ノラと孤児院の子どもたち
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次の日。サリエリの旅立ちの日取りが、ガブリエラの口から発表された。あまりに急なので子供達は驚いたが、それだけだった。
「帝都かあ……いいなあ、サリエリのやつ。俺も一度でいいから行ってみたいよ」
隣の席のベン・ウォルソンの無神経な発言が、ノラを苛立たせた。なにがいいもんか、と人知れず呟いて、ノラは心の耳をふさいだ。
それから、ノラは教壇に立つガブリエラの声も、休み時間の喧騒も無視して、窓の外を眺めていた。空は晴れ渡り、太陽は燦々と輝き、夏が戻ってきたような陽気だというのに、ノラの心には土砂降りの雨が降っていた。ノラの胸は今にも悲しみに押し潰されそうだった。
教室の一番後ろの席で物憂げに窓外を見つめるノラを、クリフォードがじっと見ていた。
放課後、ノラは生徒達が全員教室を出るのを待ってから職員室へ向かった。ノラが入って行くと、先生達は来るのがわかっていたような顔をした。
相談にきたは良いものの、どう切り出して良いかわからず、ノラはまごついた。
「帝都までは一か月以上もかかる道のりだし、途中には難所もあるわ。雪が降りはじめたら馬車での移動は難しくなるから、私が帰る時に、一緒にと言うことになったの」
ノラの戸惑いを察したヘルガが、丁寧に説明した。事情を聴き、ノラはほう、と息をついた。
「そうだったんですか……」
「サリエリは、出来るだけ長くこの町のとどまりたいと言ったのよ。あまりに急のことで驚いたでしょう……あなたの寂しい気持ちわかるわ。気を落とさないでね」
職員室を出たノラは、真っ直ぐ家に帰った。孤児院には行かなかった。大き過ぎる借りを作ってしまい、どんな顔をしてサリエリに会えば良いのか、わからなかった。
ところが、ノラが家に帰り付いて小一時間ほどした頃、サリエリが訪ねてきた。オリオは猛烈に嫌な顔をしたが、追い返したりはしなかった。
ノラとサリエリは二人きりになれる場所を探して、パン焼き窯のそばに積み上げられた薪の束に腰掛けた。
「出発……一か月後だってね……」
長い沈黙の後、ノラは囁くような声で切り出した。サリエリは一度顔を上げてノラを見たが、また直ぐに視線を下げて、膝小僧を見つめた。
「院長先生に聞いたのよ……」
サリエリの悲しげな横顔を見つめていると、胸の奥からふつふつと卑屈な気持ちがわき上がってきて、ノラを苛んだ。
「……私のせいなんでしょ……?」
たまらなくなって、ノラはたずねた。サリエリが首を左右に振って否定した、次の瞬間。
「うそよ!」
ノラの感情は爆発した。大きな声で叫ぶと、サリエリはびっくりして目をまん丸にした。
「隠さないで、本当のことを言って……!私に付き合って家出なんかしたから、出発が早まったんでしょう……!?」
面食らうサリエリに、ノラは猛然と詰め寄った。
「本当は怒ってるんでしょう!?馬鹿なことしたって、思ってるんでしょう!」
「…………」
「私なんかに構わなければ、あんたは……!」
ノラの目から大粒の涙が溢れ出し、サリエリは狼狽した。とっさに、涙を拭おうと頬に伸ばされたサリエリの手を、ノラはぱしん!と払いのけた。
「お前のせいだって、はっきり言えば良いじゃない!どうして平気でいられるの!?なぜなにも言わないのよ!」
「…………」
「っ……」
涙で曇る視界の向こうで、サリエリが困り果てていた。さんざん喚き散らしたあと、居た堪れなくなったノラは、サリエリを置き去りにして家に駆け込んだ。
「……サリエリは帰ったよ」
しばらく二階でぐずぐずしていると、オリオが伝えにきた。ノラは助けを求めるように、オリオの首に抱きついた。怒りと羞恥で真っ赤にした妹の顔を見て、オリオは困惑した。
「夕食には起こしてやるから、少し休みなよ。たぶん、疲れているんだよ……」
オリオはノラが泣き止むのを待って、彼女をベッドに寝かせ、部屋を出て行った。一人になったノラは一晩中、布団の中で自己嫌悪に身悶えた。
翌日と翌々日の土日、ノラは両親がなにも言わないのを良いことに、一歩も家から出ずに過ごした。夕方くらいにサリエリが訪ねてきたが、居留守を使って追い返した。子供みたいに泣いて責めて、合わせる顔がないと思った。
ようやく気持ちの整理が出来たのは、月曜日のことだった。
「サリエリなら今朝早くに出発したよ」
放課後に孤児院を訪ねたノラは、世話係のラーラ・アクロイドからサリエリが旅立ってしまったことを聞き、愕然とした。
「サリエリがあんたに伝えに行ったはずだけど……」
「…………」
「会わなかったのかい?」
血の気が引いた青い顔で立ち竦むノラに、ラーラが怪訝そうにたずねた。
(そんなっ……!)
