決別
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ソニアと別れた後、結局ノラは墓地には行かず、帰路についた。
もと来た道を引き返してみると、橋の袂にはアベルが立っていた。長い間待っていたようで、彼の鼻の頭は真っ赤に染まっていた。
「家に行ったら、ここだって聞いて……」
ノラが近付いて行くと、アベルは言い訳するみたいに言った。
「帰ろう……」
ノラはアベルに馬車で家まで送ってもらった。道中、アベルもノラも口を開かなかった。それぞれが別の考えに耽っていたし、時折唇から漏れ出る悩ましげなため息や呟き声は、新たに降りはじめた雪に吸収されて、お互いの耳に入ることはなかった。
やがて馬車が玄関の前に到着すると、ノラはお礼を言って馬車を降りた。アベルもノラの後に続いて御者台を降り、二人は玄関の前で二言、三言会話した。
「サリエリは幸せ者だよ……好きな人が、こんなに悲しんでくれているんだもの……」
別れ際、アベルはノラの手をそっと握って、切なそうに言った。なんと答えて良いか分からず、ノラは曖昧に笑った。
「ノラ、良かった。捜しに行こうかと思っていたんだ」
アベルを見送って家に入ると、オリオが駆け寄ってきた。
オリオはノラの頭や肩に薄らと積もった雪を払い、氷のように冷たくなった頬を大きな両手で包んだ。先程まで火にあたっていた彼の手は、火傷をしそうなほどに熱かった。
「どこまで行っていたんだい?心配したよ」
「ごめんなさい」
ノラは身を捩ってオリオの手から逃れると、荷物を置いてくると言って自室に向かった。階段を上って行くノラの背中を、オリオは憂鬱なため息と共に見送った。
二階の自室では、人間の姿に化けたミライが待っていた。
『あいつには会えたか……?』
ミライはノラの顔を見ると、開口一番にたずねた。ノラは黙って首を左右に振った。ミライは気だるげな様子の彼女を抱き上げて、ベッドに連れて行った。
『少し眠ると良い。酷い顔色だ……』
「まだ眠くないわ」
ノラはミライの提案を拒絶した。
『ではせめてなにか口に入れろ。……なんでも出してやるぞ。食べやすい水菓子なんてどうだ?お前は甘いものが好きだろう?』
「いらないわ」
ノラが再び拒否すると、ミライはいらいらして、ちっと舌打ちした。
『お前は私とは違うのだ。食事はとらねばならない』
「でも、食欲がないの……」
『我がままを言うな。このままでは弱って死んでしまう』
ミライはノラを叱り付けて、懐から白磁の皿と金の匙を取り出した。ミライが皿の底を数回匙で撫でると、空っぽだった皿は瞬く間に麦粥(鮮やかなピンク色だ)で満たされた。
『一口だけでも食べるんだ。さあ……』
ミライは麦粥を匙ですくって、ノラの口元に差し出した。ノラは気乗りしない様子で、ふいと顔を背けた。
「さっきお昼を食べたばかりだから、お腹が空いてないのよ」
『嘘をつけ。スープを二口しか飲まなかったと、お前の母が嘆いているのを聞いたぞ』
ノラはうんざりしてため息をつき、ミライをいっそう苛立たせた。
ミライが皿をぐちゃぐちゃとかき回すと、麦粥はけばけばしいピンク色から血のような赤に。そして気味の悪い青紫色へと変化した。
『どうしても食べないつもりなら、無理やりねじ込んでやる』
ミライはどす黒く変色しはじめた麦粥をすくって、ノラの唇に押しつけた。ちょっぴり生臭いそれを、ノラは指先で押し返した。
「怒らないでよ。そんな顔してると本当に悪魔みたいよ」
『みたいじゃない!悪魔だ!私は』
ミライは白磁の皿と金の匙を放り投げて怒鳴った。皿の中の麦粥は驚き、すたこらさっさと逃げ出した。
『いつまでそうやっていじけているつもりだ!』
「べつに、いじけてなんかないわ」
『睡眠も食事もとらず、何日も部屋に引きこもって……これをいじけていると言わずになんと言う!』
「……放っておいてよ。ミライには関係ないでしょ」
図星を指されたノラは、むっとして言い返した。ノラの身勝手な言い様に、とうとうミライの堪忍袋の緒が切れた。
『……そんなに会いたければ、会わせてやる!』
ヒステリックに叫ぶと同時に、ミライは銀色の煙に姿を変えた。煙は膨れ上がり、瞬く間に部屋に充満した。どんどん濃くなって、扉がどちらにあるかもわからなくなった。
