サリエリの秘密
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次の日の放課後。学校から飛ぶように帰宅したノラは、手早く昼食を済ませて孤児院へ向かった。
その途中のことだ。教会の前の道を歩いていると、後ろから荷馬車がやってきた。御者台にはクリフォードが乗っていて、彼はノラに追い付くと、手綱を引いた。
「乗れよ」
クリフォードは御者台の上から、素っ気ない口調で言った。喜ぶ反面、ノラはうろたえた。ミミエスから戻ってきて以来……いやもっと前から、彼とはろくに話もしていない。
「い、いいよ……もう直ぐだし……」
「いいから、乗れ」
クリフォードは有無を言わさぬ口調で命令して、手を差し出した。彼は遠慮がちに伸ばされたノラの手をつかみ、ぐいと御者台に引っ張り上げた。
「孤児院になにか用?」
「俺があいつに会いに行ったらおかしいかよ」
クリフォードはノラの質問に、つっけんどんに答えた。
「そんなことないけど……」
しょんぼりと俯くノラを見て、クリフォードは苦い顔をした。
「今日、仕事が休みだから……」
クリフォードは一度深呼吸した後、努めて穏やかな口調で切り出した。ノラは目を瞬かせた。
「仕事……?」
「平日はブレトンさん家で雑用やってんだ。庭木の剪定とか、パーラーの店番とか、そんなこと」
クリフォードは進行方向から視線を逸らさずに言った。
「最初は休みの日だけって約束だったんだけど、一つ許したら、二つも三つも同じみたいでさ。親父は好きにしろって。殴られるのを覚悟してたのに、あんまりあっさりしてるんで拍子抜けだよ」
鼻頭をかきかき話すクリフォードの顔を、ノラはまじまじと見つめた。
彼のこんな顔を見るのは、こんなに長く声を聞くのは、いつぶりだろう?喜びがゆっくりと腹の底からせり上がってきて、ノラは顔を綻ばせた。クリフォードは、そんなノラの方をちらりと見て、はにかんだ。
ノラはもっと聞いていたいと思ったが、クリフォードはそれきり口を噤んでしまった。彼はできるだけゆっくりと馬車を走らせた。会話はなく、お互いにぎくしゃくしていて、終始気詰まりな雰囲気だったが、仲直りを望むノラにしてみれば、大きな前進だった。
孤児院に到着したノラは、サリエリを捜して院内を歩き回った。クリフォードはその後を付いてきた。子供達の姿はなく、廊下はひっそりと静まり返っていた。
一階のすべての部屋を捜し終えると、二階へ足を向けた。階段を上りきったところで、院長室の方から人の話し声が聞こえてきた。
『裁判がはじまった』
扉の隙間からそっと中を覗くと、室内にはタリスン院長先生とサリエリ、憲兵で巨漢のダミアン・マスグレイヴ、それから、同じく憲兵でマッチョのロドリーグ・バタイユと、サミュ・シャンプティエがいた。タリスン院長先生と憲兵達は、部屋の真ん中で真面目くさった顔を突き合わせ、サリエリは隅の方で壁を背にして、靴の先を見つめていた。
ノラとクリフォードは異常な気配を察し、声をかけるのをためらった。
「今回は事情が事情なので、大きな問題にはならないとは思うが……被害者の一人が騒いでいるそうだ。乗り込んでくるのも時間の問題だろう」
ドアの前で立ち尽くしていると、ダミアンが唸るように言った。
ノラははっとして、隣のクリフォードを見やった。彼の眼差しには疑いが含まれていた。
「不幸中の幸いだったのは、盗まれたものがすべて持ち主に返却されたことだ」
「……それで、どうしましょう、マスグレイヴさん」
「本人がいなけりゃ、どうとでもなります。一刻も早くこの町から逃がすんですな」
秘密を知られるわけには行かない。ノラはすぐさまクリフォードの腕を引いたが、彼は石像のように固まって、一歩もその場を動こうとしなかった。視線は室内の話し合いに釘付けだった。
「クリフ……もういいよ……また後で来よう……?」
「…………」
「クリフっ……!」
ノラは焦れた風にクリフォードの名を呼んだ。クリフォードはちらりとノラの顔を見たが、直ぐに視線を戻し、室内の会話に意識を集中した。
そのうち、ダミアンが部屋の中を歩きだした。彼は壁際に佇むサリエリの前に、巨大な岩のように立ちはだかった。
「大変なことを仕出かしてくれたな。よりによって知事の屋敷に盗みに入るとは……」
疑いが確信に変わると、クリフォードの瞼が驚愕に見開かれた。ノラは狼狽し、頭を抱えた。ああ!神様……!
