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ノラとパン焼き窯の悪魔  作者: kaoru
旅立ちの季節
84/91

決別

著作権は放棄しておりません。

無断転載禁止・二次創作禁止

 ソニアと別れた後、結局ノラは墓地には行かず、帰路についた。

 もと来た道を引き返してみると、橋の袂にはアベルが立っていた。長い間待っていたようで、彼の鼻の頭は真っ赤に染まっていた。

「家に行ったら、ここだって聞いて……」

 ノラが近付いて行くと、アベルは言い訳するみたいに言った。

「帰ろう……」

 ノラはアベルに馬車で家まで送ってもらった。道中、アベルもノラも口を開かなかった。それぞれが別の考えに耽っていたし、時折唇から漏れ出る悩ましげなため息や呟き声は、新たに降りはじめた雪に吸収されて、お互いの耳に入ることはなかった。

 やがて馬車が玄関の前に到着すると、ノラはお礼を言って馬車を降りた。アベルもノラの後に続いて御者台を降り、二人は玄関の前で二言、三言会話した。

「サリエリは幸せ者だよ……好きな人が、こんなに悲しんでくれているんだもの……」

 別れ際、アベルはノラの手をそっと握って、切なそうに言った。なんと答えて良いか分からず、ノラは曖昧に笑った。

「ノラ、良かった。捜しに行こうかと思っていたんだ」

 アベルを見送って家に入ると、オリオが駆け寄ってきた。

 オリオはノラの頭や肩に薄らと積もった雪を払い、氷のように冷たくなった頬を大きな両手で包んだ。先程まで火にあたっていた彼の手は、火傷をしそうなほどに熱かった。

「どこまで行っていたんだい?心配したよ」

「ごめんなさい」

 ノラは身を捩ってオリオの手から逃れると、荷物を置いてくると言って自室に向かった。階段を上って行くノラの背中を、オリオは憂鬱なため息と共に見送った。

 二階の自室では、人間の姿に化けたミライが待っていた。

『あいつには会えたか……?』

 ミライはノラの顔を見ると、開口一番にたずねた。ノラは黙って首を左右に振った。ミライは気だるげな様子の彼女を抱き上げて、ベッドに連れて行った。

『少し眠ると良い。酷い顔色だ……』

「まだ眠くないわ」

 ノラはミライの提案を拒絶した。

『ではせめてなにか口に入れろ。……なんでも出してやるぞ。食べやすい水菓子なんてどうだ?お前は甘いものが好きだろう?』

「いらないわ」

 ノラが再び拒否すると、ミライはいらいらして、ちっと舌打ちした。

『お前は私とは違うのだ。食事はとらねばならない』

「でも、食欲がないの……」

『我がままを言うな。このままでは弱って死んでしまう』

 ミライはノラを叱り付けて、懐から白磁の皿と金の匙を取り出した。ミライが皿の底を数回匙で撫でると、空っぽだった皿は瞬く間に麦粥(鮮やかなピンク色だ)で満たされた。

『一口だけでも食べるんだ。さあ……』

 ミライは麦粥を匙ですくって、ノラの口元に差し出した。ノラは気乗りしない様子で、ふいと顔を背けた。

「さっきお昼を食べたばかりだから、お腹が空いてないのよ」

『嘘をつけ。スープを二口しか飲まなかったと、お前の母が嘆いているのを聞いたぞ』

 ノラはうんざりしてため息をつき、ミライをいっそう苛立たせた。

 ミライが皿をぐちゃぐちゃとかき回すと、麦粥はけばけばしいピンク色から血のような赤に。そして気味の悪い青紫色へと変化した。

『どうしても食べないつもりなら、無理やりねじ込んでやる』

 ミライはどす黒く変色しはじめた麦粥をすくって、ノラの唇に押しつけた。ちょっぴり生臭いそれを、ノラは指先で押し返した。

「怒らないでよ。そんな顔してると本当に悪魔みたいよ」

『みたいじゃない!悪魔だ!私は』

 ミライは白磁の皿と金の匙を放り投げて怒鳴った。皿の中の麦粥は驚き、すたこらさっさと逃げ出した。

『いつまでそうやっていじけているつもりだ!』

「べつに、いじけてなんかないわ」

『睡眠も食事もとらず、何日も部屋に引きこもって……これをいじけていると言わずになんと言う!』

「……放っておいてよ。ミライには関係ないでしょ」

 図星を指されたノラは、むっとして言い返した。ノラの身勝手な言い様に、とうとうミライの堪忍袋の緒が切れた。

『……そんなに会いたければ、会わせてやる!』

