運命の誕生日
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サインツがたまには頭を休めることも必要だと言ったので、土曜日は勉強を休み、ウィナー牧場にアベルのお見舞いに行った。
「まだ治らないのー?」
ノラが不服そうにぼやくと、アベルはベッドから身を起して、すまなそうに眉尻を下げた。
「ごめんねノラ。なかなか熱が下がらなくて……」
「そういえば今年の風邪は長引くって、カシマおじさんが言ってたわ」
ノラとアベルが他愛ない話で盛り上がっていると、一〇分ほどでフランカが部屋に入ってきた。
「ごめんなさいねノラ。そろそろアベルを休ませたいから、今日は帰ってくれる?」
「え?でも……」
ノラは困惑した。ベッドに押し込められたアベルは、少し頬が赤いくらいで、あまり具合が悪そうには見えなかった。まだ話したいことがたくさんあるのに……
「風邪が治ったら、また遊んであげてちょうだい」
ノラがまごまごしていると、フランカは急き立てるように彼女を部屋から追い出した。
その日から、ノラは何度もバスティード親子が借りている納屋を訪ねたが、フランカは回を重ねるごとに迷惑がるようになった。面会を許されても、一〇分……短い時には五分程で追い返されてしまう日もあった。
「一人息子だからね。フランカはアベルが心配で仕方ないのさ。わかっておあげよ」
友人に会えず気落ちするノラを、家族はそう言って慰めた。
一月の最後の水曜日、ノラとサインツの勉強会は、突然終わりを告げることとなった。
その日、ノラはサインツの家の使い込まれたキッチンで、昼食作りに勤しんでいた。
豆のスープを煮込むために、鍋を暖炉の火にかけようとしていた時だ。憲兵のダミアン・マスグレイヴが、ずかずかと上がりこんできた。
「先生は」
ダミアンは、キッチンの中をきょろきょろと見回して、ぶっきらぼうにたずねた。研究室にいるであろうサインツのことを思い、ノラが返答を渋っていると、ダミアンは鬼のように眉を吊り上げた。
「見たのか。あれを」
「あれってなんのこと?」
ノラが豪快にすっとぼけて、ダミアンが舌打ちした。二人が睨み合っていると、サインツがキッチンに入ってきた。
「子供まで巻き込むなんて、やり過ぎだぜ、先生」
ダミアンが低い声で言って、ノラはぎくりと背筋を震わせた。
「その子はここへ勉強を教わりに来ているだけだ。お忘れかもしれないが、私はこれでも教師なのでね」
サインツはしれっと嘘をついた。
「家事を一切引き受けてくれるので、ついつい甘えてしまったんだ。勉強もあらかた追い付いたし、そろそろ終いにするよ」
「見え透いた嘘を言うな。こんな怪しい物だらけの屋敷で、おさんどんしかさせてなかったってのか」
サインツはその場しのぎの言い訳をして、ダミアンは彼を疑いのこもる目で睨んだ。
「お前も食べてみれば分かる。その子が作ったポタージュは絶品だぞ。お母上の教育が良いんだな」
「いやあん、先生ったら」
サインツがみえみえのお世辞を言い、満更でもないノラは頬を赤らめた。
「一緒にどうだい?冬の間ろくなものを食べていないんだろう?」
「…………」
ダミアンは結局、ノラ特製川魚と豆のポタージュを三杯もおかわりして帰って行った。
勉強会がなくなると、ノラはたちまち暇になった。マルキオーレは修行が忙しいのかたまにしか顔を見せないし、クリフォードにいたっては年末のヘルベヘヌ以来、一度も会っていない。
そして二月に入っても、アベルは家から出してもらえなかった。
「お医者様から、安静にするように言われているの」
フランカは度々訪ねてくるノラにあまり良い顔をせず、そのうち玄関先で追い返されるようになった。ある時は「今眠ったばかりだから起こしたくない」と断られ、またある時は「うつすといけないから会わせられない」と追い返された。
ノラはだんだんフランカに不満を抱くようになり、フランカもそんなノラの態度が気に障るのか、対応が素気なくなっていった。
話し相手もおらず、うつうつとした日々を送っていたある日のこと。ノラの家に、クラスメートのヨハンナとジノが訪ねてきた。
「もう直ぐアベルの誕生日でしょう?」
ヨハンナはジノに小突かれて、もじもじと切り出した。
「なにかしてあげたいと思うの……ノラはアベルの友達だから、相談したくて……」
ヨハンナは頬を赤らめ、しどろもどろに突然の訪問の理由を説明した。
(いいなあ)
その瞳には、十八歳までに絶対結婚する!と豪語していた頃の勇ましさはなく、年頃の娘特有の恥じらいがあった。
