第43話 止まったままの時間
脱衣所に着くと、そこには当然ながら七海の服が置かれていた。何かのキャラクターがプリントされた、何ともかわいらしいものである。それに比べて私は水色のみで作られた服である。七海の持っているようなものを私も買った方がいいのだろうか。その方がより女の子らしいのだろうか。
「七海、入るよ?」
「どうぞー」
この状況を他人が見るとどう思うのだろうか。ある人は『仲のいい姉妹だね』と言うかもしれない。別の人は『まだ一緒に入っているのか』と言うかもしれない。どちらにせよ、私がまだ完全な女ではないと言ったら、さぞかし驚くだろう。反応を見てみたいという気持ちも多少はある。
背中の流し合いと言うのは、二人でお風呂に入ったときには必ずすることだと思っている。今もその最中だ。どこかへ旅行に行ったときにすることは決して珍しくはない。ただ、それを自宅で。なおかつ、高校生同士の姉妹でするというのは聞いたことがない。普通は一緒にお風呂に入るなんてことにはならないからだ。
ただ、今の状況は違う。これは七海が自ら望んだのだ。『一緒にお風呂に入りたい』と。それは別に悪いことではない。ただ、普通の事でもない。これは私たち二人だからこそ出来ることなのだ。
「かゆくない?大丈夫?」
「うん。ちょうどいいよ」
会話だけ聞くと、まるで幼い子供同士が洗いあっているような感じにも受け取れるのではないか。『可愛らしい』そんな言葉が似あうような気がする。
七海は意外にも成長していた。何というか、女の子らしい体だった。具体的には言えないけれど。
「お姉ちゃん?どうしたの?」
いつの間にか、私は七海に見とれてしまっていた。そのせいで七海の背中を洗うことを忘れてしまっていた。今日の私はどうかしている。
「ごめん。なんでもないよ」
お風呂の中にある鏡越しに七海が私のことを見ていた。妹のことをずっと見ていたなんて言えるわけがない。妹相手に緊張していたなんて……
七海の背中の泡を流す。泡が残らないように丁寧に。でも、私とは違ってちゃんとした女の子だから、とても肌が柔らかい。妹をこんな目で見てしまうなんて。私は何て最低な姉なのだろう。
「ごめんね。急にお風呂に誘っちゃって」
「え?」
「私、お姉ちゃんに元気になってほしかったの」
急に謝ってきたと思ったら、突然誘った理由を言ってきた。
「元気じゃあなかった?」
「うん。最近のお姉ちゃん、ずっと深刻な顔していたよ」
最近の私は無理をしてしまっている。自分でも十分わかっている。でも、気にせざるを得ないのだ。妹の私に対しての態度がここ数か月で一変してしまっていること。昔はあんなに関係が薄かったのに、今は一緒にお風呂に入っている。なんでそうなったのか。私は今日のデートで確かめようと思っていた。でも、七海は一日中ずっと私のことを考えてくれていた。そのことが嬉しかった。今日は今までで一番仲が良かった日と言えるからだ。
「心配をかけたくなかっただけなの。ほら、私はまだ姉として女として過ごすことに慣れていないから、毎日が不安なの。周りからどういう目で見られているのだろうって」
自分らしく生きなさい。そう母に言われたことがあった。でも、それってどういう意味なのだろう。
「私はお姉ちゃんのこと、お姉ちゃんだって思っているよ。男でも女でもいい。どっちでもいいの」
「どっちでもいい?」
自分らしく生きる。その言葉を理解していないうちに、また新しい言葉を投げてきた。どっちでもいい。私の頭の中では、常にどちらか一方に決めないといけない。はっきりとさせないといけない。そう思っていた。でも、七海は『どっちでもいい』と言ったのだ。
「そう。沙希お姉ちゃんはこの世に一人しかいない。つまり、代わりはいないの。だから、女だとか男だとか考える必要はないと思うの。だって、沙希お姉ちゃんは沙希お姉ちゃんなのだから」
私はずっと、ある種の固定概念のようなものにとらわれていたのかもしれない。
「その話をするために私をお風呂に誘ったの?」
「なんでわかったの!?」
今までの話で誘った理由は全部わかるよ。じゃあ、今日のデートも私を元気づけるためだったのかな。でも、今まで私のことを遠ざけていた七海が、最近積極的に私と関わろうとするのは何故なのだろう。また別の理由なのだろうか。
「眠れないなぁ」
今日は珍しく目がさえて寝付けない。いつもは自分でも驚くほどに早く寝るのに、今日はだめだ。私はこのままここにいても仕方がないので、水を飲むことにした。
壁に当たりそうになりながらも、ようやく階段の前まで来た。そこでしばらく立っていると、七海の部屋の方から小さな声が聞こえた。こんな時間にまだ起きているのか。何をしているのかが気になったので、部屋の扉の前まで行くことにした。すると、声を出していると思っていた声が実は泣き声だったことが分かった。七海は静かに泣いていたのだ。私に気付かれないように、小さな声で。
心配になったので、すぐに七海のもとへ行こうと思った。でも、私が入るような状況ではないと思ったので、今はとりあえず自分の部屋に戻ることにした。水は朝までおあずけだ。
デートから数日。あれから大きく関係が変わることはなかった。また私を遠ざけるのかとも思ったが、そんなことはなかった。あれ以上に親密になることもなかった。
私は最近の七海のことをちゃんとわかってあげられていないと思い、一緒に遊ぼうと考えた。何よりも、先日の七海の様子がおかしかったから、気になっているのだ。このことを思いついたのは、ついさっきだ。だから、七海は何も知らない。
「七海!一緒に遊ばない?」
そう言いながら、廊下を挟んだ向かい側にある七海の部屋の扉をあけながら言った。だが、中には誰もいなかった。てっきり、勉強でもしていると思ったのだが。と言うか、私は誰もいない部屋に向かってしゃべっていたのか。ちょっと恥ずかしいな。
そういえば、七海の部屋に入るのは何年ぶりだろう。七海がこの家に来たのは私がまだ中学生の時だった。羽衣がいなくなって、七海はずっと泣いていた。本人は隠していたつもりだろうけれど。自分の部屋にこもって、ずっと泣いていた。まるで自分のことを責めているかのように。そんな七海がいなくなったのは一年ほど経ってからだった。それまでの七海とは打って変わって、とても明るくなった。それまでの暗闇を消し去るように。でも、昨日の七海は泣いていた。泣いていた理由は何だったのだろう。
部屋の雰囲気も変わっている。あんなに殺風景だったのに、今ではいかにも女の子の部屋って感じだ。時間は経っているのか。確実に、ゆっくりと。
机の上に何かメモ帳のようなものがある。これは何だろう?…え?何なのこれ。
中身は七海の日々起きた出来事を綴った日記だった。ただ、その中身は考えていたものとは全く違っていた。中身は七海のその日の後悔が多く書かれていた。
「あれ、これは昨日のページだよね?」
私はあまりの衝撃に思わず声が出てしまった。昨日書かれたと思われるページは破られていた。いや、引きちぎったという表現の方が正しいのかもしれない。
『6月17日 お姉ちゃん、私どうすればいいのかな?沙希お姉ちゃんに迷惑かけてばっかりだよ。やっぱり、関わらない方が…』
その後の文字は読むことが出来なかった。七海は私にまだ隠していることがあるのかもしれない。
その時、静まり返っていた部屋の中に階段を上る音が聞こえてきた。この家には私と七海しかいない。つまり、この足音は…。
「あれ?お姉ちゃん。こんなところで何をしているの?」
その瞬間、私の体を冷たい汗が包んだ。