やれやれまたかと、ノラは何度目になるかわからないため息をついた。
「いい加減にして、ミライ。怒るわよ」
ちらりと見えた人影に向かって、ノラはいらいらした口調で言った。やがてもうもうと立ち込める煙の向こうからミライが姿を現すと、ノラは息を呑んだ。
『どうした……会いたかったんだろう?』
現れたミライは、サリエリの姿をしていた。
「あっ……」
長い前髪の奥から覗く、真っ黒な瞳。じっと見つめられると、ノラの膝はがくがくと震えだした。
足がもつれて尻もちをついたノラの前に、ミライは跪いた。彼の顔が近付いてくると、ノラはたまらず、膝の間に顔を埋めた。
「止めてミライ……!どうしてこんな酷いことをするの!?」
『酷いこと?……いいや、違う。私はお前を励まそうとしているんだ。望みの言葉を囁いてやろう、お前の気が済むまで、何度でも、何度でも』
ミライは石のように身を固くするノラの耳元に、唇を寄せた。
『なんと言って慰めてほしい?』
ミライが囁いて、ノラは恐る恐る顔を上げた。
サリエリは二か月前に別れた時と寸分違わぬ姿で、にっこりとほほ笑んでいた。サリエリのごつごつした手が頬を撫でると、ノラは心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。ノラは声を失った。
『会いたかった』
「…………」
『君のせいじゃない』
「…………」
『ずっとそばにいる』
サリエリの唇から放たれる慰めの数々を、ノラは夢見心地で聞いていた。これが現実なら、どんなに良いだろうと考えながら。
『愛してる』
しかし次の瞬間、ノラは渾身の力でもって、どんっ!とサリエリを……ミライを突き飛ばした。今度はミライが尻もちをついた。
「……悪ふざけは止めて。もとの姿に戻って」
ノラは顔を背けて、悲痛な声で懇願した。
「言っちゃ悪いけど、ぜんぜん似てないわ。……あの子は喋らないのよ」
ノラはごく当たり前のことを指摘した。『それに……』とノラは続けた。
「お別れも言ってもらえなかったのよ……」
ノラは自嘲気味に呟いた。すっかり自信を喪失しているノラには、彼が友達だったかどうかも、もはやわからなかった。まやかしの甘い言葉に翻弄される自分は、さぞ滑稽で惨めだろうと思った。
『……恐ろしいのか。真実を知るのが』
少しの沈黙の後、ミライはノラの目を見据えて、静かにたずねた。
『なにもかも今さらだもんな。死んだ人間の本心など、わかったところで益体もない』
ミライが知った風に言うので、ノラはカチンときた。なんて憎らしいことを言うんだろうと、ノラは忌々しげに鼻を鳴らした。
「ミライにはわかるって言うの?あの子の気持ちが、わかるって言うの?」
『わかるさ』
「うそよ。わかりっこない」
ノラはミライをきっと睨んで断言した。
『お前がピンチの時、あいつはいつも近くにいたはずだ』
「優しかったからよ。でも私にだけじゃない。あの子は誰にでも優しかったわ。相手が私じゃなくたって、同じことをしたはずよ」
『あいつの眼はいつもお前の背中を追っていた。あいつの耳はお前の声を決して聞き逃さなかったし、あいつの手はお前の手を握りたくてうずうずしていた』
「……もしかしたら首を絞めたかったのかもね」
ノラは瞳に暗い笑みを浮かべて、皮肉を吐いた。ミライが押し黙り、ノラは勝利を確信したが、少しも気分は晴れなかった。
「もう止めましょう……こんな話、意味ないわ」
陰鬱なため息を吐くノラを、ミライは蔑みのこもる瞳で見た。
『サリエリは、どこまでも哀れなやつだよ。親の顔も知らず、世間からは見放され、孤独を舐めて生きてきて……心を許した友には涙も流してもらえない』
ミライが嘲るように言うと、ノラは今度こそ本当に腹を立てた。
「絡まないでよ!さっきから、なにが言いたいの!?私にどうしろと言うの!?」
しばらく睨みあっていると、ミライの周りを取り巻いていた煙がだんだんと色を変え、今にも土砂降りの雨が降り出しそうな黒雲に変わった。どこからか風も吹いてきて、部屋の中は嵐のような状態になった。
『……私は卑劣なパン焼き窯の悪魔。契約を反故にされた腹いせに、私はあいつに世にも恐ろしい呪いをかけた』
怪訝そうに眉を寄せるノラに、ミライは地鳴りのような低い声で、唸るように言った。嵐はだんだん酷くなり、顔や背中を叩く風の勢いに、ノラは身震いした。
