帰郷
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礼拝堂の扉が荒々しく開かれ、家族が駆け込んできたのは、翌日の午後のことだった。
「ノラ!」
「お、お母さん……!」
いつも通りサリエリと二人で礼拝堂の隅の方の席に座っていたノラは、両手を広げて駆けてくる母の胸に飛び込んだ。
「心配したのよ!もう二度と帰ってこないんじゃないかって……!」
母はノラの体をぎゅうと抱き締め、涙した。このひと月半の間に母は痩せて小さくなっていた。
首筋に母の熱い涙を感じると、ノラは自分がいかに愚かで、浅はかだったかを悟った。
「ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……」
ノラは母の体をきつく抱きしめ返し、生きて再び会えたことに感謝した。この胸に帰って来られて、本当に良かった。
「ノラ、無事で良かった……」
父は大きな手の平で、そっとノラの頭を撫でた。安堵の息を漏らす父の顔も、へとへとに疲れきっていた。
サリエリは離れたところから、少しの寂しさと羨望の入り交じる瞳で、ノラと家族の再会を見つめていた。後から礼拝堂に入ってきたオシュレントン孤児院の世話係、ラーラ・アクロイドがそっと彼に寄り添った。
長い抱擁の後、ノラはもう一人の家族、オリオの姿を探した。いつもなら真っ先に駆け寄ってくるのに、オリオは礼拝堂の入り口に立ち尽くし、血走った眼で一点を睨んでいた。
「?……オリオ?」
「…………」
オリオの視線の先にはサリエリがいた。オリオはつかつかとサリエリに歩み寄ったかと思うと、その胸倉を掴んで、左の頬をがつん!と殴り付けた。
突然の出来事に、ノラはぎょっと目を剥いた。
「オリオ!?なにするの……!?」
横殴りにされたサリエリは、礼拝堂の硬い床に、強かにその身を打ち付けた。オリオの怒りは、サリエリが地面にひれ伏してなお静まらなかった。
「どうして町から連れ出したりしたんだ!どうしてノラなんだ!俺達になにか恨みでもあるのか!?」
オリオは頬を抑えて目を白黒させるサリエリに向かって、めったやたらに捲くし立てた。
「女の子を危険な目にあわせるなんて、お前はそれでも男か!ノラにもしものことがあったら、どう責任を取るつもりなんだ!」
「…………」
「この誘拐犯め!」
オリオはサリエリを口汚く罵り、掴みかかろうと手を伸ばした。ノラはとっさにオリオの腕にすがり付いた。
「違うのオリオ!私が……!私が町を出たいって言ったの……!サリエリは心配して付いてきてくれただけなの!」
「……お前は黙ってろ!」
「きゃっ!」
怒りに我を忘れたオリオはノラの手を乱暴に振りほどいて、サリエリの胸倉を掴んだ。
「いいかよく聞け!今後一切、俺の妹に近付くことは許さない!次にこんなことをしてみろ!お前を八つ裂きにしてやるぞ!!」
オリオに脅迫されたサリエリは、呆然とするばかりだった。その瞳はオリオの赤ら顔を映して、ゆらゆらと揺れた。
温厚な兄がこんなにも感情を露にするのは珍しく、ノラは困惑した。
誤解を解かなければと思うのに、喉がひくついて、上手く声が出ない。ジレンマに陥ったノラは、めそめそと泣き出した。
「もうそのくらいにしておきなさい」
見かねた父が、サリエリの胸倉をつかむオリオの手に、そっと自分の手を重ねた。
「でも、父さん……!」
「原因の一端は我々にある。悔しい気持ちは分かるが、他人を責めても解決しないよ」
「…………」
父が諭すと、オリオはしぶしぶサリエリを解放した。
「……君、悪かったな」
父はオリオに代わって謝罪して、尻餅をつくサリエリを立ち上がらせ、服に付いた汚れを払ってやった。サリエリは俯いていたので、どんな表情をしているのかノラにはわからなかった。しかしその瞳は悲しみを湛えているに違いなかった。
頬を腫らしたサリエリは治療のために、ラーラに連れられて礼拝堂を出て行った。
サリエリの惨めな背中を見ると、ノラの胸には後悔と自責の念が、大波となって押し寄せてきた。
