帰ってきた
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翌朝、小鳥の声で目を覚ましたノラは室内を―――見慣れた壁や、天井や、勉強机、隣で眠るミライを―――見回して、ほう、と息を吐いた。帰ってきたんだ……
カーテンのない窓から差し込んでくる強烈な朝日。一階から響いてくる母の忙しい足音。美味しそうな朝食の香り。起きるには早い時間だったが、とても寝ていられなくて、ノラは身支度を整えると慌ただしく部屋を飛び出した。
キッチンには父と母がいて、ノラが起きてくるのを待っていた。
「今日は学校はお休みしなさい」
ノラが食卓に着くと、スープを出してやりながら母が言った。
「学校へ行くより、やらなければならないことがあるだろう?違うかい?」
ノラが残念そうな顔をすると、父が言った。ノラはちょっぴり緊張して頷いた。
「食事が終わったら、聞かせておくれ。君が家を出て、どんな冒険をしてきたのか……」
ノラはゆっくりと味わって朝食を食べた。
食後のお茶を飲みながら、ノラは家を出てから体験した数々の出来事を、両親に話して聞かせた。
隣町に向かう途中で人攫いに捕まったこと、アイウセス領との領境で命からがら逃げ出したこと、途中で妖精に助けてもらったこと、最後にたどり着いたミミエスでは、ホテル・クリンゲルという店で働いていたこと。
「それで、ある日憲兵に捕まって、孤児院に入れられたの。憲兵はチェスター・モグ……モグ……なんだっけ?……とにかくおじさん、すごくしつこいのよ」
殺人鬼シュテファン・ババコワのことは話さなかった。わざわざ話して、怖がらせたくなかったからだ。
両親は赤くなったり青くなったりしながら、面白おかしく脚色された話に聞き入った。ノラが話し終えると、両親は顔を見合せて、ふーっと長い息を吐いた。
「我々も悪かったと思っているんだ。大人がとるべき態度ではなかったと反省しているよ。ノラのことを放ったらかしにするなんて、どうかしていたよ」
父はノラの家出の原因を、両親の夫婦喧嘩と結論付けて言った。
「ノラ一人が悪かったんじゃないとはいえ、たくさんの人に心配をかけたんだ。罰は受けなければならないよ。わかるね?」
「はい、お父さん」
父はノラに、お尻叩き10発と、一週間の自宅謹慎を申し渡した。謹慎中は学校にも行かず、家でゆっくり静養するようにとのことだった。もちろん友達と遊ぶのも禁止。
友達に会えないのは寂しいが、想像していたよりもずっと軽い罰だ。ノラは素直にお尻を差し出したのだった。
それから1週間、時々シュテファンに追い掛けられる悪夢を見る以外、毎日は平穏そのものだった。ノラは母と一緒にパンを焼いたり、父が買ってきてくれた新聞を隅から隅まで読んだり、ミライとゲームや昼寝をしたりして過ごした。
謹慎3日目には、校長先生とガブリエラ、サインツ、ヘルガの四人が訪ねてきた。彼等はノラの話を聞きたがったので、ノラは父や母にしたのより、ちょっぴりオーバーに話してあげた。サリエリの活躍もたっぷりと盛り込んだ。
サリエリといえば、ノラが謹慎を食っている間彼は一度も家に訪ねて来なかった。こっそり会いに来るかも知れないと期待していたノラは、少しがっかりした。
「…………」
オリオに「八つ裂きにしてやる!」なんて言われたので、尻込みしているんだろう。でなければ、やはり怒っているのだ。
「はぁ……」
ノラは1日に何度も悩ましげなため息をつき、サリエリが家の前を通ることを期待して何時間も窓辺に座り、手紙が来ていることを願ってちょくちょくポストを覗いた。
「……愛って難しいのね……」
「???」
ノラの不可解な行動は、母やミライを不思議がらせた。
ある夜、ベッドに入ったノラは天井を見つめながら、固く決意した。
謹慎が解けたら真っ先に、サリエリに謝りに行こう。サリエリは優しいので、ちゃんと謝れば許してくれるはずだ。
そして仲直りできたら、いろんな遊びを教えてあげよう。
(……ふふっ)
この季節なら、きのこ狩りや栗拾い。冬になったらスキー、スケート、雪合戦、みんなで力を合わせて、かまくらを作っても良い。サリエリは忙しいので時間は限られているが、帝都へ出発するまで、あと三か月近くもある。思い出を作るには十分だ。
(そうだ……!)