 ヒステリックに叫ぶと同時に、ミライは銀色の煙に姿を変えた。煙は膨れ上がり、瞬く間に部屋に充満した。どんどん濃くなって、扉がどちらにあるかもわからなくなった。

 やれやれまたかと、ノラは何度目になるかわからないため息をついた。

「いい加減にして、ミライ。怒るわよ」

 ちらりと見えた人影に向かって、ノラはいらいらした口調で言った。やがてもうもうと立ち込める煙の向こうからミライが姿を現すと、ノラは息を呑んだ。

『どうした……会いたかったんだろう?』

 現れたミライは、サリエリの姿をしていた。

「あっ……」

 長い前髪の奥から覗く、真っ黒な瞳。じっと見つめられると、ノラの膝はがくがくと震えだした。

 足がもつれて尻もちをついたノラの前に、ミライは跪いた。彼の顔が近付いてくると、ノラはたまらず、膝の間に顔を埋めた。

「止めてミライ……!どうしてこんな酷いことをするの!?」

『酷いこと?……いいや、違う。私はお前を励まそうとしているんだ。望みの言葉を囁いてやろう、お前の気が済むまで、何度でも、何度でも』

 ミライは石のように身を固くするノラの耳元に、唇を寄せた。

『なんと言って慰めてほしい?』

 ミライが囁いて、ノラは恐る恐る顔を上げた。

 サリエリは二か月前に別れた時と寸分違わぬ姿で、にっこりとほほ笑んでいた。サリエリのごつごつした手が頬を撫でると、ノラは心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。ノラは声を失った。

『会いたかった』

「…………」

『君のせいじゃない』

「…………」

『ずっとそばにいる』

 サリエリの唇から放たれる慰めの数々を、ノラは夢見心地で聞いていた。これが現実なら、どんなに良いだろうと考えながら。

『愛してる』

 しかし次の瞬間、ノラは渾身の力でもって、どんっ!とサリエリを……ミライを突き飛ばした。今度はミライが尻もちをついた。

「……悪ふざけは止めて。もとの姿に戻って」

 ノラは顔を背けて、悲痛な声で懇願した。

「言っちゃ悪いけど、ぜんぜん似てないわ。……あの子は喋らないのよ」

 ノラはごく当たり前のことを指摘した。『それに……』とノラは続けた。

「お別れも言ってもらえなかったのよ……」

 ノラは自嘲気味に呟いた。すっかり自信を喪失しているノラには、彼が友達だったかどうかも、もはやわからなかった。まやかしの甘い言葉に翻弄される自分は、さぞ滑稽で惨めだろうと思った。

『……恐ろしいのか。真実を知るのが』

 少しの沈黙の後、ミライはノラの目を見据えて、静かにたずねた。

『なにもかも今さらだもんな。死んだ人間の本心など、わかったところで益体もない』

 ミライが知った風に言うので、ノラはカチンときた。なんて憎らしいことを言うんだろうと、ノラは忌々しげに鼻を鳴らした。

「ミライにはわかるって言うの?あの子の気持ちが、わかるって言うの?」

『わかるさ』

「うそよ。わかりっこない」

 ノラはミライをきっと睨んで断言した。

『お前がピンチの時、あいつはいつも近くにいたはずだ』

「優しかったからよ。でも私にだけじゃない。あの子は誰にでも優しかったわ。相手が私じゃなくたって、同じことをしたはずよ」

『あいつの眼はいつもお前の背中を追っていた。あいつの耳はお前の声を決して聞き逃さなかったし、あいつの手はお前の手を握りたくてうずうずしていた』

「……もしかしたら首を絞めたかったのかもね」

 ノラは瞳に暗い笑みを浮かべて、皮肉を吐いた。ミライが押し黙り、ノラは勝利を確信したが、少しも気分は晴れなかった。

「もう止めましょう……こんな話、意味ないわ」

 陰鬱なため息を吐くノラを、ミライは蔑みのこもる瞳で見た。

『サリエリは、どこまでも哀れなやつだよ。親の顔も知らず、世間からは見放され、孤独を舐めて生きてきて……心を許した友には涙も流してもらえない』

 ミライが嘲るように言うと、ノラは今度こそ本当に腹を立てた。

「絡まないでよ!さっきから、なにが言いたいの!?私にどうしろと言うの!?」

 しばらく睨みあっていると、ミライの周りを取り巻いていた煙がだんだんと色を変え、今にも土砂降りの雨が降り出しそうな黒雲に変わった。どこからか風も吹いてきて、部屋の中は嵐のような状態になった。