「ごめん……ごめんねっ……」
振り向こうとしない背中を追いかけることは、ノラには出来なかった。やがて閉じられた扉に向かって、ノラは謝り続けた。
翌日、町で長旅の準備を整えたノラ達は、オシュレントンに向けて出発した。ノラと家族は四人で一台の馬車を使い、ラーラとサリエリはもう一台の馬車に乗り込んだ。
「オリオの馬鹿!どうして殴ったりしたのよ!サリエリは、私を守ってくれたのよ!」
道中、ノラはオリオを責め続けた。
話を聞こうともせずサリエリを殴ったオリオのことが、どうしても許せなかった。謂れのない非難を受け、言い返すこともできず、サリエリはどんなに悔しかったろう。
「何度も危ないところを助けてもらったのよ!サリエリがいなきゃ、今頃死んでたわ!」
あんな酷いことを言って、今度こそ本当に嫌われたかもしれない。せっかく仲良くなれたのに、オリオのせいでかけがえのない友情を失ったかと思うと、彼に対する怒りはいっそう強くなった。
「謝ってよ!サリエリに謝ってよー!」
ノラは帰りの馬車の中でさんざん喚き散らしたが、オリオは一向に態度を変えようとしなかった。ノラがどんなに訴えても、「サリエリとはもう会うな」と言うばかり。
説得が無駄だとわかると、せめてもの抵抗として、ノラはオリオを無視し続けた。オリオの顔は絶対に見ないし、オリオの言葉には返事をしない。
御者を務める父はともかく、母は困ってしまって何度かノラを諭そうとした。しかしノラは馬車がオシュレントンに到着するまで、頑なに冷たい態度を貫き通した。おかげで、馬車の中はずっと気詰まりな雰囲気だった。
馬車がオシュレントンに到着したのは、ミミエスの町を出てから五日後の朝方だった。町の入り口では、ノラとサリエリを心配する多くの人々が―――カルカーニ夫妻やライラ・ポワソン、メリダ・ランベル夫人、ガブリエラやサインツ、ヘルガ、校長先生、デムターさん、孤児院のギネヴィア・タリスン院長先生など―――首を長くして馬車の到着を待っていた。
「皆さんにきちんと謝るのよ」
母に促がされてノラが馬車を降りると、真っ先にアベルとマルキオーレが駆け寄ってきた。人々は顔を見合せ、安堵の表情を浮かべた。
「ノラが誘拐されたかもって聞いて、このままお別れかと思ったら、俺、俺……!」
アベルとマルキオーレは、ノラの無事を心から喜んだ。我慢強いアベルまでもが涙しているのを見て、ノラはすまなく思った。
「良かった……ノラが無事で、本当に良かった……!」
「心配かけてごめんね。私も、また二人に会えて良かった!」
ノラは友人達と抱き合いながら、この町を旅立った日のことを、ぼんやりと思い出した。あの時はもう二度と町に戻ってこないつもりで、しかしやはり心のどこかで『その気になればいつでも帰って来られるさ』などと考えていたように思う。
ノラはアベルとマルキオーレの肩越しに、喜び合う人々を―――お隣のカシマが奥さんのアンジェラにキスしたり、もらい泣きしたガブリエラがヘルガの肩にもたれかかって、サインツに借りたハンカチで涙を拭ったりするのを―――見た。みんな早起きして待っていたので、少し眠そうだった。人々の後ろには見慣れた、美しい緑が広がっていた。
「昨日ならもっと出迎えがいたんだがなぁ」
母が馬車を降りるのを手伝ってやりながら、デムターさんが笑って言った。
「すみません、途中で馬が足を痛めて、一日遅れたんです」
「良いんだ。何事もなくてなによりだよ」
「なにからなにまで、本当にありがとうございました。お借りしたお金は、必ずお返ししますから」
ノラがアベル達と再会を喜んでいると、人垣が二つに割れて、中心からクリフォードが歩いてきた。
クリフォードがノラの目の前に立つと、人々は口を噤み、辺りには水を打ったような静けさが流れた。アベルとマルキオーレは遠慮して脇に避けた。
クリフォードは鋭い眼差しでノラをぎろりと睨み、その剣幕にノラは怖気づいた。
「あのねクリフ……私……」
責められていると感じたノラが、思わず言い訳を口にしようとした、その時。
