永遠になって
著作権は放棄しておりません。
無断転載禁止・二次創作禁止
サリエリが町を去っても、時間は止まることを知らなかった。
十一月に入り、やってきた期末試験の結果は散々なものだった。半年もの間ほとんど勉強をしていないノラは、言わずもがな席次をがくんと落とした(正確には上がったが……)。
「ノラ……いったいどうしたと言うの?あなたらしくもない」
「はあ……どうもすみません……」
成績が尻から五番目になっても悔しがる素振りさえ見せないノラを、ガブリエラは心配し、クラスメート達は気味悪がった。原因は誰が見ても明らかだった。
学芸大会の準備がはじまり、ノラは総監督であるサインツから、一番セリフの少ない、村人一の役を賜った。マルキオーレは寡黙な兵士、クリフォードは主役の王家の墓守を、アベルは墓守に神託を告げる神父の役をそれぞれ貰った。
サリエリがいなくなってから、四人はまた元通りつるむようになっていた。休憩時間や放課後、ノラが一人でいるとアベルとマルキオーレがそばに寄ってきて、クリフォードが後からふらりとやってくる。集まって話すのは、大体くだらないことだ。マルキオーレが野生のブルーベリーを食べ過ぎてお腹を壊したとか、アベルがヨハンナと森へ鳥の巣箱を見に行ってシロフクロウの赤ちゃんを見つけたとか、クリフォードが薪割りや雪かきで荒稼ぎしているとか。四人は他愛ない話を持ち寄り、話すことがなくなっても、なんとなく傍にいた。
サリエリがいなくなっても、ノラはおおむね元気だった。ただ時々、物憂げな顔で深く考え込んでいたり、授業中にぼーっとしてサインツに叱られたりした。登校時間になると気怠かったり、好物を目の前にしても食欲が湧かないこともあった。傍目には、いつも通りのノラだった。
ノラが変わらないのと同じくらい、教室もなにも変わらなかった。いつも物静かだったサリエリが人の口にのぼることはなく、空席が一つ増えたということ以外に、彼がいなくなった影響はないようだった。
日々を坦々と過ごしているうちに、学校はいつの間にか冬期休暇に入った。
夜しんしんと降り積もった雪は朝には膝の高さを超え、深雪の檻は人々を温かな家の中へと閉じ込める。男達は毎日の雪かきで腰を痛め、女達は少ない蓄えでいっそう貧しい料理を作り、痩せた馬は荷車の代わりにそりを引く。
知らせが届いたのは、十二月のある日のことだった。
晴天が何日か続いたその日、学芸大会で披露する芝居練習のため、ノラは学校へきていた。教室ではガブリエラが、ショーンの家族が一族総出で観覧に来るので椅子が足りないと大騒ぎしていて、職員室ではサインツが、ど下手のマルキオーレに演技の稽古をつけていた。
生徒達が教室に集合し、全体練習がはじまって直ぐ、ノラは職員室に呼ばれた。
職員室には、校長先生やサインツ、一緒に職員室に入ったガブリエラの他に、デムターさん、憲兵のダミアン・マスグレイヴ、ロドリーグ・バタイユなどがいた。誰も彼も、陰気な目に気の毒そうな色を滲ませてノラを見た。
「……落ち着いて聞きなさい」
ノラは悲痛な面持ちのサインツから、ことのあらましを聞いた。サリエリが拠点としていた屋敷の近くで火災があり、巻き込まれた可能性があること。現場から、サリエリ本人と思われる子供の遺体と、靴が見つかったこと。
「取り残された赤ん坊を、助けようとしたのだそうだ……」
「…………」
「彼らしいな……」
サインツの説明をぼんやりと聞いていたノラは、頭の隅で『村人の役で良かった』などと考えていた。もしも重要な役だったら、今頃みんな困っていたところだ。
教室では子供達が、お芝居の練習をしている真っ最中だった。クリフォードの溌剌とした声が、職員室の薄い壁を通り抜けて響いてくる。『なんと哀れな男だ!』