『お前の最も愛する者は、お前の声で永久の眠りにつくだろう。私が告げたその日から、あいつは頑なにその口を封じた』
ピシャーン!と、鼓膜を突き破るかのような雷鳴が轟き、ノラの身体を衝撃が駆け抜けた。ノラは信じられない気持でミライを見つめた。
『声を知らないことが、なによりの証』
唇や瞼の震えはやがて全身に広がり、ノラは震えを抑えるのに、両腕で我が身を掻き抱いた。
無口な子だと思っていた。悲しくても、辛くても、歯を食いしばって耐えて、我慢強い子だと思っていた。
「……泣くこともできなかったのよ……」
ノラの頭には、ここしばらく見続けている悪夢が……なにかを必死に伝えようとしている、サリエリの姿が浮かんでいた。
「たった一人で、誰かに相談することもできなくて……」
『…………』
「ぜんぶあんたのせいだって言うの……!?」
『そうだ』
平然と肯定したミライを、ノラは愕然と見つめた。
『私が憎いか』
ミライはぞっとするような冷たい目で見下ろして聞いた。ノラはミライの悪魔らしい顔を、ぎろりと睨み上げた。
「……出てって……」
『…………』
「出てって!もう顔も見たくない!」
ノラが叫んだ直後、バタンッ!と窓が開いたかと思うと、部屋の中に突風が吹き荒れた。灰になったミライは黒雲とともに窓から出て行き、静けさを取り戻した部屋にはノラ一人が残された。
次の日。ノラは皆で雪遊びに行こうとオリオの誘いを断り、墓地へ向かった。
「…………」
墓地には誰もおらず、辺りはしんと静まり返っていた。サリエリの葬儀以来、勇気がなくて来られなかったその場所に、ノラはとうとう足を踏み入れた。
ノラは雪に埋まったサリエリのお墓を掘り返した。何度も場所を間違えたので、体は汗だくになり、両手は霜焼けになった。
「…………」
やがて雪の下から黒い石が現れると、ノラはひやりとした。そこに刻まれた名前をそっと撫でると、胸は鋭い刃で貫かれたように痛んだ。
ノラの目からは、それまで泣けなかったのがうそのように、大粒の涙が溢れ出した。涙は止まることを知らず、後から後から頬を伝った。サリエリが町を去ってから、はじめての涙だった。
寂しい。悲しい。いろんな気持ちがノラの胸を締め付けたが、一番は可哀想で……
「約束したじゃない……」
あまりに短く、幸薄かった彼の人生。彼のために用意されていたはずの成功や、出会いや、幸運を思うと……夢のように消えてしまったそれらを思うと、ノラは堪らない気持になった。
「大人になったら、旅をしようって……」
楽しいことがたくさん待っているはずだった。暗く寂しい時代は終わり、すべてはこれからという時だった。もっと笑わせてあげたかった。もっと優しくしてあげれば良かった。
そうして、たった一言彼の口から『君が好きだ』と聞けたなら。
「えっ……えっ……ひっく……」
もう二度と彼に手を引かれることはないのだと気付いた時、決して叶えることのできない願いがあることを、ノラは思い知った。
ノラはいつまでも、お墓の前を離れられなかった。灰色の空からはちらちらと雪が舞いはじめ、やがて墓石を覆い隠しても、ノラはその場を動けずにいた。
声を殺して泣き続け、身も心も凍り付いた頃。
「嘆くことはないよ。怖いことも、苦しいことも、もう終わったのだから」
背中から声がして、ノラは振り返った。そこにはロドルフォ神父が、穏やかな笑みを湛えて佇んでいた。ずいぶん前からいたようで、彼の肩には薄らと雪が積もっていた。
「サリエリは今頃、天国で幸せに暮らしているよ。寂しいのも悲しいのも、我々だけだ」
ロドルフォ神父の慰めは、空っぽになったノラの心に染み入った。
胸に立ち込めていた深い霧が晴れると、サリエリの笑顔が思い出せた。瞼を閉じれば、彼はその春の日差しのように温かな眼差しで、ノラを優しく包み込んだ。今もなお、二人の友情は変わることなく続いているようだった。そしてきっと、これからも続いて行くのだと思った。
(私のこと、好きだった……?)
ノラは雪の下に埋まった墓石に心の中で語りかけて、ゆっくりと立ち上がった。悲しみはしばらく癒えそうにない。泣いてしまう日もあるだろう。それでも……
「帰るのかい?」
「はい。みんなが心配してるから……」
ロドルフォ神父がたずねて、ノラはにっこり微笑んで頷いた。ノラはきた時よりも前向きな気持ちで、墓地を後にした。