悪魔の晩餐
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それから直ぐに、アベルは診療所に入院することになった。
ノラははじめ母と一緒にお見舞いに行ったが、会わせては貰えなかった。フランカは、アベルの病気を知りながら軽率な行動をとったノラを、決して許さなかった。
アベルの状態はノラが想像していたよりも、ずっと悪いようだった。ヨハンナは泣き暮らし、ジノは混乱していた。
「私が一緒に行こう」
病室に入れてもらえない日々が続き、とうとう父が事態の収拾に乗り出した。ノラは父に付き添ってもらい、何度も診療所に足を運んだ。フランカは家長の謝罪も聞き入れてはくれなかった。
不安と恐怖に苛まれ、食事も喉を通らず、生きた心地がしなかった。幽霊みたいに青ざめた顔で過ごす日が何日か続いた、ある日のこと。
「ノラ……!」
「クリフ……!クリフォード……!」
自宅の玄関口に現れたクリフォードの首に、ノラは思わず飛び付いた。
「オリオが知らせてくれたんだ。……アベルのこと、聞いたよ」
クリフォードはノラの背をきつく抱き締め返した。すると張り詰めていた心の糸が切れて、ノラの目から滝のような涙が溢れ出した。
「わ、私のせいなの!私が連れ出したせいで……!」
ノラはしゃくり上げながら告白した。
「どうしよう!アベルが死んじゃったら、私……!」
「ばか!滅多なことを言うなよ!」
狼狽するノラを、クリフォードがぴしゃりと叱り付けた。
「大丈夫。アベルは病気なんかに負けないよ」
クリフォードはすすり泣くノラを根気強く励ました。
「寒いから気が滅入るんだ。春になって学校がはじまる頃には、なにもかも元通りさ」
不思議なことに、クリフォードが言うと本当にそうなるような気がしてきた。泣き止んだノラの頭を、クリフォードはよしよしと撫でた。
「俺、しばらく仕事を休んで診療所に泊まるよ。親父には了解をもらってきたんだ。フランカおばさんには、俺からもお願いしてみるから。心配しないで待ってろ」
「う、うん……」
その夜のことだった。
「危険な状態らしい」
慌てた様子で家に駆け込んできた父が、心痛な面持ちでノラに伝えた。ノラは目の前が真っ暗になった。
「直ぐに支度しなさい。最期になるかもしれない」
ノラは家族と共に診療所へ向かった。
診療所の前には、夜中だと言うのに、町の人々が集まっていた。みんなの陰気な顔を見ると急に現実感が増して、ノラは隣に立つオリオの上着に縋り付いた。
『アベル……!アベル!目を覚まして!』
建物の中から、フランカのくぐもった懇願が響いてきた。入口の前では父が『ひと目だけでも会わせてやって欲しい』と、アルバート医師に頭を下げていた。
ノラは気が遠くなるほど長い間立ち尽くしていた。足が棒になり、胸の中は凍り付き、しまいには寒さも感じなくなった。
どのくらいそうしていただろう。はっと我に返ると、目の前にサインツが立っていた。
「君の名を呼んでいる。フランカは別の部屋で休んでいるから、今のうちに……」
ノラはサインツに連れられて、病室へ向かった。狭い病室にはクリフォードやマルキオーレ、ヨハンナ、ガブリエラなどがいた。絶え間なくすすり泣きが響いていた。
ノラがおぼつかない足取りで枕元に寄ると、アベルは薄らと瞼を開き、力なくほほ笑んだ。首を傾げる力もない様子の彼をまのあたりにして、ノラは絶望した。ノラの目から大粒の涙がこぼれ落ち、シーツの染みとなった。
「泣かないでノラ……たぶん、罰が当たったんだよ……」
アベルは弱弱しい声で呟いた。
「……羨ましいと思ったんだ……サリエリのこと……彼が死んで……ノラが悲しんでるのを見て……」
「…………」
「サリエリに言いたいことはない?……向こうで会ったら、伝えておくよ……」
ノラはいやいやと、頑なに首を振った。唇から漏れ出るのは、嗚咽ばかりだった。
「泣かないで……笑ってノラ……君の笑顔が好きなんだ……」
アベルはそれだけ言い終えると、疲れたのか、静かに瞼を閉じた。
「い、いや……アベルっ……!」
思わず悲鳴を上げそうになったノラの肩に、サインツの手が乗せられた。
「大丈夫、眠っただけだ」
「えっ……」
サインツに言われて、ノラはアベルの胸が上下していることに気付いた。全身からどっと力が抜けるのを感じた。
「ゆっくり寝かせてやろう……我々にはもう、奇跡を待つことしかできない……」
サインツの重苦しいため息は伝染し、病室をいっそう陰鬱な空気が支配した。誰もかれもがアベルの死を予感して湿っぽい顔をしていた。
(奇跡……奇跡……)
ノラは確認するように、口の中で何度か呟いた。ノラは気が付いていた。ただ一つ、奇跡を起こせる可能性があるとすれば……