「サリエリは、死んだんですか?」
ノラがズバリたずねると、大人たちは息を呑んで、困り顔を見合わせた。あまりに突然のことで、みんな事態が飲み込めていない様子だった。それ故に、なんと慰めて良いかもわからないようだった。
大人達の心配に反して、ノラは泣きも喚きもしなかった。一週間後に行われた葬儀でも、それは変わらなかった。
サリエリの突然の死は、彼を知る町の人々に強い衝撃を与えた。子供達も例外ではなく、学芸大会が中止になり、練習が無駄になっても、誰も文句を言わなかった。
デムターさんはサリエリのために、孤児院の奥にある墓地の一番日当たりの良い場所に、立派な石のお墓を建てた。
遺体がなかったので、棺には知らせと共に帝都から届けられた、焼け焦げた靴が入れられた。人々は棺の前に並び、サリエリに別れの品を捧げた。ノラも母と一緒に列に加わった。
「さあ、ノラ……」
自分の順番が来ると、ノラは渡せなかったよれよれの手袋を棺に放り込み、さっさと列を外れた。ジャック・フォローズがお古の靴を入れてやるのを見て、『もっと気の利いたものを入れてやれば良かった』と後悔した。
「お別れの時間です」
ロドルフォ神父が厳かに告げ、棺の蓋が閉められると、どこからかすすり泣く声が聞こえてきた。泣き声は徐々に大きくなり、やがて墓地全体に広がった。
みんなが泣いていた。クラスメート達―――シルビアやカレン、エレオノーレ、ショーンやベン・ウォルソン、デイビッド・ホールド……―――も、孤児院の子供達も、いつもは気丈な母も……
中でも一番取り乱していたのは、タリスン院長先生だった。泣き崩れた彼女は地面にひれ伏し、ラーラに向かって呪いの言葉を吐いていた。この時、ノラはタリスン院長先生が本当はとても心が温かい人だということを知った。ささやかな発見は、ノラを優しい気持ちにさせた。
泣いていないのは、薄情なノラくらいのものだった。なんとか涙を出そうと、眉を寄せたり、鼻を曲げたりしてみたが、無駄だった。ノラは葬儀の間中、人々の涙で汚れた顔を、ぼけっと見ていた。サリエリはみんなに愛されていたのだと思った。
サリエリの葬儀は終始しめやかな雰囲気で執り行われ、終わった後は誰もが口を揃えて良い葬式だったと言った。ノラも同意見だった。
サリエリの葬儀の翌日、オシュレントンの町に大雪が降って、外に出られない日が続いた。腰の高さまで降り積もった雪がようやく半分まで溶けた頃、心配したアベルやマルキオーレが訪ねてきたが、ノラは仮病を使って追い返した。
部屋に引きこもり、誰にも会おうとしないノラを家族は心配したが、彼女自身はけろりとしていた。人と話すのが億劫だと感じたり、動き回るのが面倒だと思うだけで、ノラの心は落ち着いていた。
ノラは一日の大半をベッドの上で過ごし、狭い部屋が息苦しくなると、独りでふらりと森や川へ出かけ、心配した家族に連れ戻されるまで、辺りを散策した。
毎日を怠惰に過ごしていると、夢にサリエリが出てくるようになった。明け方、夢と現の間を行き来していると、彼はどこからともなく現われて、ノラに向かって必死になにかを伝えていくのだった。
『なに?なんて言ってるの?』
ノラが聞き取れないでいると、サリエリはやがて諦めて、悲しげな顔で去って行く。ノラは慌てて後を追いかけようとするが、走っても走っても追い付けず、へとへとになった頃。そうだ、サリエリの足は速いんだった!などと思い出し、夢から覚める。
何度も同じ夢を見るので、ノラは次第に、眠るのが恐ろしくなった。
「ノラ、どこへ行くんだ?お兄ちゃんが送って行ってやろうか?」
その日、ノラはオリオの申し出を断り、独りで墓地に向かった。お墓に行けば、夢の中のサリエリが、なにを言いたいのかわかるかも。そんなことを考えながら、膝まで積もった雪の中を二時間近く歩いた。
