はじめてのキス
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サリエリの帰りを指折り数えて待つ間、ノラはたびたび孤児院に足を運び、子供達から様々な話を聞いた。
孤児院には、ノラの知らないサリエリがたくさんいた。
サリエリは面倒見の良いお兄さんで、小さい子供達に好かれていること。仕事が確かなので、タリスン院長先生や世話係のラーラから信頼されていること。勉強のために、夜中にろうそくを使うことを特別に許されていること。自分のことはあまり喋りたがらないこと。大事なものはどこかに隠して、絶対に見せてくれないこと。合唱の練習が嫌いなこと。冬より夏が好きなこと。最近髪型を気にするようになったこと。靴のサイズが合っていれば、もっと速く走れること。手先が器用で、手造りのおもちゃを作ってくれること。
サリエリをよく知る子供達と触れ合っていると、彼がいない寂しさや不安が、紛れるような気がした。
はじめのうち、ノラが孤児院を訪ねて行くとソニアが金切り声をあげたが、そのうち諦めて逃げ回るようになった。
タリスン院長先生はいい顔をしなかったが、いやな顔もしなかった。というのも、追い出されないように、ノラは率先してラーラの仕事を手伝った。食事の支度や掃除の合間にやんちゃな男の子たちを追い回せるノラは、実に役に立つ子守りだった。
アベルやマルキオーレも、しばしばノラにくっ付いて孤児院を訪れた。アベルは女の子達のおままごとに付き合わされ、マルキオーレは小さい男の子達のおもちゃにされた。
サリエリがいない季節はゆっくりと、穏やかに過ぎた。日に日に寒くなり、少し早い初雪が長く厳しい冬の訪れを告げた。森の動物達は冬ごもりの準備を終えて眠りにつき、人々は薪を集め、子供等は納屋の奥から、スキー板やそりを引っ張り出した。
サリエリがヴォロニエから帰ってきたのは、二十日後の日曜日のことだった。
その日、ノラはいつもの通りアベルとマルキオーレに挟まれて礼拝堂の片隅に座り、神父様の説教に耳を傾けていた。
孤児院の子供達による合唱が終わり、そろそろ解散という頃だった。礼拝堂の入り口付近が騒がしくなり、デムターさんとサリエリが入ってきた。
「お帰りなさい、デムターさん」
「長旅ご苦労様。ヴォロニエはどうだったね?」
デムターさんとサリエリは、二人の帰りを待ち侘びていた、もしくは土産話を期待する人々によって、あっという間に取り囲まれた。
「ノラ……!」
「う、うんっ……」
ノラはアベルに促されて、いそいそと人垣に近寄った。
ノラが分厚い壁の前で往生していると、見かねた母が人垣をかき分けて、ノラを中心まで連れて行った。
母に手を引かれてサリエリの前に躍り出たノラは、半月ぶりに見る彼の姿に目を見張った。
「どうだい、良く似合うだろう?」
ノラの驚き顔に気を良くしたデムターさんが、サリエリを彼女の前に押し出した。
彼は上等なウールの上下を着て、ぴかぴかの革の乗馬ブーツを履いていた。さんばらの髪も綺麗に撫で付けられて、金持ちの坊ちゃんという風体だった。
「やあ!見違えたなあ!」
「君、本当にサリエリかい?」
「着るものでこうも変わるものかね」
サリエリの変身ぶりを見た人々は、口々に彼を褒めそやした。彼の帰郷を心待ちにしていたはずのノラは、喜ぶのも忘れて困惑した。
「素晴らしいですわ。私達など、洋服のことまで気が回らなくて」
そばにいたガブリエラがノラの肩にそっと手を置き、彼女は我に帰った。
「いえね、帝都へ行くのに着たきりじゃいかんと思いましてね。急いで誂えてもらったんですよ」
デムターさんは少し得意げに言った。
「サリー坊やはこの町の誇りですよ。国一番の学校へ行くのだから、相応しい格好をしなけりゃね」
持ち上げられて、気恥ずかしそうにするサリエリを、ノラは声もなく見つめた。話したいことがたくさんあったはずなのに、言葉が出てこなかった。
口を開こうとしないノラを、サリエリは少し不安そうに見た。
「彼女は君が帰ってくるのを待っていたんだ」
ノラが戸惑っていると、アベルが横から助け船を出した。
「……そうなの……私、待ってたの……」
ノラは震える唇から、やっとそれだけ絞り出した。さみしかった。会いたかった。伝えたかった言葉のほとんどは、涙になって頬を伝った。
「お帰りサリエリ。服、とっても似合ってる……」
サリエリの出発は、その月の中頃に決まった。