「悪戯で万引きするのとは訳が違うんだ。銅貨一枚でも欠けていたら、少年刑務所送りになっていたかもしれないんだぞ」
「…………」
「わかってんのか」
ダミアンはその大きな手で、サリエリの横面を軽く叩いた。サリエリは荒んだ目でダミアンを見上げ、ぷいっとそっぽを向いた。
「……ちっとも反省してねぇな」
「…………」
「その男気は認めるがね、俺達はお前のせいで三日も寝てないんだ。一言くらい、なにかあっても良いんじゃないか?」
サリエリが無視していると、ダミアンは忌々しそうに舌打ちをし、部屋の中央に戻った。
「本当に申し訳ありません、マスグレイヴさん……」
タリスン院長先生が謝罪すると、ダミアンはその厚皮面に紳士然とした愛想笑いを浮かべて、『あなたのせいじゃありませんよ』と言った。
「とにかく、このたびの一件を町の人間に知られるわけにはいきません。我々はこれからミミエスにとんぼ返りして、先方に事情を説明してきます。幸い、今回はオシュレントン氏が同行して下さるそうです。なんとかなるでしょう」
ダミアンは頼もしげに保証して、タリスン院長先生を安心させた。
「出発までこの強情な坊やは物置にでも閉じ込めておくんですな」
ダミアンがつまらない助言を口にした、その時だった。
それまで黙って話を聞いていたロドリーグ・バタイユが、ぱっと二人を……扉の方を振り向いた。ロドリーグは広い室内をたったの三歩で横切り、荒々しく扉を開いた。
咄嗟にクリフォードがずいっと前に進み出てノラを背に隠したが、長身のロドリーグには通用しなかった。
「お前たち……」
ロドリーグが呆れたように呟き、タリスン院長先生は額を抑えて嘆きのため息をついた。
はじめ、サリエリはクリフォードの顔を『珍しいやつがきた』とでも言うようにぼんやり見ていた。しかしクリフォードの背中からノラが姿を現した途端、彼の瞼はみるみる見開かれ、目玉がごろっと転げ落ちそうな程になった。頬は腐ったじゃがいもみたいな色になり、尖った顎はがくがくと震えだした。
「いつからそこにいた?どこから聞いていたんだ?」
ロドリーグは遥か頭上から、クリフォードとノラを憤怒の形相で睨みつけ、厳しい口調で問いただした。
「はじめからだよ」
ノラがおろおろしていると、クリフォードがロドリーグの剣幕に対抗するように、苛立ちを含んだ声で答えた。
「裁判ってなんだ?知事の屋敷に盗みに入ったって、そいつがか?」
クリフォードは矢継ぎ早に質問した。サリエリをじろりと睨むクリフォードの瞳には、ありありと疑念が浮かんでいた。タリスン院長先生やダミアン、ロドリーグは困り顔を見合せた。
「……とにかく、部屋に入れ」
ロドリーグに促され、クリフォードとノラは狭苦しい院長室に足を踏み入れた。
ゆっくりとした足取りで部屋に入ってくるノラを、サリエリの視線が追いかけた。ノラはちらりと彼の方を見やったが、決まり悪さから、すっと視線を逸らした。
誰も知らない、気付かない、わずか二秒のやり取りの直後。サリエリは弾かれたように壁際を駆け出した。激しく扉にぶち当たったかと思うと、あっという間に部屋を飛び出して行く。
ノラは一瞬遅れて、サリエリの後を追った。廊下を疾走し、転がるように階段を下り、足がもつれそうになりながら孤児院の外へと躍り出た。
「待って!お願い待って! 」
サリエリはノラの制止の声に耳を貸さず、それどころかぐんぐん速度を上げて、ノラを引き離した。彼の背中は瞬く間に小さくなり、橋を渡りきったところで、とうとう見失ってしまった。
サリエリが行ってしまうと、ノラは地面にへたり込んだ。胸を締め付けるような息苦しさは、全速力で走ったせいだけではなかった。
膝の間に顔を埋めて荒い呼吸を繰り返すノラの脇を、クリフォードが駆け抜けて行った。彼はノラが声をかける間もなく、サリエリの後を追って道の向こうへ消えた。