ノラは病室を飛び出すと、オリオが掲げていた松明を奪って、馬車に飛び乗った。人々の制止を振り切って馬車を発進させたノラは、暗い夜道を脇目もふらずに駆け抜け、自宅に舞い戻った。
「ミライ……!いるんでしょう……!?」
玄関に駆け込んだノラは、大声で叫んだ。答える声はなく、濡れたような闇がびーんと震えた。
「お願い!出てきて!アベルが……友達が大変なの!」
ノラは松明の灯りで家の中を照らしながら、ミライを捜し回った。階段の下や、物置の奥、リビングのソファの隙間、キッチンの小鍋の中、整理ダンスの裏……
「怒ってるの!?……私が悪かったわ!謝るから、どうかアベルを助けて!ミライ!」
思い付く限りの場所を捜したがミライは見付からず、ノラが諦めかけたその時だ。
『魔学者様、魔学者様』
背後から奇妙な声が聞こえて、ノラは振り返って松明を掲げた。
『下です、魔学者様』
薄暗い廊下には誰もおらず、ノラが首を捻っていると、再び声が聞こえてきた。ノラが言われた通り下を向くと、床には二匹のトカゲがいて、ノラをじーっと見上げていた。
「あんた達、だあれ?」
『ご覧の通りのトカゲでございます』
一方のトカゲがうやうやしく答え、一方のトカゲは馬鹿にしたように笑い、ノラは仰天した。二匹とも姿形はそっくりで、一見双子のようだったが、慇懃なトカゲの方には尻尾がなかった。
『魔学者様におかれましては、悪魔をお捜しのご様子。私どもがご案内いたします』
二匹のトカゲは廊下をじぐざぐに走って、ノラをキッチンに案内した。
『悪魔はこの先におります。さあ、お早く』
トカゲは壁に空いた、ねずみが一匹通れるか否かという、小さな穴を指差した。ノラは困惑した。
『魔法の粉をお使いください』
「魔法の粉?」
『悪魔のまじないがかかった、銀の粉です』
トカゲはやけにそわそわして言った。ノラはぴんときて、パン焼き窯に走った。窯の中に残っていた灰をかき集めて体に振りかけると、ノラの体はみるみる縮んで、ティースプーンほどの大きさになった。
ノラはトカゲの後に続いて、壁の穴に進み入った。
『いつぞやは、我等の王を助けていただき、ありがとうございました』
真っ暗な穴の中を急ぎ足で歩きながら、トカゲが切り出した。
「人違いじゃない?トカゲの王様を助けたことなんてないわ」
『あなたは魔学者ノラ・リッピーでないので?』
「私の名前はノラ・リッピーだけど……」
『それなら間違いございません。我等の王は確かにあなたに助けられたのです。昨年の春のことでございます』
ノラにはとんと覚えがなかったが、面倒なのでそういうことにしておいた。
「……ねぇ、ミライはこの先でなにをしているの?」
そんなことより、とノラはたずねた。
『なにも。手下の小悪魔に酌をさせたり、芸をさせたり、のんべんだらりと過ごしております。肥り過ぎて穴からも出られぬ様子。正直に申しますと、冬眠していたところを起こされ、我々も迷惑しております』
トカゲはぶつくさ呟くと、目を細めて道の先の灯りを見据えた。口を閉じれば、ミライの金切り声が聞こえてきた。
『まずい!なんだこの料理は!まるで生ごみみたいな味だ!』
道の終わりにたどり着くと、ノラは入口からそっと首を伸ばして、様子をうかがった。
広い広い部屋の中央にはキングサイズのソファが置かれ、太ったねずみがでんと腰かけていた。目の前のいかだみたいな食卓には美味しそうな料理が所狭しと並べられ、そのほとんどが意地汚く食い散らかされていた。
ミライは持っていた皿を放り投げると、魚の塩焼きに手を伸ばし、牙が目立つ大きな口ですなずりにかぶり付いた。
『そこな者!銀河にのぼって天馬の羽をもいでこい!』
ミライはむしゃむしゃと魚を咀嚼しながら、壁際に立ち竦んでいたアイアイに命令した。
『お戯れを……天馬は世紀末にしか現れぬと決まっております』
『では人魚だ!人魚の生き血をしぼってこい!』
『そんな無茶な』
ミライは次々命令して、アイアイを困らせた。その様子をノラと一緒に見ていたトカゲは、深いため息を吐いた。
『なにが気に入らないのか、ずっとこんな調子なのです……誰彼構わず当たり散らし、逆らう者は怪しい魔法で姿を変えてしまうのです』
トカゲの声には嘆きと、うんざりした響きが込められていた。
『使えぬアイアイだ!それでも悪魔の使いか!』
トカゲの言葉を証明するように、ミライはアイアイに向かって手に持っていた串を投げ付け、ヒステリックに怒鳴った。傍若無人な振る舞いに、ノラはあきれ返った。
『迷信でございます。それに私は、もともとしがない貝釦でございます』
『……もう良い!小鬼どもを呼べ!』
用事を言い付けられたアイアイはこれ幸いと部屋を出て行った。