(いいなあ……)
ノラは俯いて小さくなるヨハンナを、眩しそうに見つめた。
「私、協力するよ」
「本当に?」
「うん!ヨハンナ、がんばれ!」
ノラが激励すると、ヨハンナは意気込んで頷いた。
三人はアベルの誕生日に向けて計画を立てはじめた。
「具体的にどんなことをするか、もう決めてるの?」
「できれば家に招待したいわ」
「家に!?……ヨハンナあなた、大胆ねぇ」
「だって……プレゼントなんてありがちでしょう?他の子と同じことをしていたんじゃ、勝てないもの」
ヨハンナの言い分に、ノラとジノは『確かに』と納得させられた。
「でもねぇ、ヨハンナ。アベルの気を引こうとする女の子が、あなた以外にいるとは思えないけど?」
「そんなことわからないじゃない!……心配だわ。アベルは優しいから、女の子を誤解させるのよ。トリシアやカレンが心変わりしたらどうしよう?ヘルベヘヌの時だってマチューが彼をお腹を空かせた狼みたいな目で見て、しゅーしゅー言ってたのよ」
「味噌っ歯だからよ」
むきになるヨハンナに、ジノが呆れた風に言った。
「ノラはどう思う?いきなり家に招待したら、迷惑かしら?」
「そんなことないわ。アベルはきっと喜ぶわ」
ノラはしっかりと保証して、ヨハンナを安心させた。
「当日は私がアベルを連れ出すから、二人は準備して待ってて」
アベルの誕生日の前日、ヨハンナの家でパーティーの準備を終えたノラは、教会の前でジノと別れて、墓地へ向かった。ほんの気まぐれに、サリエリの墓でも参ってやろうという気持ちになったのだった。
橋を渡り、孤児院の前を行き過ぎて墓地に辿り付くと、ノラはサリエリの墓の前に座り込んで、硬くなった雪を家から持ち出したシャベルで掘り返した。
「……久しぶり」
やがて雪の下から現れた黒い石に、ノラは語りかけた。
「今日、ヨハンナの家に行ってきたのよ。知ってた?ヨハンナって、アベルのことが好きなんだって」
誰もいない、静まり返った墓地では、ノラの声はやけに大きく響いた。
「お似合いだよね。アベルはきっと、ヨハンナのことをとても大事にするよ。ヨハンナは幸せになれるって、あんたもそう思うでしょ?」
答える声はなかったが、ノラは構わずしゃべり続けた。思えばサリエリとはいつもこんな調子だった。ノラが一人で喋って、サリエリが相槌を打つ。瞼を閉じれば、目をまん丸にしたサリエリの顔が浮かぶ。
「……二人が付き合い出したら、ちょっと寂しいかな。アベルは前ほど遊んでくれなくなるだろうし、私にはデートする相手もいないし……」
帰らぬ人となった今もなお、サリエリはノラの良き相談相手であるようだった。彼はノラの泣きごとを黙って聞いてくれた。
「……まあ、いいんだけどね。あんたがいるしね」
ノラは込み上げてきた涙を奥歯を食いしばることで堪え、にっこり微笑んだ。
「そういえばね、私、六月にはお姉さんになるのよ」
ノラは悲しい気持を振り払って、努めて明るい声を出した。
「あんたの名前をもらうことにしたわ。弟か妹かまだわからないけど……きっと私のことが大好きな子になるわ」
ノラは最近の出来事を―――サインツの家に勉強を教わりに行ったこととか、マルキオーレが特訓をはじめたこととか―――報告し、飽きると墓地を後にした。
翌日の朝、ノラはアベルを迎えに、ウィナー牧場へ向かった。空には雪雲が分厚く垂れこめ、今にも降り出しそうな様子だった。
フランカに見付かると追い返されてしまうので、ノラは建物の裏手に回ってアベルの部屋の窓を叩いた。
「ノラ……きてくれたの……?」
アベルはにこりと頬を緩めて、嬉しそうな顔をした。彼の頬は寒さのためか、ばら色に紅潮していた。計画を知ったら、喜んでもっと赤くなるに違いないと思い、ノラはうきうきした。
「でかけましょ」
ノラが気軽に誘うと、アベルは少し困った顔をした。
「ノラ……ごめん、俺、寝てなくちゃならないんだ……」
「どうして?フランカに怒られるから?」
「それもあるけど……アルバート医師に言われてるんだ。熱が下がるまで、安静にしてなきゃだめだって……」
まさか断られると思っていなかったノラは慌てた。アベルを連れて行けなかったら、ヨハンナは悲しむだろう。なにより、ノラの面目は丸潰れだ。
「じゃあ、ちょっとだけ。みんなに顔を見せたら、すぐ帰ってくれば良いわ。それなら良いでしょ?」
「ノラ……」
「ヨハンナとジノが、パーティの準備をして待ってるのよ。……ね?お願い」
ノラは窓から部屋に押し入ると、アベルにてきぱきと上着を着せて、強引に雪の中へと連れ出した。