足元の地面は揺らぎ、視界がぐにゃりと歪んだ。空と地面がひっくり返ったようで、目眩がしてよろめいたノラの身体を、ラーラが慌てて抱きとめた。
「そんなに動転しなくても、ちゃんと帰ってくるよ」
「え……?」
「私も詳しいことは知らないが、帝都までは長い道のりだから、先にヴォロニエで準備を整えるんだとさ」
ノラはほーっと長い安堵の息をつき、ラーラは苦笑した。
「いつ帰ってくるの……?」
「さあ……何日滞在するかにもよるけど、ヴォロニエまでは片道七日ほどだから、半月以上はかかるんじゃないかね」
「そんなに……」
「でも馬で行ったから、馬車よりは早いと思うよ」
気落ちするノラを軽く励ますと、ラーラは洗濯かごを抱えて孤児院へ戻っていった。
ほんの数秒間、しかし大きな恐怖を味わったノラは動く気になれず、しばらく孤児院の玄関先にへたり込んでいた。
(準備ってなんだろう……?)
膝を抱えてあれこれ考え込むノラの様子を、孤児院の子供たちが窓や物陰からうかがった。彼等は興味津々といった風で、用事がある振りをしてノラの目の前を横切ったり、わざと大きな物音を立てたりした。
(帰ってくるよね……)
ノラの頭の中では、例えば『もう二度と会えないのではないか』などという、最悪の想像がぐるぐると回っていた。胸中には嵐の夜のように、漠然とした不安が渦巻いていた。
(大丈夫だよね……)
ノラが今にも泣き出しそうな様子で蹲っていると、足元の地面に影が落ちた。
「ノラ……?」
視線を上げるとガブリエラがいて、ノラの顔を心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫?顔色が悪いわ」
ガブリエラはノラの腕を掴んで立ち上がらせると、孤児院の中へ誘った。
ガブリエラはノラを食堂に通し、手ずから熱いお茶を淹れた。広い食堂の中はぽかぽかと暖かく、子供達が廊下を走りまわる音が絶えず響いていた。
「あなたがここにきた理由はわかっているわ」
ガブリエラはノラの目の前に、そっとお茶のカップを置いた。
「サリエリのことでしょう?」
読心術に長けたガブリエラには、ノラの考えなどお見通しのようだった。ノラが小さく頷くと、ガブリエラは口角を持ち上げて、にっこりと嬉しそうな顔をした。
「……サリエリがヴォロニエに向ったのはね、ヴォロニエ侯爵様に、下宿を紹介していただくためなの」
「下宿……?」
「タリスン院長先生は孤児院で十分だと仰ったのだけれど……短い期間とはいえ、これから国立魔学校に入学しようという子供が、治安の悪い下町で暮らすのはあまり良いことではないから……いえ、孤児院が悪いと言っているわけではないのよ」
ガブリエラは慌てて訂正した。
「知らない土地に一人では彼も不安だろうし、なにが起こるかわからないでしょう?だから国立魔学校に入学するまでの間、サリエリを預かっていただけるお屋敷がないか、うかがいに行ったの。サリエリは下宿先で、お作法などを勉強しながら過ごすというわけ」
ガブリエラの丁寧な説明を聞くと、ノラはちょっぴり安堵して頬を緩めた。
「ヴォロニエ侯爵様ならきっと信頼できる方を紹介して下さるわ。デムターさんも付いているのだし、大丈夫」
「?……デムターさんも、一緒なんですか?」
ノラは首を傾げた。
「そうよ。この計画はデムターさんの発案なのよ。サリエリは本当に良い後見を持ったわ」
「…………」
「良い友達もね」
ガブリエラはしみじみと言い、ノラははっとしてその顔を見た。彼女は優しい眼差しで、悩み惑うノラを見つめていた。
「ねぇ、あなた覚えてる?みんなの前でサリエリを打ったこと。たった半年前のことよ」
意地悪なガブリエラは古い話を持ち出して、くすくすと笑った。
「あ、あれは……」
ノラは羞恥に頬を染め、縮こまった。カップの中で揺れる液体を見つめていると、当時の記憶がよみがえってきた。
(知らなかったのよ……)
ノラは心の中でそっと言い訳した。
あの頃は、なにも知らなかった。サリエリがいかに強く、聡明で、情愛こまやかな少年であるかということ。小さなことに拘っていじけていた自分に、どうして想像できただろう。憎き敵のことを、こんなにもいとしく思える日がくるなんて……
「この半年間で、あなたすごく成長したわ。我がままを言わなくなったし、他人を思いやれるようになった」
ガブリエラは笑みを深くした。
「あなたはきっと、素晴らしい大人になるわね」
ガブリエラはノラの未来を確信して言い切った。ノラの目に、じわりと涙が滲んだ。
(うそよ……)
本当に成長したなら、友達を一人で旅立たせたりしない。取り返しがつかない数々の失敗が思い出され、ノラの胸には、後悔の波がどっと押し寄せてきた。
ずっと隣同士の席に座っていたのに、時間はたくさんあったのに、どうしてもっと早く気付かなかったんだろう?出発の日取りを聞いた時、なぜ一日でも長く傍にいようと思わなかったんだろう?限られた時を、大切にできなかったんだろう?