母に頼んで、刺繍を教わろう。イニシャル入りのハンカチなどプレゼントしたら喜ぶに違いない。これからどんどん寒くなるので、マフラーや手袋を編んでも良い。
(毛糸って、いくらくらいするんだろう……?)
その夜、ノラの頭には素敵な計画が次から次へと浮かんで、なかなか寝付けなかった。日付が変わる頃、ノラはサリエリの驚く顔や喜ぶ顔を想像しながら眠りについた。
謹慎最後の火曜日、ノラは両親に許可をもらい、ミライを連れて外出した。
『どこへ行くんだ?』
「先生にミライを紹介するの。お行儀良くするのよ」
秋の気配が深まる田舎道を荷馬車で3時間ほども走り、ノラとミライは町はずれの森までやってきた。森の奥にはれんが造りの、風変わりな家が一軒建っていた。
ノラは家の脇に荷馬車を停めると、ミライが入った鞄を持って、家の戸を叩いた。
「やあ、きたか」
ほどなくして顔を出した家主は、まるで来ることがわかっていたように言った。通された書斎には2人分の来客用のカップが用意されていて、ノラは目を丸くした。
「なにを隠そう、私には未来が見えるのだ」
ノラの疑問に答えるように、サインツが冗談めかして言った。鞄の中のミライが勘違いして、ぴょーんと飛び上がった。
「冗談だ。そのうち来るだろうと思って、昨日も一昨日も準備していたのさ。驚いたかね?」
サインツはしたり顔で種明かしをした。
「今日は先生に紹介したい子を連れてきたんです」
ノラは鞄の中からミライを出して、サインツの目の前の机に置いた。
「なんだね?新種のねずみ……いや、豚?リスか?」
「ミライって言うんです。ほら、ご挨拶して」
ノラが背中を押すと、ミライは突然机の上を駆け回りはじめた。
『ちゅー』
ミライはまるで本物のねずみのように鳴いて、豚みたいに潰れた鼻をひくひくさせた。ノラはぎょっとした。
「珍しい種類の獣だな。研究してみるのも面白いかも知れん。旅先で捕まえたのか?」
「い、いえ……はい、そうなんです……」
ノラは仕方なくミライを鞄の中に戻した。これじゃあ悪魔だなんて、信じてもらえない。
サインツはノラを椅子に座らせると、慣れない手つきで茶を淹れた。
「ど、どうも……」
目の前にそっとカップが置かれると、ノラは少し緊張した。
つい勢いで訪ねてきてしまったが、いざサインツを目の前にすると、なにから話せば良いのかわからなかった。言いたいことや聞きたいことがあり過ぎて、考えがまとまらない。上手に話せる自信がない。
「…………」
はじめから、すべてを話そう。ようやく決心がついたのは、サインツが淹れた少し渋い茶をすっかり飲み終えた頃だった。
「……それで、どうだったね?君の目で見たこの国は」
ノラが思案するのを黙って見ていたサインツは、頃合いを見計らって質問した。答えるべく、ノラは口を開いた。
「恐ろしいことがたくさんありました……今思い出しても、信じられないような……」
ノラはサインツに、町の外で自分が見てきたものを話した。父や母にしたのとは違う、真実の話だ。
言葉巧みに子供を騙す人攫いの男達、家族を養うために身を売った少年、孤児に盗みを働かせるホテルの女支配人、浮浪者で溢れ返ったミミエスの路地裏、殺人鬼シュテファン・ババコワと、その最期。
ノラのたどたどしい話を、サインツはじれったいなんて言わずに静聴した。
「物語の中だけの話だと思っていたんです……」
飢えるほどの貧しさや、自らの欲望のために人殺しも厭わない因業な大人達、命がけの冒険。それ等はすべて、言うことをきかない子供を諭すための方便だと思っていた。平和な日常に戻った今では、遠い世界の出来事に思えた。
ノラが小一時間もかけてすべてを話し終えると、つかの間の沈黙が流れた。