橋を渡り、孤児院の前を通り過ぎようとした時だった。森の方から響いてくる歌声に、ノラは耳を澄ました。
「……………」
のびやかで、力強くて、美しい……それでいて、聞き覚えのある歌声だった。ノラは歌声に釣られるように森の中へ足を踏み入れた。モミの木の間をしばらく歩いて行くと、開けた場所に出た。
そこにいたのはソニアだった。彼女は激しい恋の歌を(男性の浮気を責める歌だ)、大きな声で、情感豊かに歌っていた。空からはちらちらと粉雪が舞っていて、彼女の頭や肩に積もっていたが、構うことはないという風だった。
ノラはリンゴの木のそばに佇んで、複雑な旋律を見事に歌い上げるソニアを見ていた。彼女の歌を聞いたのは二度目だが、創立者祭で聞いた時より、ぐんと上手くなっているようだった。
一曲歌い終わると、ソニアはノラの方を振り向いた。最初から気付いていたようで、彼女の瞳には険悪な光が含まれていた。
「良い声ね」
ノラはそっとりんごの木の陰から出て言った。また喧嘩になるかと思ったが、ソニアは口を開かず、その心の内を探るようにじっとノラを睨んだ。
「……毎日ここで練習してるの?」
サリエリのことが大好きだったソニア。彼を失った今、彼女はどんな気持ちなのだろう?
そんなことを考えて、ノラはふと思い出した。サリエリの葬儀の時、ソニアの姿を見かけなかったことを。途中で帰ってしまったのかと思ったが、もしかしたら、はじめからいなかったのかもしれない。
「……今、墓地に行こうとしてたの」
「…………」
「良ければ、あなたも一緒に行かない?一人より二人の方が、あの子も喜ぶと思うし……」
「……嫌味なやつ。サリーはどうしてあんたみたいなのが良かったんだろ」
ノラが遠慮がちに誘うと、ソニアはいらいらした口調で呟いた。首を傾げたノラを、ソニアはじろりと睨んだ。
「もう気付いてるんでしょ?……創立者祭の日に言ったことは、ぜんぶ嘘よ」
「え……?」
「……本当はぜんぜん相手にされてなかったの……サリーは優しかったけど、みんなに平等だった……嫌われてはいなかったと思うけど、それだけよ……」
ソニアはブーツの先を見つめて告白した。気が強そうな彼女の眉がハの字を描くと、ノラは目を瞬かせた。
「あのリボンも……」
ソニアが口惜しそうに呟いて、ノラの脳裏に、あの日の記憶が蘇った。サリエリが勝ち取った、いもの皮向き競争の優勝賞品。真っ白な生地の上にレースが重なった、ランベル夫人の力作。
ソニアは確か、彼にプレゼントしてもらうのだと自慢していた。いもの皮むき競争なんて女の人の競技だと言って馬鹿にしたくせに、ちょっぴり羨んだのを覚えている。
鮮やかな記憶は小さな針となって、ノラの胸をちくりと刺した。しかし、それだけだった。
「サリーはおやつでも洋服でも、歯磨きの順番でも、ほとんどのものは譲ってくれたから……おねだりすればもらえると思ってああ言ったの」
「…………」
「でもあのリボンだけはくれなかった。泣いて駄々こねたけど、もうあげる人が決まっているから駄目だって……」
ソニアは、瞼をぱちぱちと瞬かせた。すると、目尻からぽろっと涙がこぼれ落ちた。
「……大事にしなさいよ……でなきゃ許さないからね……」
ソニアは慌ててノラに背中を向けて忠告した。ソニアの涙は、ノラを悲しい気持ちにさせた。
「それから、墓地へは一人で行って。まだ練習したいし、その方がサリーは喜ぶと思うわ」
「……もらってないわ……」
「え……?」
「私ももらってないの。リボンなんて……」
ノラが声に少しの寂しさを乗せて呟くと、ソニアは振り向いて、瞳を揺らした。
「そ、そう……」
「…………」
「……悪いけど、もう帰って。しばらく独りになりたいの」