クリフォードは素早く振り上げた右手を、ノラの左頬に向かって迷いなく振り下ろした。辺りにパシン!と乾いた音が響き、成り行きを見守っていた人々は思わず目を逸らした。
「あ……」
ノラはクリフォードの頬に、うっすらと涙の痕があることに気が付いた。
クリフォードはへの字に引き結んだ口を開かず、踵を返した。去って行くクリフォードの背中を、ノラは動くこともできずに、放心して見詰めた。彼が完全に道の先に消えてしまうと、ノラの両目からは大粒の涙が溢れ出した。
「……さあノラ、皆さんに言うことがあるでしょう?」
ノラは母に促がされて、みんなの前に進み出た。
「本当にすみませんでした……馬鹿な事をして……帰って来られて、良かったっ……」
ノラは家出などという軽率な行動をとったことを悔い、心から反省した。もう二度としないと心に誓い、深々と謝罪した。
その後、ノラはみんなと別れて、家族とともに帰宅した。
家の前に到着すると、ノラはその二か月前に見た姿と寸分違わぬ佇まいに感激した。ノラはいそいそと玄関を開けて中に入り、懐かしい我が家の香りを胸一杯に吸い込んだ。
「疲れたでしょう。片付けは後回しにして、今日はゆっくりお休みなさい」
「はい、お母さん」
ノラはゆっくりと階段を上り、二階の自室へ向かった。
「わっ……」
扉を開けると、窓辺に置かれた腕輪がきらりと光り、もくもくと銀色の煙が出てきた。煙はあっという間に室内に充満し、そうかと思うと、中から身長二メートルもありそうな大男が現れた。
「ただいまミライ」
ノラは大男の赤ら顔を見上げて挨拶した。すると大男……ミライの身体が一回り膨れ、天井にがつんと頭がぶつかった。
『なぜ私を置いて行った!』
ミライは眉を吊り上げ、覆い被さるようにしてノラに詰め寄った。
『逃げるつもりだったのか!?契約を反故にして、ただで済むと思ったか!見ていろ!二度と逃げようなどと思わないように、酷い目にあわせてやる!犬のように四つん這いでしか歩けないようにしてやろうか!それともお前の声を豚の鳴き声に変えてしまおうか!』
怒鳴り声を上げるたびにミライの身体は大きくなり、開けっ放しの扉から、おさまりきらなくなった足の指が飛び出した。そのうち壁や柱がみしみしと悲鳴を上げはじめて、ノラは慌てた。
『そうだ!お前の顔をふた目と見られぬ醜い顔にしてやろう!そうすればあの憎たらしいサリエリのやつも、もうお前に構おうなどとは思うまい!どうだ!参ったか!』
ミライは一息に捲くし立てると、満足したのか、少し縮んだ。
「だ、だってミライ、待っててもぜんぜん帰ってこないし……」
壁際で竦み上がっていたノラは、ミライが落ち着いたところを見計らって口を開いた。言い訳するノラを、ミライは胡散顔で睨んだ。
「ミライを連れて行かなかったこと、とても後悔してるわ。いろいろあったのよ。ピンチの時は、あなたさえいれば!って何度も考えたわ。本当よ!」
ノラがおべっかを言うと、ミライの身体はぐんと小さくなった。
『調子の良いことを言うな。私は裏切られた……』
「裏切ってなんかないわよ。頭に血が上っていて、つい持って行くのを忘れちゃったのよ。気づいた時には、もう人攫いの馬車の中だったの」
ノラはしゃあしゃあと嘘をついて大きなミライに歩み寄り、ふくらはぎの辺りに触れた。
「許してミライ。仲直りしよう」
『…………』
「……もうしないから」
ノラが約束すると、ミライの身体はぼろぼろと崩れ出し、銀色の灰になってしまった。ノラがぎょっとしていると、廊下まで流れ出した大量の灰の中から小さな老人が這い出してきて、ノラの腹に飛びついた。
『……私は寛大なパン焼き窯の悪魔……許すのは今回限りだ』
ミライは恨みがましく言うと、ノラの胸に顔を埋めてめそめそと泣き出した。小さなミライの頭を抱き締めると、ノラは温かい気持ちになった。床を埋め尽くしていた銀色の灰は、ノラが目を閉じている間に、たくさんの蜜蜂に姿を変え、窓からそっと、町中のパン焼き窯に帰って行った。