ノラは重たい荷物から解放されたような気持ちで、新たに注がれた茶をちびちび啜った。本当はずっと誰かに話したかったのだ。
サインツは憑物が落ちたようなノラの顔を満足そうに見た。
「このヴォロニエ領は、余所の土地に比べてとても恵まれているのだよ。肥沃な大地は農作や酪農に適し、塩害地域や北方の豪雪地帯のように大災害に見舞われることもなければ、長年対策を講じてきたおかげで害獣に田畑を荒らされる心配もない。
それでも餓死者が出るほど、この国は疲弊しているのだ。町には失業者が溢れ、男達は出稼ぎに旅立ち、帰ることもままならず、残された女達は一時の飢えをしのぐために子供を売る。男手のない村は盗賊に襲われ、次々と地図の上から消えて行く。
君が見たのは、帝国に蔓延する闇のほんの一部分だ。多くの地域では未だに家畜と奴隷が一緒に売られているし、指導者のいない町ではたくさんの人が、風邪や食当たりで命を落としている」
ノラは真剣に耳を傾けた。3か月前に聞いたなら、そんな馬鹿なと一蹴したかもしれない。それほどにオシュレントンは平和そのものだった。
「長きにわたる侵略戦争が、国民を苦しめているのだ。知っているかね?一般に領と呼ばれている土地はその昔、それぞれが1つの国だったのだよ。このヴォロニエもかつては偉大なるヴォロニエ王家が治める王国だった。君の体にも、ヴォロニアンの血が流れている」
「ヴォロニアン……?」
「誇り高きヴォロニエの民という意味さ。今では使う者もいないがね」
帰る時間が来るまで、ノラとサインツは何杯もお茶をお代わりし、いろんな話をした。ノラがいない間に町で起こった出来事や、夏休み前のテストの結果―――ジャック・フォローズが一位に返り咲き、アガタ・デビが5つも順位を上げていた―――など、この一週間、話し相手は母とミライだけだったので、他愛ないおしゃべりは、思いの外楽しかった。
「そういえば、そろそろ学芸大会の準備をはじめなけりゃ」
小腹が空いたのでキッチンでスープを食べていると、サインツはふと思いついたように言った。12月の学芸大会は、学校に通う子供達が感謝の気持ちを込めて、保護者にお芝居や音楽を披露する、ノラが最も忌み嫌う催しだ。
「え、もうですか?」
「ああ。ガブリエラ先生に台本の用意を押し付けられてしまってね。私はこの手のことは苦手で、どうしたものかと参っているよ」
「はあ……先生にも、苦手なことがあるんですね?」
「そりゃそうよ。私だって人間だもの。……君、手伝う気ないかね?特別に良い役をあげるよ」
「結構です。通行人で十分です」
あがり症のノラと大根マルキオーレと無口なサリエリは、毎年通行人その一、その二、その三と決まっている。
ノラがきっぱりと拒否すると、サインツは不思議がった。
「そうなの?君は頭が良いんだし、てっきり重要な役をやるとばかり……体を使った自己表現は嫌いかね?相手役はたぶん、クリフォードだぞ」
見た目が整っていて物覚えの良いクリフォードは、主役か、それに準ずる役を与えられることが多い。実際、毎年クリフォードの相手役をめぐって、少女達の間では小さな争いが起きる。
「……クリフの相手なら、私がやらなくてもみんなやりたがります」
「そうかい?……まあ、それも君の個性なんだろう。無理強いはしないよ」
午後三時頃、ノラはサインツに別れを告げて帰路についた。荷馬車に揺られてしばらくすると、鞄の中からミライが這い出してきた。
『やっと外に出られた……』
「やっぱりわざとだったのね。どうしてねずみの振りなんてしたのよ?」
ノラは口を尖らせて、御者台の上で大きく伸びをするミライにたずねた。
『悪魔の主人として自覚がないのも困りものだな』
「?どういう意味?」
『言葉のままだ。いずれ今日のことを感謝する日が来るだろう』