癇癪を起こしたばかりか、意地を張って居留守なんか使って……
(馬鹿っ……)
時計の長針が半周するほどの長い間、ノラは机に突っ伏して忍び泣いた。ガブリエラはノラが泣きやむまで、黙って付き合ってくれた。
「そろそろ帰りましょうか。家まで送るわ」
ノラが泣き止んだところを見計らって、ガブリエラが立ち上がった。ノラはすっかり冷めたお茶をぐびぐびと飲み干してから、ガブリエラに続いた。
ガブリエラが食堂のドアを開けると、聞き耳を立てていた子供達が、蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。
一人逃げ遅れたロザンナ・ニコリッチが、ガブリエラの後ろに立つノラを、好奇心いっぱいの瞳で見上げた。
「ロザンナ、ここでなにしてるの?盗み聞きなんていけないことなのよ」
ガブリエラは腰をかがめて、ロザンナをめっ!と叱った。ロザンナは動じることなく、それどころか面白そうに顔を綻ばせた。ガブリエラは小さなため息をついた。
「……まあ良いわ。紹介しましょう」
ガブリエラはノラをロザンナの前に引っ張り出した。
「こちらはノラ・リッピー。ロザンナより四歳年上のお姉さんよ。知っているわよね?」
ガブリエラが確認すると、ロザンナは自信たっぷりに頷き……
「サリーのお嫁さんよ」
などとからかって、ノラをぎょっとさせた。
「お嫁さんじゃなくて、お友達よ。……んもう。おませさんで困っちゃうわね」
ガブリエラは訂正して、ロザンナの鼻を指先でちょんっと突いた。悪戯が成功したロザンナはご満悦でくすくすと笑った。
「かわいい顔してるからって騙されちゃ駄目よ。こう見えてわるなんだから」
ガブリエラは頬を赤らめるノラに、口を尖らせて忠告した。
「はあ……そうなんですか?」
「そうなのよ。ロザンナはここでは無敵なの。みんなが甘やかすからすっかり調子に乗っているのよ。……ねー、ロザンナ?ロザンナはお姫様よね?」
ガブリエラがからかって、ロザンナは『いかにも』と胸を反らして頷いた。
「そう言えば先生、孤児院になにか用事があったんじゃないですか?」
廊下に出たところで、ノラはガブリエラにたずねた。
「そうだった!タリスン院長先生にお話しがあるのだわ!」
ガブリエラはノラを残して、慌ただしく二階の院長室へ駆けて行った。
ガブリエラが離れて行くと、入れ替わるように、階段の下や物陰に身を潜めていた子供達がわっと集まってきた。
取り囲まれたノラは、なにごとかと身構えた。学校に通っていない彼等とは、あまり話す機会がない。そのためノラは少し緊張した。
ノラがおろおろしていると、年長のシンシア・マーケットがノラの前に進み出た。
「私達、あなたとお話したいだけなの」
「?……私と?」
にやにやする子供等を見回して、ノラは首を傾げた。
「ガブリエラ先生がね、あなたのことばかり話すのよ。ノラは孤児院の子供達より汚れてるって。まるで綺麗なお洋服を憎んでいるみたいだって!」
シンシアが言うと、子供達はたまらず笑い出し、ノラは熟れたリンゴのように赤面した。
「この間はびっくりしちゃった。孤児院に忍び込む子なんてはじめてよ。タリスン院長先生、次の日になってあなたがいないことに気付いて、しばらく捜し回っていたわ」
「あんなの、もう五か月も前の話じゃないの……それに私、忍び込んだつもりないわ。サリエリに会いに来たら、どういうわけか、ああいうことになっちゃったのよ」
ノラは腹を抱えて笑い転げる子供達をじろりと睨み、口を尖らせて弁解した。
「院長先生はそそっかしいから……」
チャック・ノーマンが小声で呟くと、子供達はそうだそうだと頷き合った。
「……そんなことより、私になにか話があるんでしょ」
みんながあんまり笑うので、ノラは不機嫌になって先を促した。
「二人でミミエスまで行ってきたんだろ?院長先生もサリエリも、ぜんぜん話してくれないんだ」
男の子のフランシス・コーエンが不服そうにぼやき、ノラは彼等の用事を察した。
「妖精に会ったって本当?」
「ミミエスの孤児院ってどんなだった?先生は怖かった?」
ガブリエラが戻ってくるまでの間、ノラは子供達にせがまれるまま、旅の思い出を話した。ノラの口から語られる、はらはらどきどきの大冒険に、子供達は目を輝かせた。