アベルをそりに乗せ、御者台に座ったところで、フランカが家から飛び出してきた。
「待って……!その子を連れて行かないで!」
フランカは雪に足をとられながら、血相を変えて駆けてきた。鬼婆みたいに恐ろしい形相で、ノラはぎょっとした。
「待ちなさい……!待ちなさい!ノラ!」
フランカは悲痛な声で叫んだが、ノラは知らん振りして手綱をしならせた。
雪道を走らせながら、ノラはヨハンナ達と考えた素晴らしい計画を話して聞かせた。
「みんなでこんな大きなケーキを焼いたのよ。プレゼントも用意してあるの。きっとびっくりするわ」
「…………」
「ヨハンナがね、どうしてもアベルの誕生日をお祝いしたいんだって。この意味わかる?」
いつになく物静かなアベルを、ノラは怪訝に思ったが、直ぐに楽しい気持ちに取って代わられた。
しばらくして、空からはぼた雪が降りはじめた。ノラは先を急いだが、ヨハンナの家まであと少しというところで、馬が動かなくなってしまった。
「仕方ない、歩いて行こう」
ノラはアベルの手を引いて、雪道を歩き出した。家で今か今かと待っているヨハンナのことを思うと気が急いて、早足になった。
「ノラ……待って……ノラ……」
アベルは制止を呼びかけながら、引きずられるようにしてノラの後を付いてきた。
「早く、早く」
「少し休もう……疲れたよ……」
「そんな時間ないわ。ヨハンナ達が待ってるのよ」
ノラはアベルの懇願に耳を貸さず、ぐいぐい腕を引っ張って、あゆみを速めた。
「止めて、ノラ……引っぱらないで……」
「もう少しよ。がんばって!」
「お願い、止まって……お願いだよ……」
アベルはうわ言のように繰り返したが、ノラは聞く耳をもたなかった。ノラはパーティ会場であるヨハンナの家を目指して猛進した。
歩き続けて、降りしきる雪の向こうに、おめかししたヨハンナの姿を見つけると、ノラはどきどきした。ヨハンナの緊張が、ノラにも伝わっているようだった。
さあ、早く!ノラは駆け出そうとアベルの腕を強く引いたが、彼が急に立ち止まったので、ノラはつんのめった。
「どうしたの?」
目的地は、すぐそこなのに。ノラが怪訝に思って振り返ると、アベルは声を殺して泣いていた。彼の頬を伝う雫を見て、ノラはぎょっと目を向いた。
「ア、アベル……?」
「っ……」
「どうして泣いてるの?手、痛かった?」
ノラが困惑していると、異変を察知したヨハンナとジノが駆け寄ってきた。
「あっ……!」
真っ先に気が付いたのは、ヨハンナだった。ヨハンナはアベルの下半身を見つめ、口元を両手で覆った。ノラは首を傾げつつ彼女の視線の先を追いかけ……息を呑んだ。
「…………」
ぐっしょりと濡れたズボンから立ち上る湯気。アベルは歩きながら失禁してしまったのだった。ノラもヨハンナもジノも声を失い、辺りにはアベルの嗚咽だけが響いた。
「アベル……!」
幾らもしないうちに、フランカが馬車で追い付いた。御者を務めているのは、ウィナー牧場の持ち主で、バスティード親子が借りている納屋の大家である、ナックル・ウィナーだった。
フランカは素早く御者台を飛び降りて、雪の中を泳ぐように、無我夢中で駆けてきた。彼女はアベルの有様―――涙で汚れた顔や、しとどに濡れたズボンを―――を見ると、憤怒の形相でノラを睨みつけた。
「あ、あの……」
フランカは口を開こうとしたノラの頬を、ぴしゃりと叩いた。ヨハンナとジノが声にならない悲鳴を上げた。
「どうしてノラ……!?どうしてアベルを連れ出したりしたの!?」
フランカは呆然とするノラの肩を掴んで、がくがくと前後に揺さぶった。
「アベルは病気だから、大人しく寝てなくちゃいけないって、あれほど言ったじゃない!」
「…………」
「いいお友達だと思っていたのに!……アベルが死んだら、あなたのせいよ!」
フランカに責め立てられたノラは、がたがたと膝を震わせた。見ればアベルはフランカの尻に隠れて、小さい子のように泣きじゃくっていた。
「ア、アベル……」
謝ろうとしたのか、助けを求めようとしたのか、わからなかったが、とにかくノラはアベルに手を伸ばした。アベルはノラを拒絶するように身体を捻った。
「お……お母さんっ……」
アベルはしゃくりあげながら、やっとのことで声を絞り出した。
「連れて帰って……お願い……」
アベルはフランカに懇願した。フランカはすぐさまアベルを抱え上げて、そりに乗せた。
「ナックルさん、お願いします」
「念のため、診療所に行こう。なに、心配しなくても大丈夫さ」
馬車が去って行き、後には恐怖に凍り付く少女等が残された。