サリエリがいない
著作権は放棄しておりません。
無断転載禁止・二次創作禁止
日が沈み、辺りがすっかり暗くなったころ、ようやく家に帰り着くと、玄関の前でオリオが待っていた。
「ノラ……お帰り」
ノラはオリオを無視してさっさと家に入ると、夕食まで二階の自室に引きこもった。ノラは町に戻ってきてからずっとこの調子で、オリオを避け続けていた。
オリオはノラの強情に、ほとほと参っている様子だった。
「あまりオリオを責めないであげて。本心では悪かったと思っているわよ」
日に日に元気をなくすオリオを哀れに思った母は、そう言ってノラを諭した。
「あの子、とても心配していたのよ。森中を探し回って、あなたが帰ってくるんじゃないかと、毎晩遅くまで明かりを点けて……」
「…………」
「そろそろ許してあげたらどう?」
その夜遅く、ノラがベッドの中で取り留めのないことを考えていると、オリオがそっと部屋に入ってきた。オリオは足音を忍ばせてベッドに近寄ってきて、寝た振りするノラの顔を覗き込み、ほぅ。と安堵の息をついた。
「……あの日、お前を一人で家に帰したこと、本当に後悔してるんだよ……」
オリオは囁くような小さな声で、眠っているノラに話しかけた。たぬき寝入りがばれているのかと思って、ノラはぎくりとした。
「お前の気持ちも知らずに、憂さ晴らしに酒なんか飲んで、悪いお兄ちゃんだよ……」
オリオはノラの寝顔に向かって懺悔した。
ノラはおそるおそる薄眼を開けた。久しぶりに見るオリオの顔は疲れ切っていて、ノラははっとした。
「……無事に戻ってきてくれて良かった……」
もしかして、毎晩こうして覗きにきているのかもしれない。ノラが部屋を抜け出していないかどうか、ちゃんとベッドの中にいるかどうか、確認せずにはいられないのだ。
怖い思いをさせてしまったのだと気付くと、ノラは罪悪感に苛まれた。同時に、今までのひどい態度を思い出し、人知れず唇を噛んだ。
オリオは大きなため息をついて、そっと部屋を出て行った。
次の日、出かける支度を済ませたノラは、裏の井戸で母の代わりに洗濯しているオリオの元へ向かった。銀行の仕事を辞めたオリオは毎日家にいて、家事を手伝ったり、家の修繕をしたりしている。
「お兄ちゃん……」
ノラが声をかけるとオリオは驚き、せっかく絞った洗濯物を水おけの中に落とした。
「学校まで、送って行ってほしいの……」
駆け寄ってきたオリオに、ノラはもじもじして言った。
「ああ……!もちろん、良いよ!ちょっと待ってろな。直ぐに支度してくるから!」
オリオは顔をくしゃくしゃにして、嬉しそうに笑った。
ノラは慌てて支度してきたオリオに、学校まで荷馬車で送ってもらった。
「このまま二人でどこかへ遊びに行っちゃおうか?お兄ちゃん、森で狐の巣を見つけたんだ。ね、そうしよう」
道中、ノラに許されたオリオは終始ご機嫌で、いつもなら絶対言わない冗談を言ってノラを困らせた。
学校に到着するとオリオは帰って行き、入れ違いにガブリエラと生徒達を乗せた荷馬車がやってきた。クラスメート達は―――ウォルソン姉弟、デイビッド・ホールド、ジャン・ピッコリ、エレオノーレ・アレシ、ジャック・フォローズ、アガタ・デビまで!―――ノラの姿を見つけると荷台から 飛び降りて、我勝ちに駆け寄ってきた。
「おはようノラ!もう登校してきて良いの?」
「私たち、一昨日会いに行ったのよ!オリオに追い返されちゃったけど!」
みんなはノラの冒険話を聞きたがった。そのうち教室からアベルやマルキオーレ、ジノ、ヨハンナも出てきて、ノラの周りには人だかりが出来た。みんなに注目されてちょっぴり鼻を高くするノラを、ガブリエラが『けしからん!』という風にじろりと睨んだ。
「聞いたよ。二人でミミエスまで行ったんだろ?すごいなあ!」
「いいなあ!いいなあ!俺も旅に出てみたいなあ!」
特に男の子達は羨ましがった。ベン・ウォルソンは「来年は俺も家出する!」などと宣言してみんなを呆れさせ、ジャン・ピッコリはノラを尊敬の眼差しで見た。
ノラは凱旋した戦士のような気持ちになったが、クリフォードが人立ちに背を向けて教室に入ってしまうと、誇らしい気持ちはあっという間に萎んでしまった。
「クリフ、すごく心配してたんだよ……どうしても捜しに行くと言って聞かなくて、しまいには牢屋に入れられたんだ……」
ノラがクリフォードの背中を寂しそうに見つめていると、アベルが説明した。
「えっ……」
「取り乱して、見ていられなかったよ。あんな彼は見たことがないよ」
心配してくれたのだと思うと、ノラの胸には希望のようなものが湧いた。もしかしたらこれを切っ掛けに、元通りの仲良しに戻れるかもしれない。
「……たぶん、お母さんと重なったんじゃないかな……」
