グッバイ
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父とオリオが診療所に到着したのは、日がすっかり落ちた頃だった。
ぱちぱちと薪が爆ぜる音に耳を澄まし、火の粉が飛び散る様を見つめていると、静かに扉が開き、父とオリオがアルバート医師と共に病室に入ってきた。父の顔を見ると、ノラは安堵の息を吐いた。全身の力が抜けていくのを感じた。
「二人は外に出ていてくれ」
やがて母が目を覚ますと、アルバート医師はノラとオリオを病室から追い出した。二人は廊下の待合席に座って、父が出てくるのを待った。
「そういえばノラ、夕食まだだろ?」
「うん」
「お腹空いたなあ……帰ったらなにか作らなきゃな。今朝お母さんが作ってくれたスープ、まだ残ってるかなあ?」
オリオはのんきを装って言ったが、肩に回ったその手が微かに震えていることに、ノラは気付いていた。
半時ほどすると、父は一人で病室から出てきた。
「原因は過労と寝不足だそうだ。安静にしていれば、じきに良くなるよ」
固唾を呑むノラとオリオに、父が説明した。オリオは息を吞み、ノラはおろおろした。
「父さん、頼むから嘘は言わないでくれよ。どんな結果でも、本当のことを言ってくれよ」
「過労ってなに?ねぇ、なに?」
父は苦笑して、足にすがり付くノラの頭を大きな手で撫でた。
「過労と言うのはね、疲れ過ぎたという意味だ。お母さんは頑張り過ぎたんだよ。嘘なんかついてないよ」
オリオは今度こそ安堵して、長い長い息を吐いた。
「大事をとって、今晩は診療所に泊まるそうだ。明日の朝、迎えに来よう」
父とオリオとノラの三人は、最後にもう一度母に面会して、診療所を後にした。
三人が家に帰り付いたのは、人々が寝静まった夜更けのことだった。お隣の家の明かりは消えていて、空の高い位置に月が浮かんでいた。
母がいない家の中は、怖気立つほどしんとして、冷え切っていた。父やオリオも同じことを感じているようで、口数が少なかった。
「軽くなにか食べて、寝てしまおう」
三人は冷たいスープで食事を済ませ、それぞれのベッドに入った。
その夜、ノラは眠れなかった。眠れないと思った。少なくとも明日の朝、元気な母の顔を見るまでは……
『今夜も寝ないつもりか?』
手袋と睨めっこするノラに、ミライがたずねた。
「急がないと、出発までに間に合わないもの」
『……やれやれ。手袋くらい、私がいくらでも出してやるのに』
ミライは呆れた口調で言って、ノラを苦笑させた。
「それじゃあ意味がないのよ。これはおまじないなんだから」
『ふんっ、ご苦労なことだ。私は寝るぞ。毎晩毎晩、付き合いきれん』
もう何度目になるかわからないやり取りの後、ミライはわざとらしく大あくびをして、のっしのっしと寝床に引き上げて行った。
一人きりになった部屋で、ノラは眠い目を擦りながら、こつこつ作業を続けた。深夜零時を過ぎ、うとうとしてくると、どこからかどんぐりが飛んできて、ノラの後頭部に打ち当った。
室内にはチクタク、チクタクと、機械式時計が時を刻む音が響き、時折窓外を吹き荒れる突風が壁板の隙間を通って、ろうそくの火を揺らした。
休むことなく手を動かし続け、空が地平線に近いところからほんのりと白んできた頃。
「できたっ……」
ノラは出来上がった手袋を大事そうに胸に抱いた。ほう。と大きな息を吐くと、強張っていた肩や背中がから力が抜けて行った。
ノラは大きな伸びをして、窓を開け放った。たちまち流れ込んできた凛とした空気は、寝不足と疲労でぐずぐずになった心と肉体を清めた。
「…………」
夜のうちに降り積もった雪が、昇りはじめたばかりの朝日に、きらきらと輝いている。朝焼け色に染まる雲が、西へ西へと風に流されて行く。
なだらかな丘陵のその先まで続く白銀の世界を見つめていると、なにもかもが上手く行くような気がした。満ち足りた気持ちだった。
たわしのような見てくれだけど、この新しい朝に、ノラはとうとう成し遂げたのだ!
