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私には性別がありませんでした  作者: 六条菜々子
第6章 無意識的から意識的へ
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第58話 越えられない壁

 私は今日中に診断書を作ってくれるという先生の対応に驚いた。しかも、今すぐに書いてくれるのだそうだ。

 その好意に甘えつつ、それが来るのを待っていた。


 通常の病院とは少し違うここは、一般的には高度医療施設という扱いになっているらしい。そのためか、ほかの病院と比べると、診察に人が少ない。どちらかというと、診察というよりも検査という人が多いのだろうか。通常の病院ではできないような細かい検査も取り扱っているらしい。

 だからだろうか。待合室は静寂に包まれていた。誰かが歩く音、ペンを紙に走らせる音、誰かと誰かがこそこそと話す声。そのすべてが私の耳に入ってくるかのようだった。それほどに異様な雰囲気を漂わせていた。一種の虚無感のようなものを私は感じていた。


 がらがらとドアの開く音が聞こえた。先生だろうか。

「少し時間がかかって申し訳ない。この紙が診断書だから」

 前を向くと、そこには先生がいた。私を待たせないようにと慌てて書いてくれたみたいだ。少し顔に汗をかいていた。

「わかりました。ありがとうございます」

 気にしなくていいよ。と先生は言って診察室へと戻っていったけれど、診断書代はもちろんかかるのだろう。しかし、先生はそれ以上の優しさを私にくれている。これは等価交換と言ってもいいと思う。そのくらいの価値があると、今感じた。



 診断書を手に入れた私は、少し嫌な気持ちになってしまった。自分で認識はしていたものの、やっぱりそうなんだと思ってしまった。心のどこかで認めたくないと思っていたのだ。

 普通だと思いたい。そう願うことはダメなことなのだろうか。



 私は住民票と健康保険証のことをはっきりさせるため、電車とバスで30分程度かかる市役所を訪ねることにした。なかなか行くことがないところは少し緊張してしまう。

「住民票の確認ですか?」

「そうです」

 少し自分の今の状況を掻い摘んで説明すると、性別云々の説明をいきなり始めるのは大変だと感じたので、まず住民票の写しを持ってきてもらうことにした。

「こちらですね」

 お姉ちゃんが言っていた通りだった。性別欄が空白になっていた。でも、私の健康保険証は性別欄が『男』となっている。一体どういう状況なのだろう。

「実はですね…」

 市役所の若手職員の方に今の私の状況を伝えた。何度か質問を受けたけど、上手く答えられないこともあった。例えば出生時の手続きとか。

「…なるほど」

 彼は軽くうなずいた。こんな相談を受けることなんてそうそうないだろう。だからこそ困っているのだろう。

「何とかできませんか?」

 私の希望としては、せめて健康保険証の性別欄を『女』表記にしてほしい。それが願いであった。病院等で見せる時に嫌な気分になるのだ。

「少し待っていてもらってもよろしいですか? 座ってもらっていて大丈夫なので」

「わかりました」

 やっぱり、一人で対応する話じゃないんだろう。何とかできないのかな。『生活に不便を生じている』訳だから。


 しばらく経つと、呼び出された。

「えっとですね。とりあえず健康保険証についてですが、表面の性別欄を空白にして、裏面に注釈を入れるという方向でどうでしょうか」

 私の提示した条件とは少し違うけど、大きな進展だと思う。これはすごくありがたい話だった。

「ただですね…住民票なんですが、性別欄は戸籍に従って書き込まないといけないんですよ」

 私はこのことを知らなかった。正直何とかできるだろうと思っていた。やっぱり、現実はそんなに甘くないのだろう。

 『知らなかった』『分からなかった』では済ませることはできない世界なのだろう。


 なんて、残酷なのだろう。



 こんな気持ちのままで家に帰りたくないとも思ったけれど、お姉ちゃんを心配させたくもなかった。

 時刻は午後五時を過ぎていて、そろそろ日が落ちてしまう時間。私はこの時間の真っ赤に染まった空が大好きだった。特に理由はないが、見ていて心が落ち着くような気がした。少しでも、冷静になって話をしよう。そう思ったのである。

「ただいま」

 家にいたのは七海だけだった。お姉ちゃんは出かけてしまったのだろうか。

「沙希お姉ちゃん。おかえり」

 夜ご飯の準備をしているようだ。和風のいい香りがする。

「お姉ちゃんは?」

 七海の話によると、お姉ちゃんは急な仕事が入ったとのこと。今は会社にいるのだそうだ。社会人にはやはり学生では理解できない苦労があるのだろう。


 母が帰ってきたのは結局7時過ぎであった。その様子からも仕事の大変さが伝わってきた。

 その後はいつものようにお姉ちゃんの愚痴大会。どこからそんな元気が出てくるのだろうと思うくらいに話が止まらない。

「もうこんな時間ね」

 すっかり夜になっていた。これくらいの時間になると、我が家ではお風呂に入るという習慣がある。七海、私、お姉ちゃんの順で入るということも、すでに暗黙の了解である。

 七海はお風呂の用意を自分の部屋から持ってきて、準備をして入っていった。

「今日はどうだったの」

 七海がお風呂に入るタイミングを見計らい、お姉ちゃんが話を切り出した。あまり話したくは無かったが、隠し事はしたくなかった。

 私は医療センターでのこと、市役所でのことを出来るだけ丁寧に話した。話を進めるほどに、お姉ちゃんの顔は険しくなっていった。

「結局、認めてもらえなかったってことなのね」

 最終的に、住民票には『男』と記載された。健康保険証の表面は空白、裏面には注釈付きで『性別:男』と記載された。

 どうしようもないという気持ちでいっぱいだった。何もできなかった。今日の市役所の職員さんの対応を見ていると、お姉ちゃんがいても同じことだったように思える。


 私は実感した。この壁は『越えられない』と。

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