ノラのそんな淡い期待は、次の瞬間には粉々に打ち砕かれた。
アベルはノラの顔色をうかがいながら、言い難そうに呟いた。ノラはぎくりとした。
(そうだ……)
クリフォードの母親のカティナも、息子である彼を置いて、ある日突然町を出て行ったのだ。同じことをしてしまったのだと気付くと、ノラは頭を鈍器で殴られたようなショックを受けた。
「…………」
クリフォードはひどく傷付いたに違いない。
靴の先に視線を落とし苦々しい顔をするノラを、アベルとマルキオーレは同情的な目で見た。
その日、クリフォードは頑なに顔を背けて、ノラとの会話を拒否した。謝罪を受け入れる気はないようで、ノラはますます落ち込んだ。
「しばらくそっとしておこう……そのうち許してくれるよ……」
授業の開始時間になり、みんなに続いて教室に入ると、ノラはサリエリの姿を探した。
「よく平気で学校に出てこられたわね。ずうずうしい人ね」
教室にサリエリの姿はなく、かわりにシルビアが待ち構えていたように嫌味を言った。すると少し前を歩いていたカレンとエレオノーレが、顔を見合せて噴き出した。
「あんなこと言って……あなたがいなくなってからあの子、落ち込んじゃって大変だったのよ。一昨日もお見舞いに行くか行かないかで大騒ぎしたんだから」
「カレン!よけいなこと言わないでちょうだい!」
シルビアはぷりぷり怒って、席に戻ってしまった。カレンとエレオノーレはその様子を見て、お腹を抱えて笑った。
「当分あなたの席はここよ。少なくとも次のテストまではね」
ガブリエラはノラを教室の一番後ろの席に案内し、いやみったらしく言った。
「先生、サリエリは?」
ノラは教壇に戻ろうとするガブリエラをつかまえてたずねた。
「サリエリもこの一週間学校に来ていないのよ」
「え……!な、なんで……!?」
「さあ……?一度様子を見に行ったんだけど、会えなかったの。でもまあ、そう心配することもないでしょう。理由はたぶんあなたと同じよ」
ガブリエラは楽観的に推測し、ノラを納得させた。
授業が終わると、ノラは真っ直ぐ家には帰らず、孤児院へ向かった。
サリエリは教会の先の川原にいた。彼の傍らには孤児院の子供達全員分の食器がうずたかく積み上げられていて、それらを一枚一枚丁寧に水で洗い、ぼろ切れで拭うという作業をしていた。
ノラは黙々と仕事に励むサリエリの姿を、少し離れたところから観察した。
一週間ぶりに見たサリエリは、ノラが知っている彼とは別人のように見えた。事実、今の彼は頼りになる旅の相棒ではなく、孤児院の食器洗い当番だった。
旅の間はお互いを家族のように感じていたのに、それぞれの暮らしに戻ってみると、二人を結び付けるものは案外少なかった。どちらかが会いに行かなければ、たぶん、一生顔を合わせずに暮らせるんだろう。そのくらいに二人は他人だった。
「…………」
ノラにはノラの、サリエリにはサリエリの生活があり、以前のようにお互いを身近に感じることはないのかもしれない。そう思うとノラの胸は寂しさに締め付けられた。独りの時間はこの一週間で十分だった。
ノラがうずうずしながら見つめていると、サリエリがこちらに気付いた。
「そっちに行ってもいい……?」
ノラは目を丸くするサリエリに、遠慮がちにたずねた。サリエリの許可が下りてから、ノラは傍に寄った。
ノラはサリエリの隣に腰掛け、黙ってサリエリの仕事を手伝った。サリエリが洗った食器を受け取って、ぼろ切れで拭く。何度も繰り返し、すべての食器を片づけ終えた後、ノラは口を開いた。
「どうして学校に来ないの?タリスン院長先生が、行っちゃだめって言ったの?」
ノラがたずねると、サリエリは少し迷って首を横に振った。
「……もしかして、私のせい……?オリオが殴ったりしたから?」
ノラは今度はおそるおそるたずねた。サリエリは再び、先程より強く首を横に振った。嫌われたのではないかと危惧していたノラは、少しほっとした。
「じゃあ、どうして?なにか学校に来られない理由があるんでしょ?」
「…………」
「私には言えないこと?」
サリエリはノラの質問には答えず、そっと目を伏せた。ノラはため息を零した。
「……学校においでよ。あんたと遊ぼうと思って、いろいろ計画したのよ」
「…………」
「スキーはできる?こう見えて私、結構うまいの。雪が積もったら、どっちが早いか競争しましょ」
ノラはたくさん遊びのアイデアを披露したが、サリエリは俯いて、悲しげに瞳を揺らすばかりだった。最初は自信たっぷりに話していたノラだったが、だんだん不安になって、やがて口を噤んだ。
その後、サリエリは綺麗になった食器を抱えて、孤児院に帰っていった。忙しいサリエリには皿洗いの他にも、タリスン院長先生から申し付けられた仕事が、山ほど残っているのだった。