胸が凍り付くような、ぴりりとした空気を大きく吸い込んで、ノラは窓を閉めた。時計を見上げると、目を覚ます時間にはずい分早かった。ノラは少し考えて、机に突っ伏した。
(少しだけ……)
一〇分……いや五分したら、目を覚まして出かける支度をはじめよう。学校へ行く前に、母の様子を見に行きたいから。
「…………」
サリエリは今日、学校に来るだろうか?よれよれの手袋を、どう言って渡そうか?『私が編んだの』『大事にしてね』『お鍋を洗う時にでも使って』
(喜ぶかな……)
瞼を閉じていくらもしないうちに、ノラはうとうとしはじめた。体は疲れ切っていて、脳みそはバターのようにとろけていた。
ノラはサリエリのはにかむような頬笑みを空想しながら、幸福な気持ちで意識を手放した。サリエリが町を出て行くことが決まって以来、久しぶりの安らかな眠りだった。
ノラが目を覚ましたのは、太陽はすっかり昇りきり、部屋中がぽかぽかと暖かくなってきた頃だった。
どうして机で眠っているんだろう?などと考えながら起き上がると、肩にかけられた毛布が、背中を滑って床に落ちた。
「…………」
しばらくぼんやりしていると、次第に記憶が蘇ってきた。ほんの少し休息するつもりが、かなり長い時間眠ってしまったようだった。ふと時計を仰げば三時間近くが経っており、ノラは慌てた。
「大変……!」
ノラは急いで身支度を整えると、出来上がったばかりの手袋をかばんに突っ込んで、家を飛び出した。
「おはようノラ。そんなに慌てて、どうしたの?」
ノラが玄関を出ると、お隣のアンジェラ・カルカーニが、しっかりした足取りで近寄ってきた。
「おはようおばさん。寝坊して遅刻しそうなの。またね」
「気を付けて行くんだよ」
「はあい」
息急き切って学校に到着すると、教室では授業の真っ最中だった。教壇にガブリエラの姿はなく、代わりにサインツが教鞭を執っていた。
なんで今日に限って!ノラが不運を呪いながらそろそろと教室に入って行くと、サインツは黒板に文字を書く手を止め、目を皿のように見開いて ノラを見た。静かに授業を受けていたクラスメート達も、驚き顔でノラを振り返った。ノラの頬に冷汗が伝った。
「すみません、昨日お母さんが倒れて、それで……」
みんなの視線を一身に集めたノラは、しどろもどろに遅刻の言い訳を口にした。すべて言い終わるのを待たずに、クリフォードががたんっ!と椅子から立ち上がった。
クリフォードの頬は赤く腫れ上がり、頭には大きなたんこぶができていた。
「お前、こんなところでなにしてるんだよ……?」
「え……?」
それ、どうしたの?とたずねる前にクリフォードから質問され、ノラは首を傾げた。ノラが質問の意味を理解できずにいると、彼の顔はみるみる険しくなった。
「今日、あいつの出発だろ……?見送りに行かなくて良いのか……?」
クリフォードは窺うようにノラを見て、注意深くたずねた。ノラを目を瞬かせた。
(あいつって……)
ノラは教室を見渡した。サリエリの姿はなく、クラスメート達は困惑した顔でノラを見つめていた。サインツは苦渋の表情で、額を手のひらで覆っていた。
「予定が早まったんだよ……!知らなかったのか……!?」
呆然としているノラに、クリフォードはじれったそうに怒鳴った。ノラはうそだと叫びたかったが、彼の真剣な瞳は真実を物語っていた。
「あっ……」
目の前が真っ暗になり、ノラはがたがたと震えだした。膝から崩れ落ちそうになったノラを、クリフォードの腕が抱き留めた。
「行こうノラ。まだ間に合うかもしれない」
ノラはクリフォードの提案に辛うじて頷き、彼の腕に抱えられるようにして教室を出た。