『……私は卑劣なパン焼き窯の悪魔。契約を反故にされた腹いせに、私はあいつに世にも恐ろしい呪いをかけた』

 怪訝そうに眉を寄せるノラに、ミライは地鳴りのような低い声で、唸るように言った。嵐はだんだん酷くなり、顔や背中を叩く風の勢いに、ノラは身震いした。

『お前の最も愛する者は、お前の声で永久の眠りにつくだろう。私が告げたその日から、あいつは頑なにその口を封じた』

 ピシャーン!と、鼓膜を突き破るかのような雷鳴が轟き、ノラの身体を衝撃が駆け抜けた。ノラは信じられない気持でミライを見つめた。

『声を知らないことが、なによりの証』

 唇や瞼の震えはやがて全身に広がり、ノラは震えを抑えるのに、両腕で我が身を掻き抱いた。

 無口な子だと思っていた。悲しくても、辛くても、歯を食いしばって耐えて、我慢強い子だと思っていた。

「……泣くこともできなかったのよ……」

 ノラの頭には、ここしばらく見続けている悪夢が……なにかを必死に伝えようとしている、サリエリの姿が浮かんでいた。

「たった一人で、誰かに相談することもできなくて……」

『…………』

「ぜんぶあんたのせいだって言うの……!?」

『そうだ』

 平然と肯定したミライを、ノラは愕然と見つめた。

『私が憎いか』

 ミライはぞっとするような冷たい目で見下ろして聞いた。ノラはミライの悪魔らしい顔を、ぎろりと睨み上げた。

「……出てって……」

『…………』

「出てって!もう顔も見たくない!」

 ノラが叫んだ直後、バタンッ!と窓が開いたかと思うと、部屋の中に突風が吹き荒れた。灰になったミライは黒雲とともに窓から出て行き、静けさを取り戻した部屋にはノラ一人が残された。

 次の日。ノラは皆で雪遊びに行こうとオリオの誘いを断り、墓地へ向かった。

「…………」

 墓地には誰もおらず、辺りはしんと静まり返っていた。サリエリの葬儀以来、勇気がなくて来られなかったその場所に、ノラはとうとう足を踏み入れた。

 ノラは雪に埋まったサリエリのお墓を掘り返した。何度も場所を間違えたので、体は汗だくになり、両手は霜焼けになった。

「…………」

 やがて雪の下から黒い石が現れると、ノラはひやりとした。そこに刻まれた名前をそっと撫でると、胸は鋭い刃で貫かれたように痛んだ。

 ノラの目からは、それまで泣けなかったのがうそのように、大粒の涙が溢れ出した。涙は止まることを知らず、後から後から頬を伝った。サリエリが町を去ってから、はじめての涙だった。

 寂しい。悲しい。いろんな気持ちがノラの胸を締め付けたが、一番は可哀想で……

「約束したじゃない……」

 あまりに短く、幸薄かった彼の人生。彼のために用意されていたはずの成功や、出会いや、幸運を思うと……夢のように消えてしまったそれらを思うと、ノラは堪らない気持になった。

「大人になったら、旅をしようって……」

 楽しいことがたくさん待っているはずだった。暗く寂しい時代は終わり、すべてはこれからという時だった。もっと笑わせてあげたかった。もっと優しくしてあげれば良かった。

 そうして、たった一言彼の口から『君が好きだ』と聞けたなら。

「えっ……えっ……ひっく……」

 もう二度と彼に手を引かれることはないのだと気付いた時、決して叶えることのできない願いがあることを、ノラは思い知った。

 ノラはいつまでも、お墓の前を離れられなかった。灰色の空からはちらちらと雪が舞いはじめ、やがて墓石を覆い隠しても、ノラはその場を動けずにいた。

 声を殺して泣き続け、身も心も凍り付いた頃。

「嘆くことはないよ。怖いことも、苦しいことも、もう終わったのだから」

 背中から声がして、ノラは振り返った。そこにはロドルフォ神父が、穏やかな笑みを湛えて佇んでいた。ずいぶん前からいたようで、彼の肩には薄らと雪が積もっていた。

「サリエリは今頃、天国で幸せに暮らしているよ。寂しいのも悲しいのも、我々だけだ」

 ロドルフォ神父の慰めは、空っぽになったノラの心に染み入った。

 胸に立ち込めていた深い霧が晴れると、サリエリの笑顔が思い出せた。瞼を閉じれば、彼はその春の日差しのように温かな眼差しで、ノラを優しく包み込んだ。今もなお、二人の友情は変わることなく続いているようだった。そしてきっと、これからも続いて行くのだと思った。

(私のこと、好きだった……?)

 ノラは雪の下に埋まった墓石に心の中で語りかけて、ゆっくりと立ち上がった。悲しみはしばらく癒えそうにない。泣いてしまう日もあるだろう。それでも……

「帰るのかい?」

「はい。みんなが心配してるから……」

 ロドルフォ神父がたずねて、ノラはにっこり微笑んで頷いた。ノラはきた時よりも前向きな気持ちで、墓地を後にした。



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