと思ったのは、これが初めてじゃない。
「武弥、まだあの日のこと覚えてるのかな」
セーラー服事件のことは、忘れたくても忘れられない。いや、忘れたくない。あの時、初めて武弥は私のことを可愛いと言ってくれた。もう何年も前の話だけど、よく覚えている。
恥ずかしいという気持ちと嬉しいという気持ちがかみ合わず、あの時の私は混乱していた。
気が付くと、日が傾き始めていた。それに、黒い雲が空を覆っていた。今日の天気予報見るの忘れていたから知らないけれど、これから雨が降るかもしれない。
「そろそろ帰ろうかな」
雨が降る前に、とりあえず学校を出ることにした。
まだ下校時刻にはなっていないけれど、今日は学校に残っている人は少ないのかもしれない。廊下はとても静かだった。私の足音だけが、廊下に響いていた。
生徒玄関につくと、見慣れた姿があった。
「武弥、今帰り?」
「沙希か。そうだけど、なんで残っているんだ?」
そう思うのも無理はない。武弥は、用事がないとさっさと帰ってしまう人だから、私の今の状況を理解できないと思う。
「なんとなく……かな」
「そうか。あ、雨降ってきたな」
私の予想は外れてしまった。学校を出る前に、雨が降り始めてしまった。
「どうしよう。お姉ちゃん呼ぼうかな」
お姉ちゃんに傘を持ってきてもらえば、ずぶ濡れにならずに済む。今日は家にいるはずだから、電話してみようかな。
そう思い、私がかばんから携帯電話を取り出そうとしていると、武弥がこんなことを言い出した。
「な、なあ沙希。俺、折り畳み傘持っているんだけど、一緒に使うか?」
私はそれほど驚かなかった。今のこの状況なら、きっとそう言うだろうと思っていたからである。
「じゃあ、その言葉に甘えようかな」
少し恥ずかしかったけれど、相合い傘で帰ることになった。
お互いの肩と肩が触れ合うくらいに近づくなんて、いつ以来だろう。女の子同士なら日常茶飯事のことだけれど、男の子とこんなに近づくなんてことはなかったかもしれない。
恥ずかしがっていたのは最初のうちだけで、途中からはあまり気にならなかった。むしろ、相手を濡らさないようにできるだけ近づいていたくらいだった。
「ありがとう。家の前まで送ってもらってごめんね」
「そんなことないよ。風邪ひかないようにな」
「それは武弥もだからね?」
あえて別れの言葉は使わず、私は玄関に向かった。
玄関に着いて後ろを振り向くと、武弥が遠くに消えていく姿が見えた。薄暗くなった路地の向こうへと消えていった。
ねえ、武弥。雨はいつあがる?