校長先生の計らいで、サリエリは再び学校に通えることになった。授業中、黒板を使って筆談していたのがばれて立たされたり、机の下でそっと小指を絡めて、隣の席のベン・ウォルソンに冷やかされたりした。
隣同士の席に座り、教室の後ろから同じ顔ぶれを眺めていると、彼が町を出て行くなんて、嘘なんじゃないかと思いはじめた。代り映えのしない、少し退屈な毎日が、この先もずっと続いて行くような気がした。
いつもと変わらない日常は、ノラに永遠を錯覚させたが、実際はなにもかもが少しずつ変化していた。デイビッド・ホールドは先月から三センチも身長が伸びたし、トリシア・フォローズは自慢のロングヘアを五センチカットした。空からは粉雪が舞い、子供達はロングコートや、首元がちくちくするセーターに身を包み、教室の壁には隙間風が入り込まないよう、ぼろきれが詰められた。
ノラとサリエリは残された僅かな時間を、許される限り一緒に過ごした。
町のいたるところで二人の姿が目撃された。晴れた日は手を繋いで森を散歩し、曇りの日は焚き火のそばで肩を寄せ合い、雪の日には真っ白な地面に夢中で足跡を付けた。
二人を邪魔する者はなかった。一分一秒を惜しんで絆を確かめ合う二人を見ていると、両親や、オリオや、ミライでさえ、同情せずにはいられないのだった。
幸福な時を過ごす一方で、ノラは刻一刻と迫りくる別れを思い、眠れぬ夜を送っていた。
ベッドに横たわり室内を満たす暗闇を見つめ、『せめてあとひと月あれば……』などと考えては、なにかの手違いで出発が延期されるところを想像する。
(どこへも行かないで、ずっとそばにいて)
都合の良い空想に耽った後は、現実がいっそう冷たく感じられた。サリエリがこの町を出て行く日のことを思うと、指先から凍り付いて、やがて身動きが取れなくなった。息苦しくなって、呼吸が止まってしまうような気がした。
寝付けない夜、ノラはセーターを解いて作った毛糸で、手袋を編んだ。ろうそくの頼りない明かりの中で、彼のことを思いながらせっせと手を動かしていると、不思議と心が落ち着いた。
出発まで一週間を切ったある日。ノラとサリエリは孤児院の前の雪かきを済ませた後、物置の奥に身を隠した。タリスン院長先生は次々用事を言い付けるし、子供等は遊んで遊んでとうるさいし、このままじゃ永遠に二人きりになれないと思った。
「しー、静かに……」
捜し回っていた子供達が諦めてどこかへ行ってしまうと、ノラはほう。と息をついた。
「やっといなくなったわ。……ああ、疲れた」
サリエリは追い回されてくたくたになったノラを見て、くすくす笑った。ノラはそんなサリエリをじろりと睨み、大きなため息をついた。
「わかってるわよ……独り占めしちゃいけないって……」
「…………」
「でも、あの子たちは夜も一緒にいられるんだもの。ちょっとくらい譲ってくれても良いと思うわ!」
ノラは堂々と主張して、サリエリをもじもじさせた。
二人はひとまず物置の床に腰を落ち着けた。二人きりになったは良いものの、特にやることもなく、サリエリはぼんやりと中空を舞う埃の影を見つめ、ノラは手持無沙汰に肘のかさぶたを引っ掻いた。
「静かね……」
かじかんだ両手にはーっ息を吹きかけて、ノラは呟いた。音のない物置は、別世界のようだった。子供達の声や、タリスン院長先生のきちんとした足音が遠くの方に聞こえた。
「……ダニエルとキャスリーン、来年の春にとうとう結婚するんだって」
少しして、ノラは何気なく切り出した。
「想像できる?あのおっかないナックルさんが、ダニエルのお義父さんになるのよ。挨拶に行ったら、さっそく怒られたそうよ。遅すぎる!って」
ウィナー家の長女でのんびり屋のキャスリーンは、今年で三〇歳になる。御者のダニエルは彼女より二つも年下だが、父親としては、売れ残り寸前の娘を押し付けられるなら、この際相手は誰でも構わないのだろう。
「ヨハンナはね、一八歳までには結婚したいんだって。シルビアは、女の幸せは結婚して家庭に入ることだって」
「…………」
「どう思う?」
出し抜けにたずねて、ノラはちらりとサリエリの顔をうかがい見た。彼は黒い瞳に不思議そうな色を浮かべていた。
「……私はね、いいなあって思うのよ……結婚って、好きな人とずっと一緒にいられるってことだもんね」
「…………」
「で、でも、やっぱり私じゃ無理かも……私のようなお転婆をお嫁に貰ってくれる人は、この国にはいないってシルビアが……そんなのは、よっぽど心の広い人だって」
サリエリはしどろもどろに喋りまくるノラを、怪訝な目で見た。ノラは慌てた。