「私の馬車を使え」
慌てて後を追いかけてきたサインツが言って、クリフォードとノラは彼の荷馬車の御者台に乗り込んだ。
「行くぞ!」
クリフォードが手綱をぴしゃりとしならせると、サインツの荷馬車は雪道を猛スピードで駆け出した。
「はあっ!……はあっ!……」
クリフォードは、馬が悲鳴を上げるほど鞭をくれた。無茶苦茶に馬車を走らせる彼の横で、ノラは両手を固く握り合わせていた。ノラは思い出していた。
『一刻も早くこの町から逃がすんですな』
一昨日、孤児院で聞いたダミアンの言葉。あの時、あの言葉の意味をもっと深く考えていれば……
(うそ……)
ノラは無意識に、親指をがりっと噛んだ。強く噛み過ぎて指先に血が滲んだが、その痛みさえも、ノラの心を正気に戻すことはなかった。
(うそよっ……)
ノラの耳には、ごうごうと鳴り響く風の音も、苛立つような馬の嘶きも、聞こえてこなかった。自分自身の拒絶の叫びだけが、彼女の鼓膜を、心を劈いた。
まだお別れも言えてない。やっと完成した手袋も渡せていない。まるで悪夢のようだ。ずっと恐れていたことが、現実になってしまった。
(誰かうそだと言って……!)
ノラは祈るような気持で、サリエリが待っていてくれることを願った。しかしやっとのことで到着した町の入り口に、彼の姿は影も形もなかった。
ノラとクリフォードが道の先を見つめていると、学校に戻る途中だったガブリエラが、二人に気付いて引き返してきた。
「ノラ!あなた、今までなにしていたの!?サリエリはもう行ってしまったわよ!」
ガブリエラは泣きはらした目で、責めるようにノラを睨んだ。
「それが……こいつ知らなかったみたいで……」
呆然としているノラの代わりに、クリフォードが答えた。ガブリエラは怪訝な顔をした。
「そんなはずないわ。サリエリは確かに、あなたが来るはずだって」
ガブリエラが気色ばんで反論して、ノラはいっそう訳がわからなくなった。
「私、なにも聞いてない……今日出発するなんて……」
ノラは震える唇から、やっとのことで声を絞り出した。混乱したノラの様子を見ると、ガブリエラも嘘ではないということがわかったようだった。ガブリエラは気まずそうに視線を逸らした。
「……あいつ昨日、俺んちにきたんだ。出発が早まったから、挨拶して回ってるんだって言ってた……」
クリフォードはノラが口を開く前に、彼女の疑問を察して答えた。
「俺はてっきり、お前のところにも行ったものだと……」
クリフォードが言い辛そうに告げて、ノラは両手足から力が抜けて行くのを感じた。
「追いかけよう!急げばまだ捕まえられる!ほら……!」
早く!
クリフォードはノラの腕を取って、ぐいと引いた。ノラは動こうとせず、クリフォードは首を傾げた。
「?……ノラ?」
「いいの……もう……」
ノラは胸に溜まった息を細く吐き出し、静かに首を振った。
ノラは目を細めて道の先を見つめた。薄らと大地を覆う粉雪の上に、轍が伸びている。サリエリは、旅立ったのだ。
落ち着き払ったノラの様子を見て、クリフォードは血相を変えた。
「なんで!?……会いたいんだろ!?あいつのこと、好きなんだろ!?」
「…………」
「絶対追い付いてやるから!ちゃんと別れを言えよ!」
「…………」
「でないとお前、後悔する……!」
クリフォードの説得を、ノラは頑なに拒絶した。これで良いと思った。胸中を渦巻いていた不安は嘘のように消え去り、心は凪いで穏やかだった。涙も出なかった。
クリフォードはどこまでも正しかった。サリエリの訃報が届いたのは、彼が町を去って、二か月後のことだった。