『魔学者様、どうか悪魔をお諫め下さい。このままでは誰が誰だか、わからなくなってしまいます』
トカゲは言うなり、さあ行けそれ行けと、ノラを物陰から追い立てた。
『つまらん!つまらん!もっと愉快な芸ができる者はいないのか!』
ノラは腹を決めて、魚の目玉ゼリーを頬張るミライの前に進み出た。ミライはノラが出て行くと驚いて、ひゃんっ!と一度飛び上がった。
「こんばんは、ミライ」
『……私の顔など、もう見たくないんじゃなかったか』
ミライは大きな尻尾で床の埃を舞い上げながら、拗ねた目でノラを睨んだ。
「そうね……そう思ってた……」
ノラが肯定すると、ミライは表情を硬くした。
「でも気が付いたの。ミライは私を元気付けようとしてくれたんだって……黙っておくことだって出来たんだもの」
『…………』
「ごめんねミライ。私のこと、怒ってるでしょう?……でもどうかお願い、今だけ怒りを収めて、私の話を聞いて」
いつでも逃げ出せるように、トカゲやミミズや虫達が、部屋の隅からノラとミライの様子を注意深くうかがっていた。ノラがごくりと喉を鳴らすと、彼らも同じく固唾を呑んだ。
「アベルが大変なの。高い熱を出して、このままでは死んでしまうかもしれない」
『…………』
「お願いミライ、彼を助けて」
ノラは胸の前で手を組み合わせて懇願した。ミライは忌々しげに鼻を鳴らした。
『しおらしいと思えば、狙いはそれか』
ミライが吐き捨てるように言って、ノラはぎくりとした。
『絶交した相手に助けを乞うなんて、虫がいいとは思わないか。腹の中では私を蔑んでいるくせに』
ミライはしっぽを激しく床に叩きつけ、卑屈な態度をとった。
『ふんっ。私は慈悲深いパン焼き窯の悪魔。助けてやっても良いが今度という今度はきっちり代価を払ってもらうぞ』
「なにをすれば良いの?」
ミライはにたりと鋭い牙を見せて笑うと、手近な料理の皿をノラに勧めた。
『喰え』
大皿の真ん中に横たわる、どんよりと濁った眼の魚を見て、ノラは困惑した。
「おいしそうな料理だけど……」
友人の命が、今にも尽きようとしているのだ。悠長に食事をとっている場合ではない。ノラがためらっていると、ミライは皿の上の料理を摘まんで自分の口に放り込んだ。
『勘違いするな。これ等はみな悪魔の魂だ』
「悪魔の……?」
『そうだ。一口かじればお前の肉体は石となり、お前の血は毒となる。魔物に落ちたその身では、日の光を浴びることも、眠ることもままならん。ひと時の安息を得るために地べたを這いずり回り、やがて疲れ果てて息絶えるのだ』
ミライは手の中のフォークをぴんっ!と弾いた。フォークは空中でくるくると回転して、ノラの手に落ちた。
『迷っている時間があるのか?友人を助けたいんだろう?お優しい魔学者様』
ミライが皮肉を言うと、様子をうかがっていた小悪魔達や、いつの間にか戻ってきていたアイアイが狂ったように笑った。
小悪魔達はどこからか椅子を持ってきて、ノラを強引に着席させた。彼らはてきぱきとテーブルにナイフやフォークをセットし、ノラの首にナプキンを巻いてやった。
小悪魔達が見守る中、ノラが恐る恐るフォークの先を料理に近付けた、その時だ。
『あっ!』
熱々のムニエルがぴょんっと飛退き、ノラのフォークは皿にこつんと当たった。
『誰も皿を食べろなんて言ってないだろ』
にやにやするミライと、手を叩いて喜ぶ小悪魔達をじろりと睨み、ノラは別の料理に手を伸ばした。白身魚の生け作りは、やはりフォークの先を避けて、皿の上から逃げ出した。どの料理もノラが食べようとすると、目を覚ましたように動き出すのだった。
「待てー!」
ノラは躍起になって逃げ惑う料理達を追いまわした。生け作りの切り身を一切れ、壁際まで追いつめたが、切り身は団結した他の部位……頭や骨や、他の切り身達に助け出され、ノラの口に入ることはなかった。
ノラがくたくたに疲れ果てるまで、追いかけっこは続いた。
『なにを遊んでいるんだ?』
「遊んでるわけじゃないわ!捕まらないのよ!動かないように言ってよ!」
『やれやれ、だらしない魔学者様だ。料理も従わせられないとは』
ミライは呆れた風に言うと、テーブルの上の小壺から銀色の灰を取り出し、部屋中にまき散らした。するとテーブルの上の料理は元の悪魔に、アイアイは貝釦に姿を変えた。
悪魔達はフォークを構えたノラを見て顔を青くし、脱兎の如く逃げ出した。ノラをここまで案内してきた慇懃なトカゲは、しっぽが元通りになり、大喜びで辺りを駆け回った。
『仕方がないので、もう一度だけチャンスをやろう。神の国へ行き、生命の樹の枝で作られた釣り竿をとってこい。無事に盗んで来られたら助けてやる』
「神の国?釣り竿?」
『この道をまっすぐ進めばそのうち着く。案内にトカゲをつけてやるから、さっさと行け』