「し、失礼しちゃうわよね!もしかしたらどこかに、私みたいのが良いって言う、変わった人もいるかもしれないじゃない。……そうよ、一人くらい……」
「…………」
「……どこも行くところがなかったら、孤児院の先生になっちゃおうかな……タリスン院長先生とか、ガブリエラ先生とか、独身でも立派にやってる人はいるわけだし、子供達も結構かわいいし……」
「…………」
「ここにくれば、あんたにも、会えるし……なんて……」
ノラは今にも消え入りそうな声で呟き、赤らんだ頬を隠すように俯いた。
ノラがいつまでも顔を上げられないでいると、サリエリのごつごつした働き者の手が、不意にノラの手に重ねられた。見れば彼は、その冷たい掌とは反対に、熱い眼差しでノラを見つめていた。
サリエリの薄い唇は寒さのために色を失い、微かに震えていた。そこから吐き出される白い息が自分のそれと混じり合うと、ノラの背筋はぶるりとわなないた。
彼の喉仏がごくりと動いて、生唾を飲み込んだのがわかり、ノラは静かに瞼を閉じた。
「…………」
サリエリはノラの両目が完全に光りを失うのを待って、距離を詰めた。サリエリの手が肩に触れると、ノラの胸は緊張と興奮で、はち切れんばかりに膨らんだ。
ノラはふと、はじめてサリエリに抱きしめられた時のことを……体の芯を震わすような抱擁を思い出した。あの時みたいにきつく抱き締めて欲しいと思ったが、肩に触れるサリエリの手は、羽毛の肩掛けのように柔らかかった。こそばゆくて身を捩ってしまいそうになるのを、ノラは服の端を握りしめることで堪えた。
どき、どき、どき、どき。二人の距離はゆっくりと縮まり、ノラは息を詰めた。
サリエリの冷たい鼻先が、ノラの赤く染まった鼻先を掠めた、その時。
「きゃっ!」
物置の扉が不意に開き、隙間からロザンナが顔を覗かせた。
「なにしてるの?」
ロザンナは顔を寄せ合う二人を爛々とした瞳で見てたずねた。我に返った二人は、慌てて距離をとった。
「な、なんでもないのよロザンナ。さあ、あっちで遊びましょ」
「ねぇ、ここでなにしてたの?」
ノラはしつこく聞き出そうとするロザンナの背を押して、いそいそと物置から出た。サリエリも後に続いた。
「ロザンナ!こんなところにいた!」
三人が物置を出ると、眉を吊り上げたシンシアが駆け寄ってきた。
「あなた、また食器に悪戯したわね!いらっしゃい!院長先生がかんかんよ!」
「きゃーっ!きゃーっ!」
ロザンナは甲高い悲鳴を上げながら、あっという間に廊下を引きずられて行った。
廊下に取り残されたノラとサリエリは、お互いの熟れたいちごのような顔を見合せ、お腹を抱えて笑った。
その夜、サリエリはノラを馬車で家まで送って行った。
玄関の前に到着しても、ノラはなかなか御者台を降りようとしなかった。もじもじするノラをサリエリが怪訝な顔で見ていると、彼女は彼の唇に、素早くキスした。
「また明日ね……!」
ノラは逃げるように御者台を飛び降り、家の中に駆け込んだ。後には目をまん丸にして放心するサリエリが残された。
「お帰りノラ」
「た、ただいまっ……」
「?」
赤い顔を隠し、慌ただしく階段を駆け上って行くノラを見て、オリオは不思議そうに首を捻った。
ノラが部屋に飛び込んでから五分も後に、馬車が走り去る音が聞こえてきた。じっと耳を澄ましていたノラは、音が完全に聞こえなくなると、はーっと長い息を吐いた。
『……ずいぶん遅かったな』
ノラが胸を押さえて深呼吸していると、どこからかミライの声が聞こえてきた。部屋の中は真っ暗で、彼がどこにいるのか、どんな姿をしているのかさえわからなかった。
「孤児院に行ってきたの。子供達が帰してくれなかったのよ」
ノラは荷物を床に置き、どこかにいるミライに向かって言い訳した。
「……彼、もう直ぐ町を出るのよ。会わなくていいの?」
『構わん。とうの昔に絆は断たれ、蘇ることはない』
「最後かもしれないのよ……」
口にした途端、ノラは憂鬱になった。サリエリが町を出るまであと少し。残り時間はいくらもない。
『……だとしても、悪魔が挨拶もないもんだ』
ミライは皮肉っぽく答えた。
その夜も、ノラは不安な気持ちに負けないよう、手袋作りに没頭した。
「あー……またひと目足りない……」
生まれてはじめての編物は、とても難しかった。間違いに気付いてがっくりと肩を落とし、解いてはやり直す。失敗ばかりで遅々として進まなかったが、サリエリが喜ぶ顔や、彼のごつごつとした働き者の手を想像しながらする作業は、少しも苦ではなかった。ミライはネズミの姿に変身して、毛糸玉を転がしたり、編棒にぶら下がったりして、ノラの邪魔をした。